19 紫音のこと、それから

 ひっきりなしにエクスロスを来訪していた招かれざる客も、ここのところめっきりと数を減らした。その結果として、リノケロスもまた暗闇の安寧あんねいを取り戻していた。戦争中は眠っていても常に体のどこか一部が目覚めているような感覚であり、招いてもいないのに度々やってくる無礼な客へ神経を研ぎ澄ませることはさほど苦痛ではなかった。だが、何も気にせずゆったりとシーツで体を遊ばせることができるならばそれに越したことはない。

 隣で横たわっているファラーシャとて、慣れない場所に嫁いできて早々そんな事態であったのだから、彼女自身が自覚しているよりも疲労が溜まっていたことだろう。彼女もまた、以前よりベッドの上でくつろいでいるように見えた。

 しっとりと汗ばむ白い肌を楽しみながら、汗が乾いて体が冷えないように厚手の掛布かけふを引き寄せる。

 エクスロスは基本暑いので薄手の掛布かけふすら使わないことも多いのだが、ファラーシャの手足はいつでも冷たい。それに気付いてから、リノケロスは少し分厚めの布を用意してファラーシャにだけかけてやることにしていた。ファラーシャは自分だけという扱いに居心地が悪そうにしていたが、そもそもリノケロスはそんなものをかけたら暑くて眠れないのだと説明すると納得してくれた。

 最近では人の素肌の方が温いと悟ったのか、寄り添って薄手の掛布かけふだけをかけて眠ることも多いが。


「ファル、起きているか?」

「はい、旦那様」


 ファラーシャがそのたおやかな見た目に反し、意外にも体力があると最近知った。体力があると言うよりは、体力の回復が速いと言うべきかもしれない。

 そもそも、まだ知り合って一年にも満たないのだ。こうしてお互いに初めて知ることも多い。

 リノケロスが声をかけると、思ったよりもはっきりした声音でファラーシャからの返事が返ってきた。もぞもぞと動いたファラーシャが、リノケロスの方に顔を向ける。掛布の下で触れ合う素肌が少しくすぐったい。


紫音しおんとかいう男、どう思った」


 問いかけると、そうですねとつぶやいたファラーシャが少し考え込む。先日エクスーシアに行ったはずのハイマが、どこの誰とも知れない男を拾って帰ってきた。犬猫ではあるまいしほいほい素性すじょうの知れぬ者を拾うなと言うところだが、ハイマはその男にやたらと親しそうな様子を見せているので、リノケロスの知らない交友関係でもあったのかもしれないと思った。だが、紫音の発言を聞くに全くの初対面らしい。

 我が弟ながら、これほどまでに馬鹿だと思ったのは初めてだった。馬鹿だと過去に思ったことは何度もあるが、今回のものが一番ひどいだろう。

 紫音という男は未成年にも見える外見であり、誘拐ゆうかいではないかとも疑った。だがリノケロスから見てもそれなりに出来る身のこなしをしていたあの青年が、ハイマ相手であっても逃げられないとは思えない。

 毒にも薬にもならなさそうではあるので、一切の世話はハイマがするという約束の元でリノケロスは紫音と名乗った不思議な青年の滞在を認めることにした。


すきのない方だと、思いましたわ」

「そうか」


 ファラーシャは、時折リノケロスが驚くほど人をよく見ている。彼女は兵士の不調にもよく気づくので、そういう点をとても重宝していた。

 世間一般の妻に対するありがたみとは方向性が違う気もするが、ファラーシャはそういう扱いをむしろ喜ぶので、リノケロスは存分に活用しようと思っている。逆にそうして使わなければ、彼女には幻滅されるかもしれない、とも思う。


「オルキデでは、食客しょっかくを抱えることは権力誇示の方法の一つですの。あまり多くはございませんけれど……バシレイアではそういったことはございます?」

「どうかな。あまり聞かないことだ。どこかの領地の間者の可能性は捨てきれないから、どこの領地でも余所者よそものは好まれない」

「あら、そうなんですの」


 国が一つになってもう数百年の歳月が経つが、未だに各領地はお互いへの疑心暗鬼を消しきれないでいる。だからこそバシレイアは『国』の意識よりも『領』の意識の方が強いのだ。

 それはいつかまた他領が自らに剣を突きつける日が来ると、潜在的に思い続けているのが原因か。


「ファル」


 耳元で呼びかけると、ファラーシャがくすぐったそうに目を細めて少し体を震わせた。彼女がリノケロスの声を一等気に入っているというのは最近気づいたことだが、本人からの告白もあった。

 確かに同じ成人男性の中でも低い方ではあるが、特別いい声だとも思っていなかったし言われたこともなかったので意外なことである。カフシモなど、普通に話しているのにたまに威圧的だと言うのだ。

 ファラーシャがリノケロスの声を威圧的だと受け取らなかったのは幸いなことだろう。


「子供は欲しいか」


 彼女のくびれた腰へと手を伸ばし、そこから薄い腹を撫でる。一瞬くすぐったそうに目を細めてからきょとんとまばたきしたファラーシャが、次いでほんのりと頬を染めた。

 だがそれはすぐに消えて、彼女は少しだけ考えるそぶりを見せてから視線を空に彷徨さまよわせる。


「もし私たちの方に子供が先にできたら、どうなりますの?」

「どうもならない。ハイマの子供の方が順位は上だ。年下だろうと変わらない」


 やはり賢い。リノケロスの問いに対して、ただ睦言むつごとと受け取って頬を染めるばかりではない。

 リノケロスとファラーシャの間にもし子供が産まれれば、未だ結婚していないハイマよりも先に子供を持つことになる。そうなった場合に果たして当主の継承順位はどうなるのか、と、気をんだのだろう。

 ラグディナがその筆頭だが、ハイマよりもリノケロスの方に権力を持たせたい人間は一定数いる。ラグディナは単純にハイマよりもリノケロスの方が上だと豪語してはばからないというだけだが、どうしても当主より年上のきょうだいがいるとなると往々にして出てくる話だ。


「ご当主様は、ご結婚の予定は?」

「さあ、どうかな」


 ファラーシャは子供ができた場合に、そういうやからの道具になりはしないかと懸念けねんしたのだろう。きっと彼女はリノケロスに言わないものの、そういうものがいるという情報も手中に収めているはずだ。もし子供を持たないままハイマが死ねば話は別だが、お互いに子供がいた場合は当主の子供の方がたとえ年下であろうと順位は上だ。

 ただしそれは、エクスロスとしての色を持っていることが大前提だが。


「でも、それなら安心ですわね。ご当主様が結婚してくだされば、ですけれど」


 リノケロスの返事に安堵あんどの息をいたファラーシャだったが、しかし申し訳なさそうに形の良い眉を下げる。


「でも、まだもう少し待ってくださいませ」

気掛きがかりがあるか」

「今、色々とやっておりますでしょう? それらが片付いてからにしませんと、落ち着きません」

「それもそうか」


 寝物語にしては色気がありすぎる話題だが、まだそこまで眠気がやってきているわけではない。ぐいと痛くはないだろう力で彼女を引き寄せれば、ファラーシャが小さく声を上げた。無意識かそれとも意識的にか分からないが、自ら少し身を寄せようとした彼女の腰に腕を回してしっかりと支えてやる。足が動かない分ベッドの上で身動きするのも一苦労らしい彼女は、小さくありがとうございますと言葉を落とした。

 やはり左腕がないのはこういう時に不便だ。

 柔らかな肌に触れるその前に、辺りの気配を探るのはもはや癖のようなものだ。今夜もおかしな気配がないことに、リノケロスは満足して鼻を鳴らした。

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