6 飼い主不在のオオカガチ

 あてもなくふらふらと雑踏を歩く。紫音しおんの服装はこの国に馴染まないのだろうが、奇異の視線はすべて無視することにした。見てくれというのは確かに人を判断する上で重要な一因だけれども、ある意味で紫音のように人と関わりたくないのならば好都合とも言える。

 人は未知のものに恐怖をいだくという。

 薄青のマフラーをひるがえして、紫音はただ歩いた。その足元を駆け足になるように、小さな灰色の毛玉が追いかけてくる。


三七十みなと、お前は……いや、いい」


 問おうとして、意味のないことであると思い直した。どうせ三七十は。人であることを捨てて獣になることを選んだと言うのなら、きっとその方が彼にとっては良かったのだ。

 どうかおれを殺してね。

 最後に僕を殺してくれますか。

 狂う前に、俺を殺せ。

 どうかすべて、彼らに喰わせてしまってくださいね。

 殺してくれ、終わらせてくれ。そうやって紫音に願ったくせに、彼らはみんな紫音に「生きろ」と言ったのだ。死を願うその口で、紫音にだけは生を願う。

 でも、誰もとは言ってくれなかった。死ぬなと言って死を取り上げ、けれど生きろと願っても生きる許可なんてくれもしない。


「紫音は紫苑シオン、鬼の醜草しこぐさ


 その植物の名は、思ひ草。決して忘れるなと押し付けて、誰も彼もが死んでいく。

 どうしてお前は男なのだと誰かが言った。お前は呪詛じゅそかたまりであると誰かが言った。生まれながらにして化け物で、そして最後の一線までも踏み越えた。人間は化け物に成り下がれても、化け物は人間に戻れはしない。


「俺は……」


 誰が、産んでくれと頼んだ。誰が、生かしてくれと頼んだ。

 いっそ諸共もろともに死んでしまえば良かったものを、この身に流れるものが赦さない。誰かの願いは呪いに変わり、紫音の体を雁字搦がんじがらめに絡め取る。

 誰もそんなことを、頼んじゃいない。それならばどうか、許可をくれ。

 誰かどうか、俺に生きていて良いと言ってくれ。

 それだけが『人間の形をした化け物昂神紫音』の願いであった。けれどその願いは誰に知られることもなく、ただただ紫音の中でだけくすぶっている。

 何もかもすべて自分で壊した。みんなみんな、死んでいった。殺してくれという願いのままに。

 戦争以外で人を殺したことがあるか。それを誰にも罪に問われなかったことがあるか。


「俺、は」


 いつの間にか雑踏を抜けていた。

 先日誰かを助けた城は遥か後方に見えていて、きっとここはまだその管轄かんかつ内なのだろう。振り仰いで、そしてふと足を止める。

 鼻に届いたのは、奇妙な臭いだ。錆びた鉄にも似た臭いが混ざるのは、血の臭いが混ざったからか。

 ぱたりと足元で三七十が一つ、尾を振った。それは決して先へ進むのをうながすすためのものではない。


「分かってるよ、三七十。行けば良いんだろ」


 悲鳴が聞こえる。

 一人と一匹は、その悲鳴が聞こえて来た方向へと向けて駆け出した。


  ※  ※  ※


 横転した馬車と、口から泡を吹いて倒れた馬。馬車の下から赤いものが流れ出てきていることが何を示しているのかなど、深く考えなくとも分かるだろう。

 ぐしゃりと前髪を握り潰して、またきちんと双眸そうぼうが隠れるようにもとに戻す。

 馬車の向こうでゆらりと首をもたげるものがあった。紫音の胴体よりも遥かに太いであろう胴は艶やかに白く、太陽の光を反射して鱗が輝いていた。


「……大蛇オオカガチ? なんで、こんなところで」


 紫音にとっては見慣れたものであるが、ここは秀真ほつまよりも西に離れた場所である。蛇というものは世界各地のどこにでもいるものだと知ってはいるものの、だからといってかつて見たものにここまで酷似しているということがあるものか。

 蛇のが近くにいないかを探してみるものの、周囲にはその気配がない。どこかで息を潜めて笑っているのかもしれないが、一体何のためにこれを放ったのか。それともこれはただの野生か。

 大蛇がかぱりと口を開ける。鋭い牙と二岐ふたまたに分かれた舌、ぽたりぽたりと唾液が落ちて、じゅうと音を立てて馬を焼く。

 馬はすでに事切れていて、焼かれても声を上げることはない。

 馬車の中にある気配を紫音は正しく読み取って、思わず眉間みけんしわを寄せた。生きた人間の気配が一つだけある。


「三七十」


 心得たとばかりに三七十が一声えた。大蛇に怯えることもなく三七十は駆け、大蛇の尾の方からその体へとのぼっていく。大蛇が嫌がるようにして身をよじるのを確認し、紫音は横転した馬車に駆け寄ってその扉を力任せに引いて開いた。

 中には血の気の失せた顔をしている、今にも気を失いそうな年嵩の女性が一人いた。護衛や侍女は馬車の周りに控えさせていたのだろうが、他には誰もいない。

 周囲を確認し、少し離れたところに岩があるのを見付けた。失礼すると一声かけたが、きっと伝わっていないだろう。

 返事を待つことはなく、その人を荷物のようにかかえ上げる。残念ながら身長のこともあり、紫音には彼女を横抱きにして運ぶような芸当はできないし、したくもない。

 岩のところにその人を座らせて、即座に大蛇の方へと足を向ける。コートの下に手を滑らせて、何本も仕込んであった暗器を三本引き抜いた。


「三七十! 無理するなよ!」


 大蛇の頭に噛み付いていた三七十が、紫音の声でぱっと大蛇の頭から口を話す。くるりと空中で一回転した三七十が軽い足取りで紫音のところへ戻ってきて、大蛇はそれを追うようにして紫音を見た。

 縦に長い瞳孔、血走ってはいない黄緑色の目。しゅう、と一つ声がする。

 地面に爪先を数回ぶつけ、聞き慣れた音であることを確認した。それから、かかとも。腹のところも拳で軽く叩けば、記憶にある己と何ら差異がない。

 身に染みているものというか、どうにも蛇や狐というものは殺しづらい。いや他のものも躊躇ちゅうちょなく殺せるかと言われれば答えは否ではあるが、蛇や狐はやはり別格だ。


たたってくれるなよ……頼むから」


 牙をいている大蛇からは少し距離を取り、確実に柔らかく暗器の刃が通るであろう目を狙う。鱗の固さがどの程度か分からないが、あの大きさであれば通常の蛇よりも固いはずだ。となると細い暗器の刃が通るかは不明だ。

 腰のところに吊るした小太刀こだちはある。けれどもそれは、使うような代物しろものではない。

 目、口の中。うろこがなくて狙いやすい部分となると思い当たるのはそれくらいだ。一本を確認のために打てば蛇が頭をもたげ、鱗に弾かれて三本が落ちた。

 つま先で地面を蹴り、大蛇との距離を詰める。


あごと頭。脳を揺さぶれば、あるいは。)


 即座にコートの下から引き抜いた暗器を少し高めのところに打ち、大蛇の頭を下げさせる。狙い通り下がってきたその頭の下に入り込み、地面に手をついて足を振り上げた。がつりと固い音がして、大蛇の頭が跳ね上がる。

 落ちてくる前に下から抜け、大蛇の背に駆けた。そのまま頭の上にまで躍り上がり、体を回転させた遠心力のままに大蛇の頭を横から蹴り飛ばす。

 ドオ、と大きな音を立てて大蛇が落ちる。音を立てずに紫音は地面に降り立つと、そのまま三七十が駆けてくる。大蛇の首を押さえるようにして、三七十が大蛇に再び喰らいついた。

 その隙に、紫音はコートの下から暗器ではなく短冊状の紙を一枚引き抜いた。『ばく』という一文字だけが書かれたそれだが、その文字を読める人間が果たしてこの国にいるのだろうか。


うごめけ、捕らえろ」


 地面にを押し付ければ、ずるりと地面の中に符が吸い込まれていく。ふらりと持ち上がりそうになった大蛇の頭を見逃さず、即座にもう一枚符を引き抜いて同じように人差し指と中指で挟んだ。


「奪え!」


 ふっと息を吹きかけて符を飛ばす。空を切り裂いて符は一直線に飛び、大蛇の目のところに貼りついて視界を奪った。そして地面に吸い込まれた符からは、しゅるしゅると細いつたが無数に伸びていき、大蛇を絡め取る。

 ぎちりと締め上げられた大蛇は、シュウシュウと音を立てているものの動きを止めた。


「おい、お前の飼い主はどこだ」


 三七十が口を離したそこを、紫音は踏み付ける。

 紫音が知る蛇の飼い主というのは一人しかいないが、まさかこの国にいるのか。あの少年にしか見えない人物は、北の大国アーイズビルクにいるものだとばかり思っていたが。

 蛇は当然ながら答えることはない。どうしようもないなと紫音は前髪をき上げた。


「なあ三七十、この辺に――あ」


 ふらりと立ち上がった女性が、何を思ったか紫音に近付いてきていた。大蛇がもう動けないと見て近付いてきたにしても、あまりに迂闊うかつすぎる。

 顔を見られたと判断して、紫音は即座に前髪を戻した。顔がどうこうという話ではなく、けれど見られたくないものが前髪の下にある。

 しゅるりと足元で音がして、踏み付けていたはずのものがふっと消える。あ、と紫音が声を上げた時には既に遅く、小指ほどに小さくなった蛇がどこかに消えていく。


「助かりました、褒美ほうびを差し上げますわ」


 紡がれた言葉がどこのものであるか、紫音は頭の中で判断する。

 これでも中継貿易拠点として栄えた国の出身だ、取引があった国の言葉は少なからず覚えている。彼女の紡いだ言葉はオルキデやバシレイアで使われている言葉で、その発音からバシレイアの人間であると判断ができた。


「結構です」


 だから、覚えている言葉で返答をした。ただ慣れない言葉のせいで、少しばかり間ができてしまった。その間が何であると彼女が判断したのか分からないが、彼女は笑みを浮かべて紫音の手袋に包まれた手を取った。

 ぞわりと全身が総毛立つ。


「遠慮することはありませんよ。何でも用意させましょう」


 手を振り払おうとして、けれど躊躇ちゅうちょする。紫音の気持ちはさておいて、礼儀であるとか相手がどう思うかであるとか、そんなものがぐるりと脳内を巡る。

 遠くから馬が駆けてくる音がする。駆け寄ってきた一人が馬を降り、彼女の前にひざまずいた。

 そうして男は言ったのだ――殿、と。

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