23 ヒュドールからの至急の知らせ

 慟哭どうこくのような声をあげて泣く小さな体をかかえて、ハイマはベッドに腰を下ろす。長らく小柄な体しか支えてこなかった寝台は、急に大きな質量をかけられてぎしりと不穏にきしんだ。湿っていく胸元は気にならないが、痛々しく震えるルシェをどう慰めていいのか少しだけ迷う。

 結局、ひざに座らせたルシェの背中をとんとんと優しく叩くに留まった。それは幼い頃、自らが泣いている時に乳母うばにされていたことだ。人というのは、されたようにしか相手に与えられない。それ以外にやり方など知らないのだから。

 ルシェにとってハイマのその行為が最善かはわからないが、次第に泣き声は小さくなっていく。それでも背中を叩いてやっていると、やがて泣き声は小さくしゃくりあげる音に変わった。


「ルシェ?」

「ん……」


 呼びかけると、まるでむずがる子供のような返事が返る。

 戦場での彼女は雄々しく、軽やかで、大きく広げた死の翼を羽ばたかせて周囲を蹂躙じゅうりんしていた。その姿がただ一生懸命身に、必死にまとっていた着ぐるみだったのだ。そう、ハイマはルシェ自身を知るにつれてさとった。

 彼女はハイマやリノケロスのような、生来の軍人気質ではないのだろう。本当はもっと柔らかい場所で、大事に大事に育つはずだったのかもしれない。


「おい、ルシェ?」


 すうすうと彼女から小さく寝息が聞こえ始めて、ハイマはトンと自らの肩を叩いた。

 ルシェは嫌々と頭が左右に揺らし、まるで何かにもぐり込もうとするかのように身を縮めていく。今まで眠り続けていたというのに、まだ眠れるのか。そんなことを思って、ハイマは少し笑う。紫音しおんによれば先のルシェの眠りは冬眠のようなものだというので、普通の眠りはまた違うのだろう。


(しっかり食わせねぇとな。)


 膝の上の体の軽さに、そんな決意を新たにする。

 いくらハイマより小柄だといえども、ルシェは軽すぎる。おまけに長らくしっかりした食事をとっていないので、以前よりもさらにせたことだろう。体を清めるときに見てはいるが、せめてもう少し肉づきを良くしておかないと困る。誰がというと、他ならぬハイマが。

 事ここに及んで、ハイマは自身がルシェへ向ける感情を自覚していた。

 アヴレークとの約束は、紫音の言う通り建前でしかない。まるきりの嘘ではないが、それだけであるならばハイマがこうして心を砕き、自ら世話をする必要はなかった。他の誰か、例えば信頼できる使用人にでも任せてしまえば良かったのだ。そうしておけば万が一ルシェに何かあったとしても、それで手は尽くしたとしてハイマの面目は立つ。

 そうしなかったのは、ハイマ自身がルシェを誰かに触らせるのが嫌だったからだ。エヴェンの申し出すら断ったのは、ハイマが己で彼女をいたわってやりたかったからだ。

 そんな感情の起因となるものは、一つしかない。


「俺はお前が好きだよ、ルシェ。起きたらちゃんと言ってやるからな」


 耳元でそっとささやくと、腕の中のルシェが少し身動みじろぎした気がした。


  ※  ※  ※


 ハイマはエクスロスの当主である。例え恋しい相手がいたとしても、ほいほいと逢瀬おうせふけっていられるほど暇ではない。

 いつまで経っても部屋から出てこないハイマにしびれを切らしたのか、紫音に部屋の壁が壊れるほどの勢いで扉を叩かれ、ハイマは渋々ルシェから離れた。ルシェがハイマにしがみつくようにしていたので離れる際に起こしてしまうかとも思ったが、彼女はあっけないほど簡単に離れて寝台で寝息を立てている。


「後でな」


 目が覚めた時に一人であることを不安がらないよう、手近な紙に夜には戻るむねを書き残しておく。ベッドサイドに置けば、ルシェなら見つけられるだろう。

 あるいは、自力で壁に付けられた隣室への扉を見つけるかもしれない。だが、うっかり部屋を出た拍子に誰かがそこにいる恐れもある。いずれこの屋敷内にいる者たちにはルシェの存在を公表するつもりはあるが、一つ大きな問題があることもあって、今ルシェが見つかることをハイマは歓迎していない。


「遅い」


 自室へ戻ると、実に不機嫌そうな顔でハイマをにらむ紫音がいた。にらむと言っても身長差のおかげでほとんど見上げるような角度であり、さほど怖くない。

 むしろ猫が目いっぱい毛を逆立てているようにも見えて可愛らしいとすら思うのだが、この数日のやり取りでそれを口に出すと蹴られることを学習していた。したがってハイマは、悪いなと笑うだけにしておく。それでも何か察するところがあったのか、紫音に軽く足を踏まれた。


「なんだよ」

「顔がうるさかった」

「意味が分からねぇ」


 時々紫音はよくわからないことを言う。首をひねっていると、これ見よがしに溜息ためいきかれた。

 ハイマの疑問はますます深まるばかりである。


「それよりも、ありがとうな紫音」

「何がだ」

「何がってお前……もう自分のしたこと忘れたのか? 大丈夫か?」

「うるさい! 覚えてる!」


 何にも、そして誰にも、まるで興味がなさそうにつまらない顔をして世界を睥睨へいげいしている。そんな風に見える紫音だが、案外反応はいいのだと知った。話しかければ返ってくるし、聞けば応える。それが紫音の中で答えられない範囲のことであれば、率直にそう言う。

 思ったよりも素直で、からかいがいがあって、ハイマはいい拾い物をしたと大変満足だ。


「ルシェを助けてくれただろ。ほら、礼をしてやろう」

「要るかそんなもの! そんな大したことはしてない! 本当に要らないからこっちに来るな!」


 実に嫌そうな顔をして逃げる紫音を、お礼に抱きしめてやりたいハイマが追い詰める。ハイマより小柄な分紫音は素早いが、慌てると意外にもどんくさい彼はきょろきょろと逃げ場を探している。

 そのまま扉から飛び出してしまえばいいものを、そこまでして逃げないのは思い至らないのか、あるいは単純に照れくさくて逃げているだけなのか。どちらなのか聞いても絶対に返事はもらえないことはわかっているので、都合のいいように解釈してハイマは手を広げる。

 じりじりと近づくと同じだけ紫音が逃げるのがどことなく楽しい。人間に備わった狩猟しゅりょう本能というやつだろうか。

 あと少しで捕まえられる。そう思った瞬間、がちゃりと扉が開いた。


「……楽しそうだな」


 この部屋はハイマの私室であり、本来ハイマ以外は扉を叩かずに入室することはありえない。だが現在は仕事部屋としても利用しており、普段仕事をしている時間帯ならば合図なく扉が開くこともままあった。

 じゃれあういい年をした成人男性二人を異世界の生き物でも見るような目つきで眺めているのは、ずかずかと部屋に入ってきたリノケロスだった。彼は淡々とした物言いでハイマに冷や水をぶっかけた後、固まっているハイマから視線を外して机の上に持っていた紙をどさりと置く。


「遊んでいる余裕があって何よりだ」


 鼻を鳴らすリノケロスを見て、膨らんでいた本能が一気にしぼむ。しょんぼりとしたハイマを、紫音がどこか心配そうに見ていた。

 本来こういう場面の正しい反応は安堵あんどだろうと思う。そういう顔をするからつけこまれるのだと、いつか伝えてやるべきだろうか。


「いや、兄さん、あの」

「誰と何を楽しんでいようとどうでもいいが、至急の知らせが来ているぞ」

「え」


 リノケロスは紫音の存在はすっぱりと視界から消しているらしい。一瞥いちべつもしないが、紫音もそれはそれで構わないと以前言っていた。だから特別ハイマも気にしていない。

 それよりも告げられた知らせに慌てて机に飛んでいくと、確かに至急の知らせである赤い印を押された手紙が置かれていた。印章は、三叉さんさの槍。ヒュドールである。


「サラッサか……?」


 サラッサからの知らせと言えば、例の件しか心当たりがない。だが、それをリノケロスがいる前で読むことは憚られた。

 同じく皇太后に面子を潰された感のあるリノケロスではあるが、それが即座にあの女はいらないに繋がるのかは弟のハイマですら測りかねるところがある。

 少なくともこの件については、ハイマの中だけに留めておくのが最適だろう。そう判断してちらりと目だけで様子を伺うと、リノケロスは尊大な態度で鼻を鳴らした。


「安心しろ、さっさと出て行ってやる」


 身をひるがえしたリノケロスが一瞬、紫音を見たような、気がした。

 だがあまりにも一瞬のことすぎて、それがたまたま視線の通り道に紫音がいただけなのかもしれず、彼が紫音に興味を持ったのかはわからない。


「ハイマ、俺もいない方が良いか」

「いや、お前はどっちでも」

「なんでだよ。むしろ逆だろ」


 空気をよく読む紫音がハイマにうかがう。それに心のまま返すと、紫音がわけが分からないという顔をした。

 わけが分からないのはこちらであると、ハイマは首を傾げる。


「まあいいか。どうせやることもないし」


 この部屋を出たところで行く場所もないしな、と紫音は溜息ためいきいて、部屋に置いてある椅子に腰を下ろした。積みあがっている本はハイマが暇つぶしにと紫音に与えたもので、彼はそのうちの一冊を手に取る。

 紫音はその与えられた本たちを、恐るべき速度で読破していた。


「そうそう。ゆっくりしとけ」


 びりりとナイフで手紙を切りながら、ハイマはふと思い出す。


「礼はあとでするからな」


 告げた言葉に、ごとりと本が落ちる音がした。

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