22 お願いだから裏切らないで

 僕を守るなという命令が、納得できたはずがない。

 深く深く沈んでいく。ぎりぎりと首がまっていくような、息が止まっていくような。アヴレークやアスワドを前にした時と同じように、息がうまくできなくなっていく。

 どうして、と。

 問いかけたところで、答えをくれる相手はいない。その人はきっともうこの世にはおらず、物言わぬむくろとなったことだろう。ただそのむくろが愛する人のところに帰ることができたのか、どうか帰っていて欲しいと、ただそれだけを願ってしまう。

 護れなかった。護らなければならなかったのに。

 最早何の価値もないルシェルリーオよりも、オルキデにはアヴレークの方が必要だっただろう。いくら最後に付け足したとて、いつまた引っくり返されるかは分からない。

 女王は戦争を望んでいない。

 ラベトゥルは戦争を望み、ガドールもまた反対しているわけではなかった。むしろ機と見ればその戦争の手柄を横から奪うつもりであっただろう。

 最早こうなったら手立てはひとつしかない。ラベトゥルを牽制できるのがガドールである以上、大鴉ではなくルシェに戻るのだとしても、それは。

 ゆるりと、光が見えた。


  ※  ※  ※


 まぶしさに頭がぐらつく。うまく瞳孔どうこうの調節ができなかったのか、視界が白く塗りつぶされてしまっていた。

 何度かまばたきをして、ようやく像が結ばれる。見たことのない天井に、冷えた手触り。そこがベッドの上であるという事実に、悲鳴を上げそうになった。

 誰かの肩越しの天井と、押さえ付けらえた自分の腕。痛みと気持ち悪さと、何が起きているのか分からない混乱と、泣き叫ぶしかない弱い自分。ぐちゃぐちゃに混ざって溶けた恐怖心が叩きつけられて、悲鳴も上げられずにベッドから落ちる。

 けれど床に叩きつけられる前に、誰かがルシェの腕を掴んだ。それを振り払って、ただその場に座り込むように、自分を守るように丸くなる。

 違う。

 ここはどこだ。

 この上はどうしようもなく怖い。いつまたあの扉が開いて、いつまたあの暴力のようなものを叩きつけられるのか分からなくて、だからいつだって床に丸くなって、そして、床に。


「ルシェ」


 誰かがいる。

 誰がいる。

 その名前を呼ぶことをあの男に許可はしていない。どうして許可していないのにそんな風に呼ぶ。またルシェを押さえ付けて、蹂躙じゅうりんして、血塗れになって泣くこともできない子供の前でわらうのか。

 お前の物になんかなりたくない。だから逃げて、アスワドに鴉になれと言われたのを受け入れて、顔も名前も隠すために大鴉になったのに。

 そうだ、鴉だ。大鴉になったのだ。弱い子供には戻らない、今ならばもう。


「寄るな! 触るな!」


 影へと手を伸ばす。目の前の男は記憶の中にあるそれよりも大きいのか、小さいのか。ただ黒々とした影に刃を突き立てるためだけに、影の中からずるりと短剣を引き抜いた。地面に手を付いて体を跳ね上げるようにして立ち上がり、その心臓目がけて短剣を振り下ろす。

 癇癪かんしゃくを起こした子供のように、何の力加減もなく。けれどそこで理性の声がした。

 違う、と。ただその衝動のままに人を殺せば後戻りはできなくなると。すべては女王のためだけに、オルキデという国のために、そうでなければならないと。

 そう、約束した。大鴉になるときに、ズィラジャナーフの声を聞いた時に。まだおとなになりきらない少年のようなズィラジャナーフの声が、確かにそう告げたのだ。どうか化け物に成り下がらないでと。


「ルシェ!」


 はたと、止まった。

 止まったと言うべきか、止められたと言うべきか。ルシェの腕を誰かが掴んで、再び名前を呼んだ。そこでようやくもやのかかっていた脳が、声が違うと認識をする。


「そうし、れ……ど、の」


 許可をした、のだった。最初に名前を問われ、何と呼べば良いのかと言われた時に。

 大きな手がルシェの腕を掴んでいた。まばたきをして、ようやく赤銅色の髪が見える。黒々としていた人影がようやく形を成して、それが誰であるのかを認識させる。

 からりと短剣が手から離れて落ちていく。

 ひゅ、とのどが鳴った。自分は何をした。誰を殺そうとした。そもそも自分が殺したいとそんなことを思って、自分の勝手で、誰かを殺そうとするなどと。

 鴉になれとアスワドが言った。大鴉になれと彼が言ったのだ。そうすればあの男から――エハドアルド・ハーフィルから逃げられると。

 すべてはリヴネリーアのためだけに。どれだけ重いものを乗せられようとも、息ができなくなろうとも、鴉は翔ばなければならないのだから。


「あ……」


 ずるりと、崩れる。

 何か声はするけれど、それは聞こえているのに聴こえない。音として耳に入ってきてはいるのに、うまく脳にまで到達しない。どうしようもないほどに頭の中はぐちゃぐちゃで、何一つとしてうまくいかない。

 息ができない。息が止まる。

 いっそ自分が死ねば良かったのに。アヴレークの命令も何もかもを無視して、彼を生かすためにルシェが死んでしまえば良かったのだ。護らなければならなかった、たとえ僕を護るなとアヴレークに命令をされたとしても。

 息が止まる。

 いっそ止まってしまえばいい。そうしてそのまま呼吸を止めて、死んでしまえば良かったのに。


「ルシェ、聞いてるか? おい!」


 頬を軽く打つ感覚はある。けれどそれは息を吹き返させるようなものではなく、ずるずると床に崩れたルシェは喉を押さえることしかできなかった。

 ひゅうひゅうと音がする。呼吸の苦しさにいっそ楽になりたいとも思う。

 どこでならば息ができただろうか。確かに息がしやすいなどと甘えたことを思ったはずなのに。この息苦しさも何もかも、逃げて鴉になったルシェが背負うべきものだ。

 けれどもう、それすらも。

 ぐいと体を引き上げられた。太い腕はルシェの体を支えるように回されて、頭の後ろを掴んだ手のひらがルシェの顔を固定する。

 息をしろとばかりに吹き込まれたものがある。合わせたくちびるの向こうから、呼吸の仕方を教えるようにゆっくりと、何度も。

 呼吸とはどのようにするものだっただろうか。吐いて、吸って、こんな風に教えられるようなものであっただろうか。


「は……」


 何度かまばたきをして、それでも頭の中はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたまま戻らない。正常な思考がままならず、それでもただ呼吸をした。

 自分の足で立たなければ。独りきりでも翔ばなければ。なぜなら己は、大鴉であるのだから。


「大丈夫か?」

「すま、ない……」


 目の前の男が、腕を離す。それが少しばかり名残惜しいなどと思った自分に、気付かないふりをした。

 この男が目の前にいるということは、まだ何も事態は動いていないということだろうか。ならば早急に手を打たなければならず、そのためにできることは。

 何も護れなかったのならば、こんな自分に価値はない。価値がないのならば、使い捨ててしまえばいい。

 どうせ、どうせ。


「閣下……閣下……!」


 私は貴方に褒めて欲しかっただけなのです。

 幼い頃、何も知らずに甘え続けた。そのやさしさに報えるものは何もない。よくがんばったねと頭を撫でて貰えることが、何よりもうれしいことだった。

 けれどもうそれは永遠に失われたことだろう。あの場で武器を持たないアヴレークが生き延びられる可能性など、万に一つどころか億に一つもない。

 心臓が痛い。ぼろぼろと涙が零れて落ちて、泣くなと叱責しても止まってくれない。


「もう、いい。もう、何も」


 鴉はすべてを疑わねばならないものだ。

 リヴネリーアを守るのならば、その願いを叶えるのならば、リヴネリーア以外の何もかもをすべて。無条件でリヴネリーアの味方であると信じられるもの以外、すべて。

 そんなものは、アヴレークしかいなかった。アスワドとてクエルクス地方やエヴェンに何かあればリヴネリーアを裏切るだろう。エデルとてカムラクァッダの意向によっては裏切るだろう。


「戦争を、回避したい、なら。私を、売れ」


 この髪の色は、この血筋は。

 秘されようとも伏せられようとも、変えられないものがある。ラベトゥルだろうがガドールだろうが、喉から手が出るほど欲しい権力の鍵。

 こんなもの、本当は要らなかった。こんなものがなければ、本当に髪が黒ければ、生まれてこなければ。いっそ、男であったのならば。


「ねえ」


 懇願か。くだらない。

 分かっていて鴉になったくせに、今更泣き言かと。そんな風に自分で自分を嘲笑あざわらう。


「お願い、だから……うらぎら、ないで」


 どうせ伸ばした手は誰にも届かない。大鴉は名前も顔もなく、誰もそれがルシェであるということにも気付かない。気付いたとしても、気付かないふりをする。

 だから、ルシェルリーオは消えていく。大鴉に塗り潰されていく。

 お願いだから。

 愚かな子供と笑うのならば笑えばいい。だって、どうせ誰も、この手を踏んで――。


「ルシェ」


 伸ばした手の先に、何かが触れた。手を掴んで、繋いで、引っ張り上げて、ぶつかった先。


「泣きたきゃ泣けよ、今だけな」

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