15 夢の初恋少女

 昔からよく、夢を見る。それも、知らない人が出てくる夢を。

 サラッサとほとんど同じぐらいの背丈をした少女は、はかないけれど芯の強さを秘めた目をしていた。あちらを向いている少女に、夢の中でサラッサは名前を呼ぶ。すると、振り向いた少女は穏やかに微笑ほほえむのだ。

 その表情は愛情に満ちていて、サラッサの心を震わせる。泣きたくなるような、笑い出したいような、そのどちらもがないまぜになったごちゃごちゃした気持ちの中でどうにかこうにか笑顔を作ると、いつも少女は少し驚いたように目を丸くして、それからそっと手を伸ばしてくる。


 仕方ないな、もう。


 多分そんな感じのことを言っているのだろう。口は動いているのに、声が聞こえない。

 人は誰かを忘れる時に声から忘れるという。彼女がどんな声でサラッサの名前を紡いでくれていたのか、もう思い出せない。白魚のような白い手が宝物でも触るような手つきで髪をでていく、その感触もわからなくなっていく。

 夢を見始めた当初はやさしく触れる感触が残っていたような気がするのだが、あれは夢現ゆめうつつ微風そよかぜが髪をでていく気配でも感じていたのだろうか。


 待っているから。


 夢はいつも、少女がそう言って寂しげに目を伏せるところで終わる。目を開けても、夢は失われることなく鮮やかに蘇った。

 あの少女は知らない相手のはずなのに、声や名前をなどと思うのは、不自然で不思議なことだ。それでもサラッサはなぜか、特別疑問に思うこともなく思い出せないと少し落ち込むのだ。

 物心ついた頃からずっとそんな夢を見ているからか、サラッサの初恋はあの夢の中の少女だった。誰にも話していないことなのは当然で、話したところで友人たちには気でも狂ったかと思われることだろう。

 サラッサが逆の立場であればそう思う。夢の中の少女に恋して彼女を探していますなどとヒカノスやハイマが言おうものなら、一度頭を帆柱にぶつけてみることを勧めるだろう。

 だから、誰にも話したことはなかった。


 ヒュドール家の当主という立場上、女は掃いて捨てるほど寄ってくる。だがその誰も彼もが彼女とは違っていて、サラッサはたまに気まぐれに手を出しては一夜限りの関係で終わるという、バシレイア貴族らしい後腐れない関係を続けていた。彼女が欲しいと思うのに、明確に誰かはわからない。欲しい欲しいと、そんな風に気持ちばかりが急いている。

 だからを見つけた時、まるでそこだけ世界から切り離されたようにサラッサには見えた。あの子だと、そう思ったのだ。

 港に停泊した船から降りてきた彼女は異国からきたのだろう、バシレイアでは見ない変わった衣装に身を包んでいた。あちらこちらを見回しているのは、知った顔を探しているのだろうか。俺はここだと口に出したいのに、凍りついたように喉が動かない。

 凝視していることに気づいたのか、彼女がこちらを向いた。視線が合って、ぱちりとまばたきをひとつ。


(あれ……?)


 不意に、違和感がサラッサの喜びに水を差した。何かわからないでいるうちに、彼女がきょとんと首を傾げる。さらりと流れた美しい白い髪に、また頭の奥で何かが音を立てた。


(ああ、あの子だ。)


 違和感はどこかへ消え去って、彼女が欲しいと心の深いところで何かが叫ぶ。

 すっと色を帯びたサラッサの視線に気づいたのか、彼女は動きを止めた。まるで警戒している野生動物のようだ。

 ああ、可愛い。昔から変わらず。可愛い、俺の、大切な。


「サラッサ? そんなところで何してる?」


 不意に、どこかから聞き慣れた声がした。

 ちょうど彼女の後ろ側からひょっこり出てきた見慣れた色。潮風に煽られる長い紫の髪は、ディアノイア家の特徴だ。


「兄様! え……あ……」


 ヒカノス、とサラッサが名前を呼ぶ前に、彼女が先に口を開いた。

 一瞬、場が固まる。ぽかんとした顔のヒカノスも、そしてその隣にいたエイデスも、足を動かして彼女に近づいていたサラッサも、誰もが意味を把握はあくしきれない。

 近くでよく見ると、彼女は紫水晶の瞳をしている。ということは、ディアノイア家の縁者なのだろう。今まで海の向こうに身内がいるという話をヒカノスから聞いたことがなかった。

 ヒカノス自身も知らなかったのか、目を丸くして驚いている。


「申し訳……ありません……」


 今にも死にそうな顔をして、彼女がうつむいた。消え入るような声でびを紡ぐのを、ヒカノスが慌てながらなだめている。


「いや、大丈夫だ。気にしてないよ。君のような可愛らしい従妹いとこが来てくれたのは、とても嬉しい」

「ヒカノス、従妹いとこなのか」


 そっと彼女の肩に触れながら優しくささやくくヒカノスとは長い友人関係だが、今まで彼に感じたことのない憎悪があふれ出しそうになる。

 どうにかそれを腹の奥に押し留めながら、サラッサは努めて愛想あいその良い顔を作った。


「初めまして、お嬢様。サラッサ・ヒュドールだ」

「……水端みずは漣花れんかと、申します」


 近寄って手を差し出すと、彼女は最低限の礼儀は返すつもりなのか言葉少なに名乗った。

 彼女はじっとサラッサの手のひらを見つめていたが、自分の手を出そうとはしない。焦れたサラッサが手に触れようとした瞬間、ヒカノスが一歩前に踏み出して漣花と名乗った彼女を自らの背中に隠した。

 ひゅうと口笛を吹いたのはエイデスか。まるでサラッサから遠ざけようとするような動作に、どろりと腹の奥に何かがまる。


「彼女は俺が兄から言われて迎えに来た」

「そうか」


 いつもよりも若干不機嫌そうな声音でヒカノスがサラッサを牽制けんせいする。ヒカノスの兄ということは、異母兄であるテレイオス・ディアノイアからの指示で、ということだ。

 つまり漣花は繋がりはどうあれ、ディアノイア家当主が正式に認めた身内、あるいは客人である。そうなるとサラッサが迂闊うかつに手を出せば、それは領地間の問題になりかねない。

 むうと口をとがらせながらも、サラッサは引き下がった。

 だが、その程度で諦めるわけにはいかない。物心ついてからずっと探し求めていた少女が目の前に現れたのだ、諦めろという方が無理である。そもそもとして、基本的に望むものは全て与えられてきたサラッサだ。諦めるという言葉は、彼の辞書に載っていないに等しい。


「で? なんであんたがここに?」


 まった苛立ちの矛先は、愉快ゆかいそうに口元を緩めながらことの成り行きを見守っていたエイデスに向けた。

 ヒカノスを案内してきたのかもしれないが、それならそうとさっさと戻ればいいものを。そんな意味を込めてにらみつけると、エイデスは飄々ひょうひょうとした顔で笑った。


「サラッサ、お前にテレイオスからだ」


 そう言って差し出されたのは、一通の手紙だった。宛名は、確かにヒュドールとなっているが、相変わらずの悪筆が高じて肝心の名前が不明瞭だ。ヒカノスが何か物言いたげにしているのが見えたが、気にせず封を切る。

 これで中身がエイデスへ向けた内容であれば、ちゃんと読めと言って突き返せばいい。


「聞きたいことがある……?」


 中身を見てみれば、残念なことに内容だけでは宛先はわからない文面であった。サラッサ宛と言うからには漣花が来ることへの知らせかと思ったが、書き忘れたのか知らせるほどのことでもないと思ったのか、彼女のことについては何も触れられていない。代わりに、誰かとディアノイアを訪れてくれ、というようなことが記されていた。

 珍しさに、思わず三度読み返す。


「ヒカノス、何か聞いてるか?」

「いいや、俺は何も」


 聞きたいこと、と書かれているが、サラッサにはとんと心当たりがない。輸出用の農作物のことであれば今年は例年通りの量が採れていて出荷も順調で、売上金もいつも通り渡している。

 聞きたいことなどというからにはヒュドールの何かを知りたいのだろうが、今まで他領地のことなど全く興味を示さなかったテレイオスがどういう風の吹き回しだろうか。


(いや、これは良い機会かもな。)


 面倒くさそうな気配にエイデスに押し付けようかとも思ったサラッサだったが、ふとヒカノスの背後でちらちらと見え隠れしている白い髪を見て思い直す。


「ヒカノス、テレイオスに呼ばれているから俺もディアノイアへ行く」

「は?」


 今ディアノイア家へ向かえば、必然的にヒカノスや漣花と同道することになる。これを機に漣花ともっと話ができるかもしれない。

 にやりと笑いながらそう告げたサラッサに、ヒカノスは実に嫌な顔をした。

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