8 君のことは、過去にはならじ
ここはバシレイア王国で、目の前にいる女性は皇太后である。というのが、求めてもいないのに
どうでもいいというのが紫音の本音ではある。
「見えてきましたね、あれがエフティフィアです」
「そうですか」
知っているし、何なら先日うっかり入り込んだ場所である。
けれども口を
百歩
「俺を連れて行って、どうするつもりですか」
がたごとと揺れる馬車の中、どうにも居心地が悪くて紫音は何度も座り直す。
そもそも馬はともかくとして、馬車に乗ったことなどないのだ。明らかに高級そうなこの馬車はきっと揺れを抑えたものだろうが、そうだとしてもやはり慣れない。
「そうね」
エイレーネが少しばかり考え込むような姿勢を見せた。
彼女は紫音が
そもそも紫音は、自分と互角に戦える人間すら、ほとんど知らない。
「飼って差し上げます」
「は?」
何を言われるかと考えていたところで、耳に届いたのは思いも寄らぬ言葉であった。
けれどもそれは、紫音にとって吐き気を
「ですから、この私が直々に飼って差し上げますの。見目も整っていて強いとなれば、飼うに値します」
ああ本当に、気持ちが悪い。それが何よりの
隊長、と。
大丈夫だ、まだその声を覚えている。彼女の声が聞こえてくるのならば、紫音はまだ立っていられる。
「……生憎と、俺の主は一人だけだ」
「でしたらその方と交渉しましょうか? どちらに?」
既にこの世にはない人を引き合いに出しても、そう言われてしまえば紫音は口を
主はもうこの世にいない。紫音の主は殺されてしまって、その魂は船に乗せられた。あの時紫音は死神というものに初めて出会ったのだから、間違いはない。
「そもそもここはエクスーシアなのです」
「だから?」
「エクスーシア一族の言うことは、絶対。そういうものよ」
くだらなくて、笑みを浮かべた。それは
紫音をバシレイアの法でなど裁けるものか。もちろんそれをしたとて、誰も
「だからどうした」
エイレーネの言葉など、紫音には何一つとして関係がないのだ。彼女が何を言ったとて、響くものは何もない。
けれど彼女はその顔に悲し気な笑みを浮かべてみせるだけだった。こういう手合いを目の前にしたことはあるが、やはり
「まあ、そんな怖い顔をして。この私が飼うということは、地位も何もかも
「俺の欲しいものが誰かに分かるものか」
欲しいものをくれる人など誰もいない。ましてエイレーネがそれをくれるはずもない。
生きていて良いと言ってくれ。けれどそれを彼女に言われたところで、紫音が喜べるはずもないのだ。選り好みと言われればそれまでかもしれないが、それを言って欲しいのは決して彼女ではないのだ。
では誰ならば良いのかという答えなど、今の紫音は持ち合わせていないけれど。
「さあ、着きました。行きましょう?」
エイレーネがするりと紫音の手を取った。白魚のような手、
けれど紫音は、その手に何の価値も見いだせない。
「……っ!
隊長。
笑った顔だけを覚えていたかった。君の笑顔だけを覚えていたいのに、どうしてだか浮かぶのは最後の泣き顔だけなのだ。
その手を取ると決めたのは、紫音だった。
あいしている。
きっと、ずっと、君だけを。過去形にすらできないこの想いを。それがじくじくとみにくい女に塗り替えられていくようで、ひどく気持ちが悪かった。
「誰がお前なぞに飼われるか――
その手を払い除けて、馬車の扉を叩くようにして開ける。そのままひらりと飛び出して、どちらとも分からぬ道を紫音は駆け出す。
黎紅だけなのだ。他の誰も、赦さない。
「衛兵! 追いなさい! 捕らえて連れて来るのです!」
背中で甲高い叫びを聞いた。その命令に従ってきっと兵士は動くのだろう。このエクスーシアという場所にいれば、間違いなく彼女の命令によって兵士が追いかけて来る。
薄青のマフラーが
背中のところで、腰のところで、かつて主から
「ああくそ、面倒な!」
殺すかどうかを考えてしまって、吐き気がした。
お前は何人殺したのだと、そんな声がする。分かっている、知っている。あの時の
背負うと決めた。背負い続けると決めた。けれどこれ以上を背負うのか。
「
上空で旋回していた赤いオナガドリが、
ただその尾羽を追いかけて、紫音は駆ける。とにかくまずはエクスーシアを抜けて、考えるのはそれからだ。いくら王族と言っても紫音の知るバシレイアの知識が正しいのなら、他の領地ではそこまでの権力は持たない。
これが絶対的な王制であったのならば国から出るまで追われ続けただろうが、バシレイアは他領地では王族も勝手はできなかったはずだ。紫音の知識が十年前で止まっていると言っても、たかだか十年で劇的に変わったりはしないだろう。
※ ※ ※
石畳の道をただ駆けた。雑踏に紛れてしまえばあきらめるかと思っていたのだが、どうにもしつこい。皇太后の命令は絶対ということか、だとしてもやはり
一度立ち止まって迎え撃とうとして、けれどコートの下に滑らせた手は暗器を掴むことなく止まってしまう。
これ以上背負うのか、また人を殺すのか。
「逃がすな! 追え!」
結局紫音は暗器を取り出すことができず、再び駆け出すしかなかった。
「お、っと……」
駆けていたせいで、紫音にしては珍しく気配に気付くこともなかった。曲がり角を曲がったところで誰かにぶつかってしまい、体格差からか尻餅をつきそうになるのを大きな手が掴んで止めた。
「あ、わ、悪い」
「お前……」
目の前にいる男は、大層背が高かった。紫音が小柄な方というのを加味しても、男は大柄で背が高い。紫音が見上げなければならないくらいの男の顔は逆光になっていて見えないが、その髪の色が赤いことだけは分かる。
この男が紫音の味方であるかは分からない。ともかく背後から迫る兵士から逃げねばならないというのに、壁のように紫音の前に立った男は、何か懐かしいものでも見るかのような顔をしていた。
「久しぶりだな」
ぽろりと、男の口から言葉が落ちる。
少なくとも紫音はこの男のことなど一切知らない。というよりも、バシレイアに紫音のことを知る人間などいないはずだ。
だというのに目の前の男は、久しぶりだななどと紫音に言ったのだ。
「は?」
「あ?」
迫り来る兵士たちの鎧の音は間近に迫ってきているというのに、紫音の足は見事にそこで止まってしまった。
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