10 その鬼の名を

 どうせならここで死んでしまえたら良かったのに。復讐を果たしたその瞬間に終わりを迎えられたのなら、こんな空虚くうきょな心をかかえることもなかったのに。どうせいつか朽ち果てるのに、この身はくだけて消えるのに、どうしてその瞬間が今ではないのだろう。

 目の前に並んだ五人の老翁ろうおうは、顔を白い布で隠している。けれどずらりと並んだ彼らの視線が漣花に注がれていることは分かっていた。


「おぬし、何をしでかしたか分かっておるか」


 いったい何年生きているのか知らないが、法というものの存在しない原始的な八洲葦原やそあしはらにおいて、何かを決めるのはこのおきなたちだ。

 あの女とて王のような立場であっても、何かを決定する権限などほとんどない。


天宮あまみやを殺害するとは、嘆かわしいことを」

「嘆かわしい?」


 べったりと血のついた死装束、まだらに染まった薄青の袴。結局その姿のままに漣花はここへと連れて来られた。

 けれどここにいるのは漣花一人で、他の誰も隣には並んでいない。


「違いますよね。貴方がたが思っているのは――『人間』が『現人神ミコト様』を殺せるなんて有り得ない、どうなっている……そうでしょう?」


 八洲葦原やそあしはらは神の坐す国。それは比喩ひゆでも何でもないのだ。外の世界との交流のないこの国に生きているのは、人間の形はしているけれど人間ではない。

 現人神あらひとがみ、というものがある。それはその名の通りである。

 その中にあって、漣花は真実だった。かつてこの国に流れ着いた異国人である父親と、この国の現人神であった母との間に生まれ、三人の子供の中で唯一父と同じであったもの。

 紫水晶の瞳で老翁たちをじゅんぐりに見れば、少しばかりたじろいだようだった。人間に殺せるはずがない、そう高をくくっていたのかもしれないが、漣花は確かにあの女を、そしてあの屋敷にいて逃げなかったすべてを殺してみせた。

 人間とて、神は殺せる。神殺しなど、八洲葦原やそあしはらにも、玉垣内たまかきうちにも、そして滅んだ秀真ほつまにも、伝わっているものではないか。


「それで、どうしたいんです。この国に本来処刑はない。だから私の扱いを決めあぐねている。そう正直におっしゃってはどうですか」


 漣花の兄は処刑という名目で首を落とされたが、本来そんなものはこの国にはない。法すらないのだから当然ではあるが、いちいちそんなことをしていては人が減る一方になるからなのだろう。何せこの国において、子供というのはなかなか生まれてこない。寿命の長い現人神たちばかりなのだから当然だが、漣花のような三きょうだいなどまずいないのだ。

 老翁ろうおうたちは漣花を扱いかねている。脆弱ぜいじゃくなる人の器に神の力だけを持って生まれてきた、この国における唯一のを。

 どうせいつか、その神の力に


「この国にいられては困ると、そう正直におっしゃっていただけますか」


 次は自分たちが殺されるかもしれない。復讐という名目であまりに多くのものを殺したからか、老翁ろうおうたちはそんなことを懸念けねんしているのだろう。

 別に漣花は殺人鬼に堕ちたわけではない。だから無差別に彼らを殺そうとは欠片かけらも思っていないが、老翁ろうおうたちは漣花の心が読めるわけでもないのだ。


「だから私と同じように天宮の屋敷を襲ったお二人は、ここに呼ばれていないのでしょう?」


 火を放ったのは漣花ではないし、死んだものすべてを漣花が斬ったわけではない。

 けれど、この場には漣花一人だ。あとの二人は現人神であり、異端ではないのだから当然か。しかも片方はもともと神殺しの現人神だ、扱いが違っても別に不思議には思わない。


「どうせもう、この国には何もありません。未練も、大切なものも、すべて。だから追い出していただいて構いませんよ。お望み通り、どこかでくだけて野垂のたれ死んで差し上げましょう」


 彼らはという存在が消えない限り、きっと安心できないのだ。これまで一切の脅威きょういにさらされてこなかった八洲葦原やそあしはらの人間なのだから、小心者なのは当然だ。

 父が死んだときなのか、兄の首が投げ込まれたときなのか、弟が沈められて遺体も戻らなかったときなのか、それはもう分からないけれど、きっと漣花はどこかで死んでしまうべきだった。死んでしまわなかったから、こんな風に生きているから、だから。

 一番最初に漣花が死ぬはずだったのに、どうして。


「何故、復讐などした」

「してはいけませんか。大切なものを理不尽に奪われたのに」


 復讐は何も生まないから赦しなさい、貴方が赦せば復讐の連鎖も止まります。そんなの吐き気がするだ。

 どうして自分だけが我慢をして、暗澹あんたんたる思いを抱えながら生きていかなければならないのだ。赦し方など知らない。赦そうなどと思えない。

 けれど復讐を終えて残っているのは空虚くうきょだけ。こんなものが正しくないということくらい、漣花だって分かっている。


「私は自ら望んで鬼に堕ちたのです。女は容易たやすく鬼になる、ご存じありませんでしたか? 玉垣内たまかきうちでは有名な話だそうですよ」


 隣にある国の名前を出して、漣花は笑う。その儚げな容姿には似合わない、酷薄な笑顔を浮かべて。

 そのうつくしい鬼の名前はきっと、復讐鬼というものだ。八洲葦原の白百合と称された母の面影を色濃く残した八洲葦原の姫百合は、心が壊れて鬼に成り下がった。

 雪のように真っ白な髪、長い睫毛に縁どられた紫水晶の瞳、ともすれば融けて消えてしまいそうなほどに儚げな美しい少女は、けれど血に塗れて笑みを浮かべる。


「私は自分のしたことを、何一つとして後悔していません。これまでも、そしてこれからも」


 間違っていたなどと思うことは決してない。それが正しいことでないことは理解していても、それでもだ。この空虚くうきょな心がそのことへの罰だというのなら、なんと軽い罰なのか。

 老翁ろうおうたちがさざめきあう。漣花より数段高いところに座る彼らは、自分たちが特別だとでも思っているのだろうか。


(どうせ何も、価値などないのに。)


 人を殺してはいけません。人を傷つけてはいけません。悪いことは自分自身にいつか返ってきます――。そんな常識、漣花は知っている。


「水端漣花、お前を国外追放とする。一か月の謹慎きんしんの後に八洲葦原やそあしはらを出て、そして二度とこの地を踏むな」

うけたまわりました。では、そのように致します」


 床に両手をついて、身に染み付いた美しい所作で一礼する。指先にまで気を配った優雅な所作など息をするより簡単だった。

 これでいい。そうしてどこかで笑いながら死んでいく。けれど。


(ああ、灰色だ。)


 あの日、世界は色を失った。ごうごうと燃える炎によって、色彩のすべてを焼かれたように。思い出せるのは女の白い白い面と、真っ赤な唇、そしてその頬にべったりとついた赤黒い血――本当に、吐き気がする。


(これでいい。どうせ、こんな世界。)


 生きている理由もないのに、ただ生きて。そうして何になるというのだろう。この心臓はまだ止まることもなく動いていて、終われない。

 復讐は終わり、何もない。空を仰ぎ見ても何も美しいと思えない。ただ青色だと思うのに、ちっとも漣花の心は動かない。

 こんな世界に生きているのかと嘆いても、どうして死ねないのだと嘆いても、結局何も変わらない。

 きっとどこにでもあるありふれた不幸は、けれど十六歳の少女の心を壊してしまうのには十分だった。


「命にはすべて、何の価値もないのですよ、おきな様」


 何もかもすべて平等に、価値がない。

 そうでなければならないのだ。そうでなければ、どうして漣花の大切な価値あるはずのものだけが理不尽に奪われたのか理由がない。

 国外追放ならいっそちょうど良かった。死ぬより前に、一度だけ見てみたいものがある。一度だけ、踏んでみたい大地がある。

 漣花の父は異国の地からこの八洲葦原やそあしはらに流れ着いた。その国の名前も、ことばも、父は漣花に教えたものだ――きっと、いつか漣花がこの国にいるのが苦しくなると知っていた。


「けれどここで安穏あんのんと死ぬくらいなら、それで終わるくらいなら……私は外で、苛烈かれつなる死を迎えましょう」


 何もしなくとも、いずれ死ぬ。けれどそのただ終わりを待つだけの穏やかな死に何の意味があるのだろう。

 それならばいっそ、意義のある死を。何一つ価値なく異端者と生まれた漣花が、生まれた意義を正しく認識できるくらいに意義のある苛烈なる死を。

 そうでなければ、漣花は何のために生まれて来たというのだろう。ただ人間として、その中に神の力を押し込められて、ただただ死を待つばかりのこの命に、何の意義があったというのだろう。

 目指す大地はここから西だ。父の生家はその名を――ディアノイアと、いった。

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