14 にいさま

 ナハトが海上に降り立った。彼は空を見上げてひどく嫌そうな顔をして、けれど首を横に振って前を見る。彼の頭上を白い鳥が旋回していて、それは離れていく様子がない。

 ぽつりぽつりとナハトの周りに黒い灯火ともしびが浮かび始める。波があったはずの海面うみづらは静まり返るように静止して、ただ彼の足元で波紋だけが広がっていく。


「……きみは」


 黒い灯火ともしびかれるようにして、海面から白い光が次々に立ち昇っていく。

 どこか夢か幻のような光景を見ながら、ぽつりと漣花れんかの隣でカイエが言葉を落とした。誰も彼もが立ち昇っていく白い光を眺め、祈るような姿勢を取っている人もいる。


「きみは、死に、たい?」


 カイエの顔を見ることはなく、漣花は前だけを見て考える。

 死にたいと願ったことはあっただろうか。少なくとも生きたいと、そう願ったことはなかったけれど。自分は死んでいくものだと、砕けて散るものだと、そう理解していたからこそ。


「……生きる道は、ありません」

「そう」


 どう足掻あがいても、何をしても。漣花の寿命は縮むことはあっても伸びることはない。脆弱ぜいじゃくな人間の器の中に押し込められたものは内側から漣花をむしばんで壊し、今だって心臓はこごえていく。

 それでも家族がいた時は、何も不安をいだくことはなかった。彼らに見送って貰えるのなら、それも悪くないと思っていた。


「生き、たい?」


 けれどもう、誰もいない。

 カイエの問いを、どうだろうかと考える。目の前では次々と白い光が空へと溶けて、消えていく。何もなくなった海の上で、ナハトは旋回せんかいする鳥をにらんでいるようだった。


「生きたいと思えば、この世は地獄です」


 生きたいと願ったところで、漣花の生きるすべはない。誰も、何も、できはしない。

 むしろ生きたいなどと願えば、生きられないという現実を直視することになる。この身が砕けて消えることに、そうなったら恐怖するようになるのだろうか。


「そう、か」


 カイエは揺らめき始めた海をじっと見ていた。

 彼の瞳は真昼の海と同じ色をしていて、今の海とは少しだけ色が違う気がした。どこまでも深く鮮やかな青色は、空の色ともまるで違う。


「もしも」


 さらりとカイエの金茶色の髪を潮風が撫でていく。漣花の視界の端で、ほどけた真珠しんじゅ色の髪が躍った。

 するりとナハトの手が弓を手にした。矢をつがえた彼は、頭上で旋回せんかいする鳥に狙いを定める。


「もしも、きみの世界が、地獄になった、ら」


 まばたきをしたカイエが、漣花の方を向いた。海色の瞳にまっすぐ射抜かれるのがどうにも居心地が悪くて、ほんの少しだけ身動みじろぎをしてしまう。

 生きたいと願えばきっと、一瞬でこの世界は地獄に変わる。生きたくとも生きられないとなった時、漣花は何を思うのだろう。


「おれを、呼んで」

「貴方を?」

「おれを」


 カイエの瞳からは、何も読み取ることができなかった。彼の瞳は先ほどの海のように凪いでいて、荒れ狂うこともなさそうな色をしている。

 色褪せた漣花の世界の中、カイエの海色とナハトの銀雪色だけはやけに鮮やかだ。他のものは記憶に残りもしないのに。


「最期に、おれが、きみを、すくって、あげる」

「救う?」

すく、う」


 その言葉の意味はやはり掴めず、漣花は首を傾げる。さらさらと落ちてくる髪が、鬱陶うっとうしいようなくすぐったいような、何とも言えない気分だ。

 人間の手ですくえるものは、ほんの少しだ。水は指の間から零れて落ちて、手の平の上にちっぽけな量しか残らない。


「きみは、似てる、から」


 鳥が射抜かれて、海の中へと落ちていく。波の中に呑み込まれた鳥の姿は、もう見えなくなってしまった。

 そういうものなのだ、命なんてものは。無為に生まれ、無為に死んで――特別なんて、どこにもない。


  ※  ※  ※


 群島の港で、別の船に乗り換えた。船というのはバシレイアにおいては男しか乗ることができないものだが、群島諸島連合においては性別の縛りはない。女海賊というものもいるらしく、そもそも船というものが生きていく上で必須の群島において、性別で乗れる乗れないを決めるようなものではないということだろう。

 バシレイアに近付くにつれて、海の色が変わるらしい。甲板に出て座り込みぽんやりと空を見上げていたら、そんな会話が聞こえて来ただけだ。

 目を閉じて浮かぶのは、赤、赤、白。復讐を果たしたはずなのに、未だ漣花にまとわりつくあの女の面影だ。ぽっかりと心に空いた空洞は、かつてという感情が埋めていたものなのだろうか。あれほど激情に駆られていたはずなのに、もう今は何も思わない。

 本当に自分は狂って壊れてしまったのか。それならそれで一向に構わず、死ぬまでこの空虚くうきょと付き合っていくだけだ。


「父様、貴方の故郷に行くんですよ」


 幼いころから三人の子供に父が語って聞かせた故郷の話。いつか連れて行くつもりだったのだろう、言葉までも教えて。

 特に、漣花は。八洲葦原やそあしはらにいても、漣花に未来はなかった。かといってバシレイアであれば未来があったのかと言えば答えはどこにもないが、父には何か考えがあったのかもしれない。


「安心してください、ご迷惑をおかけしたりはしませんから」


 バシレイア王国のディアノイア家、それが父の生まれたところだ。きっと父にとって八洲葦原やそあしはらは狭くて閉ざされていて、息の詰まる場所だっただろう。それでも父が八洲葦原やそあしはらを離れなかったのは、母がいたからだ。そして子供たちがいたからだ。けれどそのせいで、父は命を奪われた。

 差し出せるものなど、漣花にはほとんどない。あるのはすでに命が尽きそうなこの身だけだ。何も差し出せないのならばせめて、迷惑をかけてはならない。

 停泊の声が聞こえてくる。漣花は目を開けて、そのままふらりと立ち上がった。

 船室から荷物を取ってこなければならない。真っ白な着物の袖をひるがえして漣花は寝起きしていた船室へと向かう。

 荷物らしい荷物は、かつて父が持っていたという鞄が一つだけ。父の本、母のかんざし、兄の刀、弟の玩具がんぐ、大切なものはそれだけだった。あとは着物が何枚か詰め込まれているだけで、特別何があるというわけでもない。

 新しいものも何も要らない。ただ本当に父の生まれ故郷の大地を踏んでみたかっただけで、長居するつもりもないのだ。ディアノイアを見ることができたのならば、あとはもうあてもなくどこかへ行けば良い。

 船が止まり、海鳥の声が聞こえてくる。見送ってくれる船員に頭を下げて、港へと降りるための板の上を歩いて行く。

 彼らは群島へ戻るのだろう。カイエやナハトという縁はできたが、それこそまた群島へ行くのは一つの手だろうか。けれどバシレイアからの船旅は、女性を船に乗せられないというバシレイアの文化上難しいかもしれない。


「……父様」


 とんと港のところに降り立って、懐からテレイオスから届いていた手紙を広げる。何とも読みにくい文字ではあるが、漣花はそれをなんとか解読した。

 迎えを寄越すという記述はある。けれどそれが誰なのか、名前も容姿の特徴もない。寸前まで誰を行かせるのか決まらないからというのが、一つの理由なのかもしれなかった。

 どうしたものかと鞄を手にして考える。

 バシレイアの玄関口というのはヒュドールという場所で、領地の名前と同じヒュドール家がここを治めている。となれば、ヒュドール家の方を訪ねてみれば何か分かるだろうか。けれどバシレイアには身分というものもあって、異国人の漣花が急に訪ねたところで対応をしてもらえるかは分からない。

 父の名前を出したとて、もう二十年以上前にバシレイアを出た人だ。テレイオスがどこまで連絡をしているのかは手紙から読み取れず、ぐるりとその場所で考え込んでしまう。

 ふと視線を感じて、漣花はそちらを向いた。周囲の人々から比べるとそこだけへこんだようになっている、それでも漣花よりは少しばかり背の高い男が漣花を見ていた。彼はどこか呆けたような顔をしていて、何事だろうかと漣花は思わず首を傾げる。

 ぱちりと男が一つ瞬きをして、その視線の質が変わった気がした。それはあまり歓迎できるものではないようで、ちょうどいいと動き出そうとしていた漣花の足が止まる。

 顔も名前も分からないその男は、ただ、青い。けれどそれはカイエの海色とはまた違った青かもしれない。そうは思ったものの、あまり鮮やかに残るものではなくて、周囲の景色のようにすぐに色褪いろあせて消えてしまう。


「お前……」

「サラッサ? そんなとこで何してる?」


 男が口を開くのと、どこからか声がかかるのはほとんど同時だった。

 どこか聞き覚えのあるような声に、漣花は思わず笑みを浮かべる。


「兄様! え……あ……」


 するりと口から落ちた言葉も、笑顔も。

 振り返った先にいたその人はではない。漣花の兄はとっくに死んでいて、その首を抱えて慟哭どうこくして、その髪の感触すらも未だこの腕の中に残っているのに。

 表情が漣花の顔から抜け落ちる。ただその声がどこか似ていて、そうして間違えて、一体自分は何をしているというのだろう。

 指先が冷たくなる気がした。頭の芯が冷えていく気がした。心臓が、内臓が、何もかも、すべてが。

 どうして、間違えてしまったのだろう。兄が死んだということを、確かに覚えているはずなのに。

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