17 おまじない、ひとつ
ディアノイアへ到着したのは、もう日が暮れかかっている時間だった。
馬車が停まったところではたと目を覚ませば、
さすがに無視をし続けるというわけにもいかず、どこかもの言いたげなサラッサの顔を見る。とはいえ自分から話しかけるのもどうかと思って口を閉ざしていると、サラッサが口を開いた。
「漣花」
「何でしょう、ヒュドールのご当主様」
名前で呼ぶのも
ヒカノスに対しては、どこか兄に似ているように思えたせいだ。声が似ていた、だから間違えた。やさしさが似ていた、間違えた漣花が「兄様」と呼ぶのを許してくれた。
どこか安心できる雰囲気のヒカノスとは違い、サラッサの視線には寒気がする。あの女が兄に向けていたものに似た色を含んだそれを向けられるのがどうにも落ち着かなくて、ついヒカノスの後ろに隠れてしまう。ヒカノスがそれを
「俺のことはサラッサと」
「いえ、それは……身分差もありますし、兄様のご友人とは言え失礼になりますから」
そもそも名前を呼ぶ立場に漣花はない。ヒカノスと彼が親しかろうが、彼が許可をしようが、そういうものだろうと認識している。
ましてここで名前を呼んでは、その色が強くなるような気もした。
「俺が許可しているんだから……」
「サラッサ」
どうしたものかと考えているところで、ヒカノスから声がかかる。サラッサはむうと口を
ヒカノスは
「あまり困らせてやるなよ。それに、着いた。当主様に用事だろ、早く行ったらどうだ」
「……分かったよ」
渋々と言った様子のサラッサを先に馬車から降ろし、次にヒカノスが降りていく。さっさと行けというような手振りをされて、サラッサが渋々屋敷の方へと歩いて行った。
漣花が降りようとしたところでヒカノスに手を差し出され、少し迷いつつもその手を取る。そんな経験は一度たりともないが、バシレイアではこれが普通なのだろうか。
「荷物は使用人に運ばせれば良いから、先に部屋に案内するよ。サラッサの用事が終わったら、当主様に
「分かりました。何から何までありがとうございます」
御礼を言って頭を下げれば、いいんだよとヒカノスが笑う。その笑顔は兄に似ているようで、でも似ていなくて、胸が締め付けられるような泣きたいような、そんな気持ちになってしまう。
ヒカノスに連れられて足を踏み入れたディアノイアの屋敷は、当然ながら漣花が親しんでいた
「あ、す、すみません……」
「いや、良いよ。珍しい?」
「はい、見たことがない光景です」
それから少し説明を聞きながら、廊下を歩く。
そもそも草履を脱ぐこともなく家の中に入るというのが、漣花にとっては驚きである。国が違えば当然色々なものが違ってくるが、よく父は
どれくらいディアノイアにいることになるかは分からないが、漣花も長く過ごせばそれに慣れていくのだろうか。
「漣花の部屋はこっち。俺の部屋と近いから、何かあったら来てくれたら良いよ」
「ありがとうございます、兄様」
客間だろうそこは整えられていて、掃除も行き届いているようだった。窓辺では小さな花が揺れていて、沈む太陽の光で長く影を伸ばしている。
一通りの説明をヒカノスから受けたところで、使用人が刀と鞄を持ってきてくれた。それを受け取って礼を言えば、使用人は静かに部屋を去っていく。
それじゃあ少し休んでと言って部屋を去ろうとするヒカノスの袖を引いて、呼び止めた。
「あ、そうです。兄様、少し屈んでください」
「うん?」
ヒカノスは漣花の言葉を疑うこともなく、その長身を屈めてくれる。漣花とて小さい方ではないのだが、ヒカノスは見上げなければ視線が合わない。
さらりと紫色の髪が揺れている。その額に、そっと唇を寄せた。
「兄様に、良いことがありますように」
え、とヒカノスが声を上げる。
目の前で固まっているヒカノスの顔を見て、漣花は慌てて理由を口にする。これはかつて、父が漣花たち家族によくやってくれたおまじないだ。
「あ、その……よく、父様がしてくれていたものですから。バシレイアの風習かと思ったのです。ち、違いましたか?」
「違わないよ」
さらさらとヒカノスの指先が漣花の前髪を掻きわける。そうしてヒカノスも同じように、漣花の額に唇を寄せた。
あたたかなものが触れて、また離れていく。父のそれとは、また違う気がした。
「漣花にも良いことがありますように」
良いこと。
冷たい凍えた心臓には、気付かないふりをした。この人に漣花のしたことを知られたくないと、そんな甘えたことを思う。
会ったばかりで、何も知らなくて、けれどなつかしさに泣きそうになる。
「当主様のところ、分からなかったら一緒に行こうか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
そうか、とヒカノスは穏やかに笑っている。頭を下げれば、くしゃりと頭を
忘れるなと戒める声がする。お前は何をしたのだと。そうしてすべては
どうしたのと問われて、何でもないと首を横に振った。
お前は死ぬのだとあの女の声がした。殺したのに、燃やしたのに、真っ白な顔と真っ赤な唇が漣花の脳裏に焼き付いて消えてくれない。嘲笑う声も刻み込まれて消えていかない。
※ ※ ※
テレイオス・ディアノイアは、執務室で何か仕事をしているようだった。漣花を見た黒曜石の瞳には特に何が宿ることもなく、この人がなぜ漣花を受け入れる気になったかも分からない。
その表情も何も、変わらなかった。
「道中、何事もなかったか」
「はい」
返事をしてから、少しばかり考える。何もなかったと言ってしまうと嘘になるのもまた事実だ。何事もなく平穏な旅路であったわけではなく、血生臭いことがあったのだから。
伏せておくようなことでもないかと、漣花は思考を止めて口を開いた。
「あ……海賊が、出まして。群島諸島連合の方に、助けていただきました」
「群島?」
海賊よりも何よりも、テレイオスが反応したのは群島という言葉だった。その理由はつかめなかったが、漣花は一つ首を縦に振る。
彼らの名前を出してもいいものか。テレイオスは特に顔色を変えることもなく、何を考えているかも掴めない。とりあえず口止めをされてはいないからいいのかと、彼らの名前を口にすることにした。
「はい。カイエ様と、ナハト様に」
テレイオスが一つ
ぞくりと、背筋が冷えるような心地がした。言ってはならないことを言ったような、取り返しのつかないことをしたような、そんな感覚がある。
「く、はは……そうか、ナハトか」
彼にとって重要であったのはカイエではなく、ナハトの方らしい。
上空を旋回する鳥を、ナハトは
テレイオスとナハトの繋がりが見えず、漣花は少しだけ首を傾げる。そもそもバシレイアのディアノイア家の当主と、群島の青年と、一体どのような関わりだろう。それも、笑い声を上げるほどの。
「あの……」
「彼らは、何か?」
「その、また何かあれば、とは」
何か明確な約束があるわけではない。カイエの言葉はあれども、あれはどのような意味か掴めないままだ。
生きたいと願えばこの世は地獄に
「そうか」
くつくつと笑うテレイオスにどうしたものかと考えて、漣花は口を
テレイオスは何事もなかったかのように、また無表情になっていた。
「あの、ご当主様。しばし、よろしくお願いいたします」
「実家だと思って、くつろげばいい」
その言葉は、どこまでが本心なのだろう。その顔からも、言葉からも、何一つとして意図が読めない。何かあったらヒカノスに言うようにというテレイオスの言葉に
心臓が、早鐘を打っていた。全身の血液が下がっていくような、体が冷えていくような心地がする。
得体の知れない何かを目にした気がする。氷の塊を飲み込んだような気がする。は、と短く息を吐き出して、心臓を押さえた。
大丈夫、まだ動いている。
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