11 ゆるやかに朽ちるもの

 漣花れんかは二度だけ、父の生家へ手紙を送ったことがある。一度目は父の兄が亡くなった時に父に代わり、二度目は父の死を伝えるために。現在のディアノイア家の当主であるテレイオス・ディアノイアという人は大層な悪筆で、漣花はその手紙の内容を読み解くのに四苦八苦した。

 血縁の上では従兄いとこであるその人物の姿を、漣花は想像上でも思い描けないでいる。バシレイアの人間は父しか知らず、ではテレイオスという人は父に似ているのかと考えてみても分からない。

 縁側えんがわから見える夜空に、丸い月が見えていた。ただ静かに月を見上げて、やがて漣花は目を伏せる。ひゅ、と突然息が出来なくなって、心臓が冷たく凍るような心地がして、ただ着物のあわせを掴んだ。手が白くなるほどに握りしめても、きしむ音も凍えるような心地も消えてくれない。


「漣花」


 かさりと木々の葉がこすれる音がした。縁側の向こう、現れた人影に驚くようなこともなく、漣花はただそちらに視線を向ける。

 背の高い男が一人、月の光に照らされていた。あなたですか、と、それだけを紡ぐ。


「何の御用です、凪墨なぎずみ様。貴方は甘茂君かものぎみですから、罪に問われていらっしゃらないでしょうに」


 天宮の屋敷を燃やした男が、月光に照らされて笑っている。凪墨はつかつかと縁側に近付いて、どかりとそこに腰を下ろして足を組んだ。

 息を一つ吐き出せば、心臓は少し落ち着いたようだった。吐き出した息が冷たいような気がして、漣花はわずかに眉根を寄せる。


「あのジジイ共は俺が怖いだけだ。余程よほど生にしがみつきたいと見える」


 老翁ろうおうたちのところに、凪墨の姿はなかった。漣花を国外追放にすると決めた彼らは、凪墨ともう一人は不問にすると決めたのだ。

 縁側にいる凪墨のところに歩み寄り、その隣で正座をする。相変わらず真ん丸の月は皓々こうこうと輝いていて、白い光で夜を照らしている。灰色の雲が薄くたなびき、けれどそれは月を隠してしまえるものではない。


「それはそうでしょう、貴方はですから」

「一応な」


 神を殺せるものはある。漣花は少しばかりずるい手を使ったものだが、凪墨はそんなものも必要がない。彼は殺そうと思えば神を殺せる――そういう風に、できている。

 そういう神は存在するのだ。ひとつは炎、ひとつは刃物。


「お前、追放なんだって?」

「お耳の早いことで」

「どこへ行くつもりだ?」

「バシレイアへ。ただその後は、何も決めておりません」


 いっそどこか、戦乱でもあるところへ飛び込めば良いだろうか。そうすれば安穏たる死ではなく、苛烈なる死を得られるだろうか。

 どうせ漣花の前に道はない。その道は途中で崩れ落ち、あるところからは真っ暗闇だ。


「ふうん」

「貴方は穏やかに暮らせると良いですね」

「穏やかに? やなこった。俺もこの島を出る、玉垣内たまかきうちへ、な」


 吐き捨てるように言って凪墨が笑う。知ってはいたが、改めて言われるとやはりそうかと思うのだ。

 八洲葦原やそあしはらはきっと、ゆるやかに死んでいくのだ。子供はほとんど生まれることなく、流れは遅くなっていく。ゆるみ、よどみ、停滞し、その果てはきっとただ死んでいくだけのものだろう。


「俺は多分、あっちの方が相性が良い。神なんてクソッタレなもの、大嫌いだからな」

「ご自身のことを棚上げですか」

「ああ、棚上げだとも。このまま緩やかに死ぬのを待つくらいなら、俺はこの島を捨てて行く」


 自浄作用がなくなれば、腐っていくだけだ。止水となれば死水となる。

 この島はきっと、その途上だ。流れを失った水は腐っていくだけ、いずれはひどい腐臭を撒き散らし、誰もが眉をひそめるようになる。


「そうですか」

「そうだ」


 何一つとして、未練はない。

 父の、母の、兄の、弟の、彼らの遺したものを一つずつ。八洲葦原やそあしはらは人が死ねば燃やし、その灰は海にいてしまう。だから墓というものはない、遺骨もない。


「お前の追放の日、途中まで一緒に行ってやるよ。嬉しいだろ?」

「いえ、特には」

「そこは嘘でも嬉しいって言えよな、お前。お前は人間のくせに嘘が下手だ」


 疑いとは、横道とは、人間にあり。神にも鬼にもそれはない。人間だけが偽りを口にして、神や鬼すらも疑うのだ。

 嘘が必要なこともあるのだと漣花に教えたのは父だった。兄や弟はよく分からないという顔をしていたが、多分父はそれを漣花にだけ伝えたかったのだろう。


「そうでしょうか」

「そうだよ、クソガキ。まったく、クソガキならクソガキらしく、ふてぶてしく生きていられりゃ良かったのにな」


 ぐしゃりと凪墨が漣花の髪を掻き回すように撫でた。どうせもう眠るだけで、今更髪型が崩れただのなんだのと言うようなものもない。

 空を見上げれば、やはり月がそこにある。


「土台無理な話です」

「だから言ってんだよ、分かれそれくらい」


 凪墨が立ち上がった。彼はこの島を捨てて、玉垣内たまかきうちへ行くという。きっともう一人はこの島に最期までいるのだろうなとふと考えた。

 それはそれで、良いのだろう。ゆるやかなる死があったとて、それは明日のことではない。


「ほら、さっさと寝てしまえ。酷い顔だ」

「そうですか」


 眠る前に、いつだって思うことがある。凍てつく心臓と刺すような痛みを抱えながら、ひとり布団の中で丸くなって。

 安穏と眠りながら死ぬのは間違っている。だから明日も目が覚めますようにと、そう願うのだ。


  ※  ※  ※


 悲鳴が聞こえる。怒号が聞こえる。

 八洲葦原を出た船は、二十日はつかほどは穏やかなものだった。海が完全に凪いでしまうことはなく、順調に船は走り、漣花を乗せて西へと向かう。

 追放前にディアノイアに出した手紙には返答があり、その返答だけをふところに入れて漣花はこの船に乗ったのだ。

 異変は、群島諸島連合の海域に入ってからだった。群島諸島連合に海賊が多いと言うのはよく聞く話ではあるが、まさかそれに自分がまきこまれるとは、というところである。

 甲板の上、積まれた木箱の影で息を殺す。どうしたものかと状況をうかがいながらじりじりと動いていたところで、とんと誰かに肩がぶつかった。


「あ」


 まずいと思ったものの、相手から敵意はなさそうだ。

 前方では剣戟けんげきの音が聞こえてくる。船員というのはこういった場合にそなえて戦えるようにしはしているらしいが、相手が三せきとなると分が悪い。


「……私以外にも、隠れている人がいましたか」


 太陽の光に照らされて、銀雪色が輝いている。どこか冷たいような顔だちのその人は、声をひそめて口の前に人差し指を立てた。

 すっと細められた黒曜石の瞳は、油断ゆだんすることなく甲板の様子をうかがっていた。

 重なって倒れる人が、船員であるのか海賊であるのか、はたまた乗客であったのか、漣花からは分からない。それでも一つ分かるのは、それがということだ。


「貴女は、戦えますか」

「人並みには」

然様さようで……私とカイエ様だけでは手が足りません。手を貸していただけますか」


 彼に問われて、漣花はさして迷うこともなく首を縦に振る。

 ここで死ぬのならばそれはそれだ。人を助けて死ねるのならば、それは意義のある死と言えるのかもしれない。ならばそれは望むところなのだ。


「わかりました」

「助かります」


 名も知らぬ人は表情を変えることなく、すっと目の前の光景を指し示す。少し日に焼けた指の先、また誰かが死んでいく。


「あの海賊は排除対象です。海神様がだと」


 彼の言葉の意味は分からない。

 群島諸島連合の人々は、とにかく海に住まうという大蛇――海神様の名前を口にするのだという。つまりは彼も群島の人間ということなのだろう。


「……私、出ますね」

「どうなさるおつもりですか?」


 ふらりと漣花は立ち上がった。腰にいた刀は兄の遺品で、けれどあつらえたように漣花の手に馴染んだものでもある。

 兄が持つには少し短かったそれは、漣花にはちょうどいい。


「一応女ですので、気を逸らすことはできますから。私の容姿は、使えると思いますよ」


 自分の使い道というものは知っている。母に似た容姿を日頃どうこう思うことはないが、こういう場合に人目を惹くというのは使えるものだ。

 別に色を使うとかそういうわけではないが、海賊というからには相手を値踏みするものだろう。商品になるようなものならば、きっと彼らは手を伸ばす。

 襲い掛かって来るのならばそれはそれ。そうなれば迎え撃つだけのこと。


「そうですか……では、お気を付けて」

「ありがとうございます」


 心臓が冷たく凍えていくような感覚に、あわせを握る。八洲葦原やそあしはらを出てから回数が増えているそれは、おそらく八洲葦原やそあしはらでは一応押さえつけられていたものが暴れているからなのだろう。

 あとどれくらい生きるのか、そんなことを問いかける。この色褪いろあせた世界にしがみつくつもりはないが、かといって自分で命を絶てるかと言われるとそれはできない。

 特別な死に方なんてない。あの女にもそう告げた。漣花とて無価値なのだから当然だろう。この身に価値はなく、意味もない。

 それでも苛烈な死を願ってしまうのは、生まれた意味を知りたいからか。何のために異端に生まれ、何のためにこの世界で生かされているのか。

 その答えは、どこにもないのだ。

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