18 経過報告と

 ところ変わってバシレイアの東の端、エクスロス領である。

 イフィルニがファラーシャのところにやって来たのは、その日の夕刻近くになってのことだった。エクスロスの夕暮れというのは一番この土地に似合っていると言うべきか、岩場や火山を真っ赤に太陽がく様というのがよくえた。

 足から書状を外してやり、軽くそのくちばしでてやる。このまま日が暮れる前にオルキデに戻ることはイフィルニでも無理なので、おそらく彼はそこらで一夜を過ごすのだろう。ネズミなりの小動物はそこらにいるので、食べるものには困らない。

 ヒュドールへのおとり旅行の後、刺客の数は減っている。エヴェンも一息つけたようでそれは安堵あんどするところでもある。

 椅子に腰かければ、カリサが見計らったように紅茶を出してくれた。それを一口音もなくすすってから、ファラーシャは書状を開く。


「……アグロスの方は上々ね。ラベトゥルの方はやはり一筋縄ではいかないかしら」


 イフィルニが届けた書状はシハリアからのもので、彼に依頼した噂話うわさばなし流布るふに関する経過報告が詳細にしるされている。

 当主が不在の混乱の中ということもあり、アグロス領に関しては食糧を買い付けるキャラバンが容易たやすく噂を流したようだ。結果としてゲオルゴスの遺児たちの中で当主の座を狙う双子は動き始め、今は目を皿のようにしてお気に入りだっためかけと、その他関係を持った女性を探し回っているらしい。

 そのめかけに関しては使い道もあるかと、とっくにファラーシャの方で確保を終えている。ゲオルゴスが他の女の悋気りんきに触れたがゆえに暴漢に殺されたこと、胎の子を双子が狙っていること、命が危ないこと、それから――。子を安心して産めるように保護をするとその耳にささやけば、女は一も二もなく見ず知らずの相手の手を取った。

 オルキデでもそうだが、バシレイアにおいてもやはり当主の子を産むというのはのし上がるのに格好の機会ということらしい。きちんと確保して隠してしまえるまではとこの件に関してはリノケロスにも伏せていたが、無事に移動も終わったということで報告しても構わないだろう。


「バシレイアの各領は、こういった情報戦に不慣れなのかしら。どう思う?」

「慣れている慣れていないというよりは、バルブール家が迅速じんそくすぎるのですよ」


 カリサの言葉に、それもそうねとファラーシャはつぶやいた。

 バルブール家は長きに渡ってこういった情報を握り、それによって領地や国を護ってきた家だ。それは七百年の長さで脈々と積み上げられ、ファラーシャとシハリアにも伝わっている。父も鳥を扱うくらいはできるが、残念ながら彼は情報の扱いが下手だった。

 とはいえその父は今ラベトゥルの腰巾着をしている。となればある程度情報統制については耳打ちしているだろうし、ファラーシャとシハリアの策がとどこおっていても仕方がないことか。

 扉が開く音がして、ファラーシャは椅子に腰かけたまま扉の方に視線を動かした。この部屋の扉を叩くこともなく開けるのはリノケロスだけで、案の定そこに立っていたのは彼である。


「あら、旦那様。おかえりなさいませ。訓練はいかがでした?」


 微笑ほほえんで彼に問う。リノケロスはファラーシャの向かいにまで足を進めて、どかりと椅子に腰を下ろした。カリサに視線で合図をすれば、彼女はリノケロスの分も紅茶を用意してくれる。

 リノケロスはこのエクスロス領を治めるハイマの異母兄として、エクスロス家の一員として、この領地運営と兵士の訓練をする義務がある。今日はその訓練の日であり、朝早くからリノケロスは自室を不在にしていた。


「いつも通りだな」

「それは良かったです。何事もないのが一番ですもの」


 エクスロスは平穏である。とりあえず、今は。

 水面下で何が動いていようとも、表面上平穏であるというのは重要なことだ。静かな水面に落ちる波紋のごとく、平穏である方が何かがあった時に分かりやすい。


「お怪我をされた方はいらっしゃいませんでしたか?」

「特には……いや、少し動きがおかしいやつがいたな。ファル、明日にでも診てやってくれるか」

「かしこまりました、喜んで」


 出しゃばるわけではなく、けれど何もしないわけではなく。できることをできる範囲でやるのみだ。

 ファラーシャのできることはこの部屋から一切外へ出なくともできることが多い。ある意味貴族女性刺繍ししゅうや読書をするにせよ、情報収集をするにせよ。


「旦那様もお忙しいでしょうから、定期的に診に伺いますのに」

「……駄目だ。俺のいない時には訓練場に近付くなよ」


 リノケロスはファラーシャが一人で出歩くことをあまり歓迎はしていない様子だった。以前はそれを敵国からとついできたからだと思っていたのだが、どうやら違うらしいというのは最近気付いた。

 エクスロスのすべてがファラーシャを歓迎したわけではない。特にリノケロスの妹であるラグディナは敵愾心てきがいしんを向けてくる。とはいえ悪しざまにののしられようがファラーシャ自身に向くものはどうだっていいものでしかない。

 ただ彼女にハイマがかくまっているルシェの存在が露見したらどうなるだろう。眠る彼女を診たが、その髪は見事なまでのだった。オルキデにとってあの色は何よりも重く、それを悪しざまに言われた時に自分が黙っていられるかと言うとその自信はファラーシャにはない。


「ふふ、心配してくださってありがとうございます。分かっておりますわ」


 ここで無理に我を通すような真似をするつもりはなかった。そもそもここはエクスロスであり、ファラーシャには何の権利もないのも事実なのだ。

 バシレイアにおいて、嫁や婿むこになったとて名乗る家名は変わらない。ファラーシャはバルブール家の名前のままでここにいて、ただリノケロス・エクスロスの伴侶であるとそれだけでしかない。だからこそ、身の程はわきまえておかなければならないのだ。


「旦那様、こちらを。シハリアからの経過報告です。アグロスは順調ですわ」

「食事の後に詳しく聞こう」

「ええ、ご報告すべきこともございます。お時間をいただけますと助かりますわ」


 アグロスから保護したゲオルゴスのめかけのこともある。夕食後の約束を口にして、紅茶をすする。それ以上何か会話が長く続くというわけではないが、それが苦になるようなこともない。

 穏やかで、やさしくて、多分ずっとファラーシャはそういうものが欲しかった。


  ※  ※  ※


 エクスロス家は食堂で全員が一斉に食事を取る。今日はハイマがエクスーシアから戻ってきており、その食事の席には彼が招いたという少年か青年か判断の難しい人物が加わっていた。

 紫音しおんという名前の彼は、長い前髪で顔を覆い隠している。あまりじろじろ見るものでもないが、音も立てずに食事をしているその様子からして、隙はあまりなさそうだ。というのはファラーシャの素人しろうと判断でしかないが。

 貴族というのは食客しょっかくを屋敷に置くこともある。オルキデではあまり一般的ではないが、そういう人物に衣食住を提供できるというのは身分上位者にとって一つの権力誇示こじの方法でもあった。

 ファラーシャにとって食事とは自室で食べるものであり、冷めたものが運ばれてきて一人でするものであった。それこそ一人分の量は決められており、残すことはあっても増えることはない。けれどエクスロス家の食事はそれとは違い、大きなテーブルの上に大きな皿が並べられ、そこに山盛りの料理がのせられている。肉料理、野菜料理と様々ではあるが、それを自分の皿の上に好きなだけ取って食べるのだ。

 最初は驚いたものだが、とついだからにはそこに合わせるのは当然である。だからどうするかと問われた時にそう答えた。

 足の悪いファラーシャでは大皿から料理を取るのは難しく、リノケロスが気を遣ってファラーシャの皿に料理を取り分けてくれていた。最初はファラーシャの食事量が分からなかったのか量が多かったのだが、最近はちょうど良い量になっている。


「ファル、食べ終わったか?」

「はい」


 リノケロスが先に立ち上がり、ファラーシャの手を取った。一瞬鋭い視線が飛んできたのはラグディナのものだったが、ファラーシャは淡く微笑ほほえんでそれを受け流す。食べ終わったら次々に席を立つのがエクスロスの風習らしく、全員が食べ終わるまで待つということもなかった。

 今はハイマにリノケロス、ファラーシャ、ラグディナ、そしてハイマの実弟にあたるフローガと、そこに紫音が加わった形である。六人でもまだ広いテーブルは、かつてエクスロス家がもっと人数が多かった名残だろう。

 手を引かれて自室へと戻る。今度は並んでベッドに腰かけたところで、既に待機していたカリサがテーブルの上にあった書状をリノケロスに手渡した。


「カリサ、今日も一日ありがとう。何かあったら呼ぶから、貴女も休んでちょうだい」

「かしこまりました、それでは」


 カリサが一礼をして部屋から出ていく。それを見送ってから書状を開けば、几帳面なシハリアの文字が並んでいた。

 ラベトゥルの件も含めて、リノケロスには報告しておくべきことだろう。ファラーシャ一人で勝手にすると抜け落ちる部分もあるので、きちんと報告しろというリノケロスの言葉はありがたかった。

 これまでずっと一人でやってきたことを助けて貰えるというのは、なんとなくだがくすぐったいものがある。


「まず、ゲオルゴスめかけですが、保護することに成功しました。やはり胎に子がおりましたが、産み月まではまだありましたので、早々にオルキデのシュリシハミン侯爵領へ隠しましたわ。シュリシハミン侯爵には取引として彼女たちの生活にかかる費用に色を付けてお渡ししております」

「漏れる危険性は?」

「ございませんわ。シュリシハミン侯爵はお口の堅い方ですし……あの方の悲願に関わる取引もしておりますから、何ら問題はございません。そもそも裏切れば貧しいシュリシハミン侯爵領が更に困ったことになりますもの」


 その悲願に関しては、口に出すことはしなかった。それはオルキデ国内のことであり、リヴネリーアの一つの失敗に関わることでもある。となればおいそれと口に出すことはできない。

 重要なのは、シュリシハミン侯爵が裏切らないことだ。


「産まれた子供の色にもよりますが、一人を手中に収めておけるというのは大きいですわ」


 その際に母親が邪魔になるようならば、その処遇も簡単だ。既に彼女は隠されて、どこにいるとも分からない。となれば消えてしまったところで、もう誰にも分からないのだ。

 重要なのは彼女ではなく、彼女の胎にいる子供だ。その子が男であれ女であれ、アグロスの色を持っていれば策には組み込める。その子供が可哀想だとかそんな甘えたなまやさしいことが言えるのは、守るものが狭い範囲にある恵まれた人間だけだ。


「刺客を送ってきているラベトゥルに関しては少しばかり進みが悪いので、方針を少し変えますわ。父も絡んでおりますし、シィも今は少し忙しいものですから。今しばらくお待ちくださいませ」

「分かった、その辺りはファルに任せよう」


 リノケロスの顔をじっと見ていれば、どうした、と不思議な顔をされた。

 髪の色は赤銅色、瞳の色は黄金色。まごうことなくエクスロスの色でハイマとも同じだが、やはり少しばかり個人差はある。

 短く切られた髪はあまり硬そうではない。切れ長の目は鋭くて、睨まれれば当然迫力もある。けれどファラーシャに対しては、他人に比べれば優しいのだと知った。


「旦那様の目は、いお色ですわね」

「そうか」

「ええ」


 そっと、リノケロスの頬に手を伸ばす。男性の頬であるのでなめらかであるとかそういうことはなく、少しひげが伸びてきているのかざらりとしていた。

 頬骨の感触が指先にあった。見た目からはあまり頬骨が出ているようには見えないが、そこにはきちんと骨がある。


「失礼しますわ、旦那様。ご当主様も確かに黄金色ですけれど、旦那様とは少し色が違いますわ。私、旦那様の目のこの色が好きですの」


 じっと黄金色の目を見て、微笑ほほえんだ。

 オルキデにおいては似た色であると、アルナムル家の弁柄べんがら色だろうか。アスワドやエヴェンがその色ではあるが、やはり色合いは違っている。バルブール家は紫紺か銅で、黄色に近い色合いはバルブール家の血筋には生まれてこない――と、いうことにされている。


「それに、声も好きですわ。低くて、穏やかで、耳に心地が良くて。人の声は特に気になるのですけれど、今まで聞いた中で旦那様のお声が一番です」


 ファラーシャは人の声というのが一番気になる部分である。

 そのままするりと指先を動かして、リノケロスの手を取った。リノケロスはファラーシャのされるがままになることにしたのか、特に抵抗されることもない。


「この大きな手も、好いております。硬くなった皮膚も、ごつごつした無骨なところも、旦那様のこれまでの積み重ねの上ですわね」


 ファラーシャの手とはまるで違う。きっと肉刺まめができて、潰れて、その繰り返しをした手だった。自分の柔らかな手を恥じることはないが、リノケロスのそれは価値のあるものに見えるのだ。

 手を離し、指先でリノケロスの左腕を辿たどる。肩からひじへ、つうと辿たどっていけば、その先は欠落していて何もない。


「欠けた左腕も、好きです。欠けているからこそ、私は旦那様のお役に立てます」


 リノケロスに両腕があったならばと、そんなことを考えるのは意味のないことだ。ファラーシャの足と同じ、既にそれは失われていて戻ることはない。

 それは恥じるものではないと、ファラーシャは思っている。それを卑下ひげして泣き暮らす方が、ファラーシャにとっては余程恥ずかしいことだ。


「すべてひっくるめて愛しておりますわ、旦那様。ですからどうぞ、上手に私を使ってくださいませ。利用しないでくれなどと甘ったれたことなど申しませんわ。むしろきちんと使っていただけてこそ、リノケロス・エクスロスの妻としての私は価値がありますでしょう?」


 愛しているから利用なんかしない。そんなことを言うようならばファラーシャはきっと幻滅げんめつする。それはきっと自分の立場であるとか、身分であるとか、そういうものを放り出せる幸福な人間の戯言たわごとだ。

 ただ慈しむだけが、夫婦の価値ではない。利用すると言うと聞こえは悪いのかもしれないが、それは決して悪い意味ではない。


「でも、無駄遣いはしないでくださいませ。あまり酷いと、そうですわね……私、馬には乗れますから。帰ってしまいますわ」

「それは困るな」


 使うのならば、上手に使って貰わなければ。お互いを上手に使ってこそ、夫婦というものに価値はある。この考え方が正しいかどうかなど、互いの中だけで結論を出せば良いことだ。

 他人の価値観は他人の価値観。それは誰かに押し付けるようなものでもない。


「ふふ、大丈夫です、旦那様なら。上手に、大切に、お使いくださいませ?」


 この人のことが好きなのだと自覚をしたのは、本当に最近のことだった。けれど考えてみれば、最初から悪感情はなかったのだ。

 多分これは恵まれた政略結婚だろう。誰に感謝をするかと言えば、ずっとベジュワ領を見守っているという大地と鍛冶と知恵の神たるサフラサカーか。

 上手に、大切に。そうして使って貰えれば、きっとファラーシャがこれまで積み重ねてきたものにも、これまでのことにも、きっと意味が生まれるだろうから。

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