8 君のことは、過去にはならじ

 ここはバシレイア王国で、目の前にいる女性は皇太后である。というのが、求めてもいないのに紫音しおんの目の前でしゃべるエイレーネ・マカリオスからの情報であった。大して興味もないのにしゃべり続ける彼女の言葉を紫音が真面目に聞いているように見えるかもしれないが、実際にはただ頭の中でバシレイアの言葉を翻訳ほんやくしているだけに過ぎない。

 どうでもいいというのが紫音の本音ではある。秀真ほつまではない国に対して何かをすることはまずないし、実際目の前のエイレーネがいくつなのか分からないが、そもそも彼女に興味もない。


「見えてきましたね、あれがエフティフィアです」

「そうですか」


 知っているし、何なら先日うっかり入り込んだ場所である。

 けれども口をつぐんだのは、どうにも紫音が助けた彼女はエイレーネと無関係そうだからである。エイレーネの立場からして、エフティフィアは王城だ。ならばそこで大怪我を負っていたとなれば、その原因はと想像できるものがどれも穏やかなものではない。

 百歩ゆずって彼女が王家の誰かの護衛であり、そして誰かを守るために怪我を負ったのだとしたら、そもそもあんな場所で隠れるように倒れていることの理由が説明できないのだ。


「俺を連れて行って、どうするつもりですか」


 がたごとと揺れる馬車の中、どうにも居心地が悪くて紫音は何度も座り直す。

 そもそも馬はともかくとして、馬車に乗ったことなどないのだ。明らかに高級そうなこの馬車はきっと揺れを抑えたものだろうが、そうだとしてもやはり慣れない。


「そうね」


 エイレーネが少しばかり考え込むような姿勢を見せた。

 彼女は紫音が大蛇オオカガチを相手取っているところを見ている。この国の兵力がどの程度なのかは知らないが、積み上げてきた経験のことを考えれば紫音より強い人間などほとんどいないと考える方が正しいだろう。

 そもそも紫音は、自分と互角に戦える人間すら、ほとんど知らない。


「飼って差し上げます」

「は?」


 何を言われるかと考えていたところで、耳に届いたのは思いも寄らぬ言葉であった。

 けれどもそれは、紫音にとって吐き気をもよおすものであるのも確かだ。耳鳴りがする。冷たい床にめ殺しの窓、無機質な鉄格子てつごうし。お前はそこにいろとわらったのは、最早執着というものでしか生きられないしわだらけの顔をした老人。


「ですから、この私が直々に飼って差し上げますの。見目も整っていて強いとなれば、飼うに値します」


 ああ本当に、気持ちが悪い。それが何よりの褒美ほうびであるかのように語る女の顔が、どうしようもなくゆがんでみにくいものに見えてしまう。

 隊長、と。

 大丈夫だ、まだその声を覚えている。の声が聞こえてくるのならば、紫音はまだ立っていられる。


「……生憎と、俺の主は一人だけだ」

「でしたらその方と交渉しましょうか? どちらに?」


 既にこの世にはない人を引き合いに出しても、そう言われてしまえば紫音は口をつぐむしかない。

 主はもうこの世にいない。紫音の主は殺されてしまって、その魂は船に乗せられた。あの時紫音は死神というものに初めて出会ったのだから、間違いはない。


「そもそもここはエクスーシアなのです」

「だから?」

「エクスーシア一族の言うことは、絶対。そういうものよ」


 くだらなくて、笑みを浮かべた。それは所詮しょせんバシレイアに住む人間のものであり、紫音を縛るようなものにもなりはしない。

 紫音をバシレイアの法でなど裁けるものか。もちろんそれをしたとて、誰も抗議こうぎをする人間はいないけれど。



 エイレーネの言葉など、紫音には何一つとして関係がないのだ。彼女が何を言ったとて、響くものは何もない。

 けれど彼女はその顔に悲し気な笑みを浮かべてみせるだけだった。こういう手合いを目の前にしたことはあるが、やはり相容あいいれないものがある。


「まあ、そんな怖い顔をして。この私が飼うということは、地位も何もかもほしいままにできるということなのよ?」

「俺の欲しいものが誰かに分かるものか」


 欲しいものをくれる人など誰もいない。ましてエイレーネがそれをくれるはずもない。

 生きていて良いと言ってくれ。けれどそれを彼女に言われたところで、紫音が喜べるはずもないのだ。選り好みと言われればそれまでかもしれないが、それを言って欲しいのは決して彼女ではないのだ。

 では誰ならば良いのかという答えなど、今の紫音は持ち合わせていないけれど。


「さあ、着きました。行きましょう?」


 エイレーネがするりと紫音の手を取った。白魚のような手、手弱女たおやめの手、その手はきっと美しいと称えられてきたのだろう。

 けれど紫音は、その手に何の価値も見いだせない。


「……っ! 黎紅りく以外が、俺に触るな!」


 隊長。

 笑った顔だけを覚えていたかった。君の笑顔だけを覚えていたいのに、どうしてだか浮かぶのは最後の泣き顔だけなのだ。

 紫陽花アジサイが咲いていた。雨の中だった。どうか一度だけと、この雨が上がるまでだけと、彼女がうた。

 その手を取ると決めたのは、紫音だった。躊躇ためらいを踏み付けて素手で彼女に触れて――それがどうしようもなく、彼女を傷付けると知りながら。この醜い感情を彼女にぶつけた。

 あいしている。

 きっと、ずっと、君だけを。過去形にすらできないこの想いを。それがじくじくとみにくい女に塗り替えられていくようで、ひどく気持ちが悪かった。


「誰がお前なぞに飼われるか――クソババア!」


 その手を払い除けて、馬車の扉を叩くようにして開ける。そのままひらりと飛び出して、どちらとも分からぬ道を紫音は駆け出す。

 黎紅だけなのだ。他の誰も、赦さない。


「衛兵! 追いなさい! 捕らえて連れて来るのです!」


 背中で甲高い叫びを聞いた。その命令に従ってきっと兵士は動くのだろう。このエクスーシアという場所にいれば、間違いなく彼女の命令によって兵士が追いかけて来る。

 薄青のマフラーがひるがえる。けれどコートのすそひるがえらない。

 背中のところで、腰のところで、かつて主から下賜かしされた小太刀こだちの重みが存在を主張する。分かっている、覚えている、紫音は何一つとして忘れられないなのだから。


「ああくそ、面倒な!」


 殺すかどうかを考えてしまって、吐き気がした。

 お前は何人殺したのだと、そんな声がする。分かっている、知っている。あの時の秀真ほつまの人口が何人であったのか、紫音はきちんとそれを数えて背負ったのだ。

 背負うと決めた。背負い続けると決めた。けれどこれ以上を背負うのか。


璃空りく、先導してくれ! 道が分からん!」


 上空で旋回していた赤いオナガドリが、承諾しょうだくするように一声鳴いた。そうして青い空に赤い残像を残しながら、璃空が飛ぶ。

 ただその尾羽を追いかけて、紫音は駆ける。とにかくまずはエクスーシアを抜けて、考えるのはそれからだ。いくら王族と言っても紫音の知るバシレイアの知識が正しいのなら、他の領地ではそこまでの権力は持たない。

 これが絶対的な王制であったのならば国から出るまで追われ続けただろうが、バシレイアは他領地では王族も勝手はできなかったはずだ。紫音の知識が十年前で止まっていると言っても、たかだか十年で劇的に変わったりはしないだろう。


  ※  ※  ※


 石畳の道をただ駆けた。雑踏に紛れてしまえばあきらめるかと思っていたのだが、どうにもしつこい。皇太后の命令は絶対ということか、だとしてもやはり鬱陶うっとうしいものは鬱陶うっとうしいのだ。

 一度立ち止まって迎え撃とうとして、けれどコートの下に滑らせた手は暗器を掴むことなく止まってしまう。

 これ以上背負うのか、また人を殺すのか。とがめるような声が脳内に響き、紫音の手をにぶらせる。


「逃がすな! 追え!」


 結局紫音は暗器を取り出すことができず、再び駆け出すしかなかった。

 よろいの音が聞こえてくる。がちゃがちゃという金属音は金属の防具というものが一般的ではなかった秀真で聞くことはなく、何とも慣れなくて耳障みみざわりだ。


「お、っと……」


 駆けていたせいで、紫音にしては珍しく気配に気付くこともなかった。曲がり角を曲がったところで誰かにぶつかってしまい、体格差からか尻餅をつきそうになるのを大きな手が掴んで止めた。


「あ、わ、悪い」

「お前……」


 目の前にいる男は、大層背が高かった。紫音が小柄な方というのを加味しても、男は大柄で背が高い。紫音が見上げなければならないくらいの男の顔は逆光になっていて見えないが、その髪の色が赤いことだけは分かる。

 この男が紫音の味方であるかは分からない。ともかく背後から迫る兵士から逃げねばならないというのに、壁のように紫音の前に立った男は、何か懐かしいものでも見るかのような顔をしていた。


「久しぶりだな」


 ぽろりと、男の口から言葉が落ちる。

 少なくとも紫音はこの男のことなど一切知らない。というよりも、バシレイアに紫音のことを知る人間などいないはずだ。

 だというのに目の前の男は、などと紫音に言ったのだ。


「は?」

「あ?」


 しばしぽかんとお互いに顔を見合わせる。

 迫り来る兵士たちの鎧の音は間近に迫ってきているというのに、紫音の足は見事にそこで止まってしまった。

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