13 人魚を知りたい王弟殿下
ヒュドールの街であるルラキス=セイレーンに港がいくつかあるのは、船の大きさによって停泊する場所を変えるためだ。全ての船を同じ場所に停めてしまうと、入出港の時の波などで事故が起こりやすい上、停泊できる数も限られてしまう。
当然一番大きな港には大型船が停泊しており、扱う荷物の量も多い。そのため大きな港の周辺は主に市場が並んでいる。それは運ばれてきた輸入品をいち早く売り出すためであり、新鮮なまま海産物を売るためでもある。
様々な言語が聞こえ海の向こうの気配に満ちている大きな港の側がエイデスは好きだったが、あいにくと港周辺は市場以外の建物を建てることは禁じられている。それは例えヒュドール家であろうとも、いや、ヒュドール家であるからこそ守らなければならない規則の一つだ。
どうしても海の側に住みたかったエイデスは、自らの希望と空いている土地とを照らし合わせて熟考した結果、一番小さな港の近くに別邸を構えた。家の裏口からはすぐに
エイデスが構えた家は、当然のことながら庶民の家と言うにはあまりにも広い。貴族の別邸と考えれば普通の大きさではあるが、庶民の家が軽く三軒分は入るような大きさだ。
海が荒れても割れないようガラスは頑丈なものを使っており、全開にはならないような作りにしてある。侵入者への備えとして、エイデスやその妻子の私室は別邸の奥に
この秘密の出入り口を含めて、別邸の扉は三つ。一つは普段仕事の関係者が出入りする玄関、もう一つは
扉は明確に扉としてわかるようには作られておらず、壁の色と同化するように塗られている。つまり、一見しただけではわかりにくい。おまけに外から開こうとすると、鍵がかかっているので容易には入れない作りだった。
この秘密の扉を知っているのは、家族以外には一人だけだ。
「やあ、エイデス」
その一人というのが、今まさに仕事をしていたエイデスの前にひょっこり姿を現した怪しいフードの男だった。
顔を隠すようにすっぽりと頭を
呆れたエイデスが二の句を継げないでいると、彼は慌てたように顔の前で両手を振った。
「大丈夫! 誰にもつけられていないし! 俺の不在なんて気づいてすらいないだろうし!」
「そういうことを言ってるんじゃなくてですね」
頭を動かした拍子に、するりと
この色合いをしているのは、バシレイアでは王家であるエクスーシア一族だけ。
「む……せっかく会いにきたのに……」
エイデスが思ったほど喜ばなかったからか、青年はしょんぼりと肩を落としている。彼の名はテロス・エクスーシア、名前が示す通りエクスーシア家の一人だ。
彼は現在の王エレクトスの弟に当たる――つまり、バシレイア王国の王弟殿下だ。そんな王弟殿下が誰一人として供をつけることもなくヒュドール領にいるのには、訳がある。
「はあ……まあいいですけど。今日は、何か?」
「いいや別に?
にこ、と
本来テロスの立場であれば、兄である王を助け、政務に携わっているのが普通だ。だが彼は政務に関わったことはただの一度もない。ひょっとすると、現王に弟がいることすら失念している貴族もいるかもしれない。それぐらい、テロス・エクスーシアという名前は公式の場には出てこないのだ。
それは全て、母である皇太后の意向だという。
「じゃあ書庫でも行きますか」
「いいね。この間の続きを読ませてくれ」
エイデスがテロスとこうして親しく言葉を交わすようになったきっかけは
あまり詳しく事情を聞こうとしなかったのが良かったのか、それとも単純に気が合ったのか。いずれにせよテロスは城での半ば
まるでどこぞの姫君との内密の
仕事をしている最中だったが、立ち上がってテロスを先導する。テロスが案外読書家なのは、何にも
母である皇太后はテロスをほとんどいないものとして放置していたが、そのおかげで彼が彼女の目につかないところで何をしていようと
「人魚の伝説を知りたいんだよな……」
「それ、前からずっと
「うん」
テロスが目下のところ一番知りたがっているのは、ヒュドールに伝わる人魚の伝説だ。
彼が服の下から引っ張り出した小袋は長年身につけているせいで
「人魚の
「へえ」
気のない返事をするが、人魚というものを信じていないわけではない。
船乗りの例に漏れずエイデスもそこそこ信心深く、海には得体の知れないあれやこれやがいると思っている。この街も、
だが、テロスのその鱗を持って生まれてきたという本人の主張については、いまいち信じられない。首から下げた小袋の中にはその持って生まれて来たという
エイデスも見せてもらったことがあるが、確かに魚の
「好きなだけどうぞ」
「ありがとう」
にこりと
「エイデス様、お客様がお見えです」
テロスを書庫に押し込んで扉を閉めたすぐ後に、使用人から声をかけられた。テロスがいるのを見られるわけには当然いかず、エイデスの喉からは変な声が出そうになった。
「……っ、お、おお……」
グゥ、と締まった喉を無理やり開いて返事をすれば何とも微妙な声が出たが、使用人は気にした様子もなく一礼して去っていく。
背後の扉に向かって夜には戻ることを告げてから執務室へ戻れば、そこに立っていたのはヒカノス・ディアノイアであった。
「は?」
思いがけない相手の来訪にエイデスは眉間に皺を寄せる。
エイデスの方を見つめたヒカノスは非常に硬い表情をしていた。長い髪も相まって少々女性的な
「珍しいな。何の用だ?」
「当主様から手紙を預かって参りました」
立ったまま一通の封筒を突き出すヒカノスからそれを受け取り、くるりとひっくり返す。
なるほどテレイオスからの手紙というのは嘘ではないらしく、特徴的すぎる悪筆が踊っている。かろうじてヒュドール宛なのはわかるが、エイデス宛かサラッサ宛か、判別ができないぐらいには筆が悪い。
「俺宛か?」
「はい」
テレイオスとは年が近くはあるが、彼は当主でエイデスは違う。つまり、立場が全く違っているのだ。
そのため顔を合わせたことはあった気がするが、話したことなどあったかどうか記憶にない。そんな程度の関係だというのに、一体何の用件だというのだろう。これでお互いに独身であれば政略結婚かとあたりをつけることもできたが、
「サラッサの間違いじゃないのか」
「さあ、そこまでは……」
テレイオスから手紙をもらう心当たりがなさすぎて再度確認すると、ヒカノスが困ったように眉を下げた。彼も、明確にエイデス宛だという自信はないらしい。
「一度サラッサに渡す。中身が俺へ向けたものならその場で俺が回収する。いいな?」
「わかりました」
どうにもあまりいい予感はしないエイデスは、全てを弟に丸投げすることに決めた。案外本当に、サラッサ宛なのかも知れないのだ。
彼ら二人ならば当主同士であるので、手紙が来るのも
そう思ったエイデスは、もう一度席を立つ。
「サラッサは港にいるはずだ。ついてこい」
返事をもらわねば帰れないのだろうと踏んで
サラッサと仲が良いことは知っているが、どうしてこの二人が親しく過ごせているのかは分からずじまいであった。
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