21 化け物は問う

 訓練を終えたところで、行くぞとハイマにうながされた。一体どこへ行くのかと思えば、彼が向かった先はエクスロスの屋敷にある浴場であった。秀真ほつまと同様に入浴という文化があるエクスロスは、火山帯ということもあってそこらを掘れば湯が湧くらしい。この浴場もそんな湯を引いてきているということだった。

 確かに誰かに聞かれたくないのなら、風呂いうのは一つの手だ。そもそも入って来るためには服を脱がなければならないし、浴場と廊下との間には脱衣場という部屋が一つある。となれば誰か来たとしても、その瞬間に口をつぐむことは簡単だ。

 服を脱ぎ落していくハイマに倣って、紫音しおんも服を脱いでいく。マフラーを外し上着を脱いで、上着を籠のところに置けば、ごとりと上着が音を立てた。


「お前細いし小さいな、紫音」

「俺は標準だふざけんな」


 服をすべて脱ぎ落した紫音の頭のてっぺんから爪先つまさきまでをつくづくと見て、ハイマがそんなことを言う。彼の言葉に紫音は眉間みけんしわを寄せて、ぎっとにらみ返した。

 ハイマと比べれば、どんな人間も細いと小さいに分類されるだろう。確かに紫音は小柄かもしれないが、これでも腹筋は割れている。筋骨隆々きんこつりゅうりゅうではないだけだ、というのは言い訳ではないはずだ。


「いやだってお前この腕とかさー」

「おい触るな、近い、寄るな」


 また太い腕に肩を組まれて、逃げられなくなる。

 目の前にある黄金色の目は楽しそうに細められていて、彼の中の何がこんな風に紫音に親し気にさせているのかがまるで分からない。少なくともエクスーシアでのあの出会いがハイマと紫音の初対面のはずで、それは紫音とハイマとの間でも一致している。

 だというのに、ハイマは昔からの知人のように紫音に接する。


「なんだよ恥ずかしがるなよ、男同士だろ」

「お前は距離が近いんだよ!」

「これが普通だ、慣れろ」

「馬鹿言うな!」


 そもそも紫音はあまり人に自分の顔を見られたくはないのだ。顔というよりも、目というのが正しいが。血の色が混じった黄金色は秀真ほつまではの証明であり、化け物という扱いの一端を担うものだ。

 だというのにハイマはそれをまじまじと間近で見て、何も気にした様子がない。鼻と鼻とがぶつかりそうな距離感というのは、バシレイアであっても当たり前ではない気がする。


「ほら風呂入るんだろ、行くぞ!」


 ぐいと腕を押しのけて、ハイマより先に立つ。まったくと文句を言いながら足を進めれば、背中にくつくつというハイマの笑い声が投げられた。


「お前、甘いよなあ」

「何の話だ!」


 にらむのも面倒になって、そのまま振り返らずに浴場へと入る。そのまま浴槽よくそうに入るという選択肢は当然紫音にはなく、無言で先に体を洗った。

 それはハイマも変わらずで、彼もまた紫音の隣でしゃべることなく体を洗っていた。

 こういう浴場の使い方というのは、秀真ほつまだろうがバシレイアだろうが変わりはないらしい。体を洗った石鹸せっけんの泡を洗い流し、ハイマを放って紫音はざぶりと浴槽よくそうに体を沈めた。

 少し深めの浴槽は、紫音の身長だと下唇が水面ぎりぎりくらいにくる。気を付けないと湯を呑んでしまいそうなくらいだ。

 次いでハイマも、紫音のとなりにざんぶと体を沈める。水面が揺れて口の中に湯が入りそうになり、紫音は口を閉ざしてやり過ごした。


「で、お前の聞きたいことって?」

「お前が部屋でかくまってる彼女のことだよ」


 途端にハイマのまと雰囲気ふんいきが鋭くなって、紫音は溜息ためいきく。そんな風に自分の大切なものを奪われそうな野生動物じみた鋭さを出すくせに、本当に気付いていないのだろうか。

 そもそもあれだけの警戒ぶりだ。それこそ、誰かに奪われるのを恐れるような。


「何だ」

「だから警戒するなっての……俺が聞きたいのは、お前がどうするつもりなんだってことだ」


 今はまだ、眠っている。

 けれども怪我は既に癒えていて、おそらく魔力のとどこおりさえ解消されれば彼女は目を覚ます。そうなった時、ハイマはどうするつもりなのだろう。

 あの囲いの中から、彼女を逃がしてやるつもりはあるのか。そもそも、国に帰してやるつもりは。


「彼女が起きたらどうするつもりだ、お前」


 ハイマが考え込むような素振りを見せる。どうにもはっきりしない表情をしたハイマは、しばし無言であった。それでも紫音が何も言わずに待っていると、彼はようよう口を開く。


「……説明を、してやらねぇと」

「説明?」

「講和の席で使者が殺された。講和の使者はオルキデの宰相で、ルシェの主だ」

「ふうん?」

「現実をきちんと受け止められるのか、自暴自棄じぼうじきにならねぇか、心配してる」


 確かにそれはそうなのかもしれない。紫音が見付けた時に彼女は傷を負っていて、あのまま放置していれば死んでいたことだろう。彼女がどのような立場であるのか紫音にはとんと分からないが、その使者というのを護衛する立場であったとすれば、彼女は護衛対象を失ったことになる。

 なげこうがわめこうが、現実は変わらない。その現実に直面した時にどうなるのか、ハイマはそれを心配しているらしかった。


「別にそんなの、お前が心を砕く必要はないだろ。本人が自分の中で整理をつけることだ」


 わざと、冷たい言葉を紫音は口にする。お前はやさしいなとでも言えば良いのかもしれないが、それではきっと彼は何にも気付かない。

 事実、ハイマが心を砕く理由はないのだ。自暴自棄じぼうじきになったとしても、最終的にそれと折り合いをつけなければならない。自棄やけを起こして何かをしでかすというのならば、それまでだ。

 と、頭では分かっている。けれど紫音は目の前でそんな人がいれば手を差し伸べるだろう。けれどそれは紫音の話であって、多分ハイマはそういう人間ではない。


「そういうわけにはいかねぇんだよ。講和の場を整えたのは俺だ」

「へえ、じゃあお前は面目めんもくを潰されたからわざわざ敵国の女性をかくまってるわけか?」


 ハイマがまた黙り込む。

 面目を潰されていようと何だろうと、彼女をかくまって何か挽回ばんかいできるかと言えばそうではない。むしろそうであるのなら、使者を殺した犯人を探し出すべきだ。


「バシレイア側の不手際で傷を負わせたんだ」


 絞り出したような言い訳は、鼻で笑った。だからといってやはりハイマが心を砕くものではないし、まして危険を承知でかくまうものでもない。

 手当ては終えているのだから、そのままオルキデに返すことだってできたはずだ。オルキデにも彼女をかくまってくれる人間はどこかにいることだろう。

 まったく他人の紫音であれば分かることが、分からなくなっているのか。他人から見て明白であるのにそれが曇っているということは、何かそれを阻害する感情があるからに他ならないというのに。


「そんなもん、お前の建前だろ?」


 言い訳を連ね、理由を連ね。

 けれどそれはすべて、正しいけれど正しくない。人としてだとか国と国との関係だとか、そんなものをハイマが気にするものか。出会ってから時間など短いが、その短い時間の中で紫音にも分かっている。

 ハイマはそんな人間ではない。紫音を拾ったりはしているが、だからといって彼の本質がやさしさであるかと言われれば、答えは「いな」だ。


「お前の本音はどこだよ」


 建前を連ね、本音は隠れた。

 当人はきっと気付いていないままで、そのままにしたいと言うのならばそれでも構わない。けれどそのままにしておいて失えば、きっと人間として大切なものを失うのだ。

 人間と化け物の間には境界線があって、そこまでの距離というのは人それぞれだ。そしてその境界線を容易たやすく踏み越えられるかどうか、それも人によりけりである。

 きっとハイマは、何かあればその境界線を踏み越えてしまう。そんな気がしてしまうのは、紫音の単なる思い込みなのか。


「言っておくがな、ハイマ」


 立ち上がれば、ざぶりと湯が音を立てた。

 紫音は他人であり、バシレイアとオルキデの間であったという戦争の実情も知らない。停戦だ講和だ、それがどうなろうとも究極何も影響しない立場でもある。

 けれど、袖振り合うも他生の縁と言うではないか。エクスーシアでハイマと会って、そして拾われたのも何かの縁ということだろう。まして彼は、紫音に向かってなどと言ったのだ。


「見ないふりをするのは簡単だ、気付かないでいればそれもまた一つだ。でもな、そんなことしてたら全部失うんだよ、何もかも全部な!」


 見ないふりをして背を向けた。手を離して遠ざければ守れると思った。

 こんなみにくい感情で、彼女に触れてはならないとふたをした。紫陽花アジサイが咲いている。雨に打たれて揺れている。

 たいちょうと、彼女のか細い声が呼んでいた。紫音さんと縋られて、紫音はその手を振りほどけなかった。

 あいしていたのに。今でもあいしているのに。もう二度と紫音は、彼女に逢えない。


「大事なら大事と言えば良い! そばとどめておきたいのならそう言え! ごちゃごちゃと建前で誤魔化ごまかしてたら、手遅れになるからな!」

「そういう話だったか?」

「俺にはそういう風に見えてんだよ!」


 ハイマはきょを突かれたような顔をして、何とも呑み込みにくそうな表情だった。

 こんなものは紫音の感傷だ、とてもとてもくだらない。けれどこれで何かが変わるのならば、くだらないことを叫んで突き付ける意味もある。


「後悔してからじゃ遅いんだ。彼女が目覚めて、それからどうしてやるつもりだ。ずっとあの部屋に囲ってでもおくつもりか、お前は」


 目が覚めた後のことは、どの道考えなければならないことだろう。物言わぬ人形ではないのだから、彼女にも意思というものがある。

 いつまでもあの部屋には置いておけない、それは当然だ。彼女がオルキデの人間であるというのなら、なおさらに。彼女に立場というものがあるのならば、確実に。


「いいか、考えろよ。明日治療はしてやる、そうしたら彼女は目を覚ます。それまでにきちんと答えを出せ!」


 手を伸ばせ。

 願うのならば、叶えたいと思うのならば、立ち止まってはならない。たとえ傲慢ごうまんであったとしても、手を伸ばさなければ何も手には入らない。

 そこにあったはずものさえも、何もかもすべて零れ落ちていく。紫音の手の中にはもう、黎紅りくが遺してくれた一つのものしか残っていない。

 本当にくだらない感傷だ。いっそ誰かこれを、笑い飛ばしてくれ。


  ※  ※  ※


 良いんだなとハイマに確認を取れば、彼は一つうなずいた。こめかみを叩いて切り替えるのは、別に何かをしているわけではない。ただそうすると切り替えやすいという、一種の儀式にも似たものだ。

 かちりと視るものが切り替わる。

 魔力のとどこおりというものは、血液で言うところの血栓けっせんに似ている。秀真ほつまではこれを魔力栓まりょくせんと呼んでいたのだから、名前だってそのままだ。

 動力が尽きれば人は死ぬ。魔力で作られている魔力がうまく循環じゅんかんしなくなれば、ゆるやかに人間は息を止める。

 彼女に触れるのははばかられて、紫音は手の中に花を生む。かぐわしい香りのするだいだい色の小さな無数の花はばらばらと降り注いで、彼女を彩った。

 溶けて、崩れて。

 紫音の特性はである。だから滞った部分に溜まった魔力を分解して、正常に流れるようにうながしていく。


「……終わったぞ」


 ほろほろとだいだい色の花が崩れて消えていく。見た目は特に何が変わったわけでもないが、少しばかり呼吸の音は力強くなったかもしれない。

 このまま彼女の目覚めを部屋で待つ必要はないだろう。


「待っていればそのうち目を覚ます。どうも何かに護られているというか……しばらく動く訓練が必要だとか、そういうことにはなっていなさそうだ」

「分かった」


 本来人間は長く眠っていたりすると筋肉がえて動けなくなるものだが、彼女にそういうことは起きていない。おそらくはあの絡みついている魔力の主が守護をしていたというところだろう。

 ただそのすぐ動けるということが、この場合良いのか悪いのかは分からない。最悪敵と見做みなしてハイマに襲い掛かる可能性もある。


「助かった、紫音」

「それはどうも」


 礼を言われるほどのことをしたとは思っていないが、感謝をされるのはどうにもくすぐったい。

 思えば、殺して礼を言われてばかりだったのだ。誰かをこうして生かして礼を言われるのなど久しぶりか――もしかすると、初めてかもしれなかった。

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