16 サラッサ・ヒュドールの欲望

 乗馬は得意だから馬さえ貸してくれればいい。そう何度も言う漣花のことばを、馬の貸与たいよは行なっていないなどと嘘八百を連ねて突っぱね、更には自らもディアノイア領に用事があるからと、半ば無理やり馬車へ乗り込んでから半日。

 成人男性二人を含む合計三人を乗せていてもさほど手狭に感じないのは、さすがヒュドール家が所有している馬車と言うべきだろう。もっとも、座席に座っている構図は二人と一人なので、空っぽになっているサラッサの隣はいささか風通しが良すぎるという感はあった。


漣花れんか、疲れてないか?」

「大丈夫です、兄様。ありがとうございます」


 サラッサはヒカノスとはもう長い付き合いになる友人同士だが、彼がこんなふうに穏やかに、初めて会ったばかりの他人に接するところなど見たことがない。漣花の呼び間違いに驚いた顔はしたものの、そう呼ぶことで異国からやってきた彼女が少しでも心癒されるならと、好きに呼んでいいと言っていた。その呼び方のせいか、それとも膝が触れ合うほどの近い距離感のせいか、ヒカノスと漣花は今日初めて会ったとは一見してわからないほど親密に見える。

 当然、サラッサはそれが不服だ。なにしろ漣花ときたら、サラッサとヒカノスとで露骨ろこつに態度が違うのだ。


(ディアノイア家は往々にして人見知りが多いが、漣花もそうなのかもな。)


 じっと漣花を見つめているサラッサの視線には気づいているだろうに、彼女とはいっそ不自然なぐらいに目が合わない。こちらを見ようともせず、ただヒカノスか、あるいは窓の外の景色を眺めている漣花に、サラッサも何度か話題を振った。だがことごとくつっけんどんな態度で弾き返されてしまう。

 彼女の態度はまるでサラッサには一欠片ひとかけらの興味もないと言っているかのようである。サラッサはそんな女には、今まで会ったことがなかった。

 大体どんな女も、サラッサ・ヒュドールの名前を聞けば笑顔を浮かべてつやめいた顔をする。サラッサが思わせぶりな態度を取れば喜ぶし、機嫌が悪そうなそぶりをすればを作ってご機嫌うかがいをしてきた。

 漣花のように無反応を貫かれるのはある意味では新鮮であり、ある意味では不思議でもあった。


(夢のあの子は絶対彼女だ。俺は、彼女が欲しいんだ。)


 しばしばサラッサの睡眠を侵すあの夢に出てくる少女が漣花だと、サラッサは確信している。だが彼女にしてみれば、サラッサは今日初めて会った知らない男なのだ。そんな男に急にぐいぐいと迫られては、拒否や拒絶をするのも無理はない。けれど幸か不幸か今この空間にそれを指摘する人間はおらず、サラッサはただ熱っぽい視線を漣花に注ぎ続けた。

 彼女が居心地悪そうに身動みじろぎするのに気付いたのはヒカノスだけだったが、ヒカノスもなぜサラッサがここまで漣花に興味を示すのかは分かっていない。

 普段はお互いにくだらない話をしあう程度の仲ではあるのだが、漣花を見た瞬間に彼女を守らなければと思う庇護欲が込み上げてきたのがヒカノスである。今はその感情に支配されていて、ヒカノスはサラッサと漣花の間を取り持とうという気はさらさらなかった。


「漣花、疲れていないか? 休憩するか?」


 ヒカノスがそう提案した時に、サラッサの目が輝いた。

 馬車で長時間揺られていると尻と腰が痛くなる、休憩は願ってもないことだった。その上、少し広いところで休憩すれば、ヒカノスが漣花から離れて、彼女と話す機会が得られるかもしれない。

 だが、そんなサラッサの期待を知ってか知らずか、漣花は首を横に振った。


「いえ、大丈夫です。まだ先は長いでしょうから」

「そうか。そうだな」


 ゆるりと首を横に振った漣花を見て、ヒカノスが砂糖を煮詰めたような甘ったるい顔でそっと頭をでる。

 触り心地の良さそうな綺麗な真珠色の髪が、ヒカノスの男にしては細長い指の間を滑り落ちていくのを見た。

 ヒュドールとディアノイアは領地で言うならば隣同士で、馬を走らせれば数時間で辿り着くことができる。だが、馬車となると話は別だ。

 二領の間には川が横たわっていて、そこにかけられている橋は一つだけ。馬で走っているだけならば浅瀬をざぶざぶと渡ればいいが、馬車となるとそうはいかない。橋のところまで馬を走らさねばならず、少し遠回りになるのだ。

 サラッサが騎馬ではなく馬車を使うよう押したのも、そのためだった。そもそも機会がないのでサラッサの乗馬の腕前が頼りないことはさておいて、漣花と少しでも長く一緒にいられるように馬車をすすめた。かなり強引な手段ではあったが、漣花が最初に降り立ったヒュドールの地はサラッサの持ち物だ。すなわち、ヒュドールにおいてはサラッサに従わねばならない。


「橋の手前で休憩をしないか?」

「さっさと着きたいんだが?」

「急ぐ理由もないだろう?」


 サラッサが提案をすると、ヒカノスが機嫌悪そうに眉間みけんしわを寄せた。

 長い付き合いだが、こんなふうに機嫌の悪さを友人に見せるような人間ではなかったはずだ。となると、漣花の何がヒカノスをそうまでさせるのだろう。

 一目惚れした自分は棚あげして、サラッサはつい考え込んだ。反対したいという顔はしていたが、この馬車の持ち主がサラッサであることを思い出したのか、ヒカノスは大きな溜息ためいきいて漣花の方を向いた。


「構わないか?」

「はい。兄様がおっしゃるのならば、構いません」

「悪いな」

「いいえ」


 漣花がヒカノスに微笑ほほえんでから窓の外を見る。その拍子に、一瞬サラッサと視線がぶつかった。

 ぱあっと顔を輝かせて笑いかけたサラッサに、漣花はごっそりと感情が抜け落ちたような顔をする。ヒカノスとの対応の差に少々複雑な気持ちになるサラッサだが、ここから親しくなっていけばいいかと思い直した。

 ヒュドールとディアノイアの領境にある川は、それぞれで呼び方が違っている。サラッサらヒュドールの人々はアミナ守りと呼ぶその川を、ヒカノスをはじめディアノイア領の人々はエピセシ攻撃と呼ぶ。

 かつてこの川を境と決めるまでの戦いの過程が影響しているそうだが、すでにその歴史は遥かな過去だ。


「綺麗な水ですね」

「そうだな。恵みの水だ。かつてはこれを巡って争い、川は赤く染まったという」

「そう、ですか……」


 漣花が目を伏せれば、紫水晶の瞳に長い睫毛まつげが影を落とした。

 ヒカノスが漣花に解説しているのを聞くふりをして、そっと近くに寄る。せめて髪に触れるぐらいは許されないだろうかと思っていると、漣花が気配に気付いたのかすっと動いた。

 ヒカノスの影に隠れるように、サラッサとは反対側にさりげなく逃げる。そんな彼女に、むうとサラッサは口をとがらせた。


「サラッサ。漣花に触るなよ」

「どうしたヒカノス。お前、姉にだってそんなこと言わなかったろ」


 ヒカノスの異母姉、当主であるテレイオスの実の妹に当たる女性について言及してやれば、ヒカノスは実に嫌そうな顔をした。


「姉上は自分で自分の身を守れる方だ」

「漣花だってそうだと思うがなぁ……」


 ちらりとヒカノスの背後に視線を送る。引っ込んだままチラとも出てこない漣花に、少しだけ落ち込んだ。

 そんなに嫌われたことなど今までになかったので、サラッサには対処がわからない。


「もういいだろう。行くぞ」

「はいはい」


 ヒカノスが漣花の背を押し、馬車へと誘導する。ご丁寧にサラッサからは姿が見えないように自分の体で隠しながら、だ。あまりに徹底した防御っぷりに、苦笑を通り越して怒りすら湧いてくる。

 そもそもヒカノスとて漣花とは今日初めて会ったはずで、それなのにサラッサに触れるのを許さず、自分だけが独り占めするとはどういう了見だろう。

 これまではいい女がいるなどと言って下世話な話で盛り上がったりしていたというのに、この変貌ぶりはどうしたことか。


(絶対に、手に入れる。)


 遠ざけられれば遠ざけられるほど、欲望は増していく。

 心の奥底にひっそりと仄暗い炎を灯して、サラッサは馬車へと乗り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る