5 ご機嫌取りの一路
いつの間にか我が子は随分と重くなったものだ。眠ってしまったカプノスをベッドにそっと下ろしながら、カフシモは穏やかな笑みを浮かべた。ここ
子供の一年というのは大人のそれよりもっとずっと濃密で、知らない間にきっと多くのことを覚えたのだろう。現に久しぶりに会った時に口調がやけに大人びていたり、文字を書けるようになっていたりしていて驚いたものだ。仮にも貴族であるから、何も母親一人で育てているわけでもない。むしろカプノスの様子を見るに、妻はほとんど我が子に関わってはいないだろう。それは珍しいことではないし、子育ては大抵
わかっているから、カフシモは妻に対して何か文句を言ったことはなかった。礼を言ったこともないが。
「寝た……か……?」
子供の常だが、ベッドに下ろそうとすると途端にもぞもぞとむずがってしまう。腕の中では完全に脱力して寝息を立てているのに、ベッドの感触がわかっているのかぐずり出すのだ。
四苦八苦しながらカプノスをそっとベッドに寝かせ、とん、とん、と規則正しく腹を叩いてやるとどうにかこうにか彼は寝ついてくれた。
「ラアナは大丈夫か……?」
思っていたよりも時間がかかってしまい、足早に部屋を出る。入れ違いに妻が帰ってきたが、お互いにちらりと視線を交わし合うだけで特段会話もせずすれ違う。
見た目は非常に美しい妻だが、彼女とは母の縁を伝った政略結婚であり、お互いに好みの相手でもなかった。すでに息子が生まれて跡取りに困っていない以上、二人の間に流れているのはひどく無機質な感情だけだ。
見知らぬ場所でラアナを一人待ちぼうけさせてしまっただろうか、だとすると申し訳ないことをした。そう思いながら外へ出たカフシモが見たのは、誰もいない空っぽの空間だった。
「ラアナ?」
はて、と首を傾げる。
待ちくたびれてどこかへ行ってしまったのだろうか。けれど彼女はそういうことをするような子には見えず、何かこの後用事でもあったのかもしれないとも考える。
首を
「なんだ?
最近よくこの声を聞く。ぐるりと振り向いたそこには、
「さっきの小娘でも探しているの? あの
「俺の客だぞ。勝手なことを」
「客ですって? あんな薄汚いのを置いておいたら評判が悪くなるわ。囲いたいならどうぞ私の目の届かないところに置いてくださいね」
思いがけない言葉に自然カフシモの言葉が強くなる。ぎろりと
言いたいことだけを言って家の中へ引っ込んだ妻の後ろを追うように、家の扉を開ける。腹立たしさのままに荒々しく扉を閉めるとばたんとけたたましい音が鳴り、妻は嫌そうに
そんな顔すら美しいと、彼女に
カフシモは、彼女のような見目麗しい女性は苦手だった。そういう女性は多くが自らに絶対の自信を持っていて、男はみんな自分の意のままに動くと思っている。それが叶わないと
「ん……?」
妻が
カフシモは決して記憶力が悪いわけではないのだが、興味がないことに関しては即座に忘れる
「おねえちゃんは……?」
「ラアナは帰ったんだそうだ」
「えー!」
しょぼしょぼしていたカプノスの目が一気に開く。
甲高い声で悲鳴のように叫ぶカプノスを、妻が嫌そうに睨んだ。
「静かにしなさい」
「なんで! さよなら言ってない!」
「あー……」
頬を
あの部屋の中には、どこから調達したものかわからないが高価そうな貴金属や
「ねえ! なんで! なんで!」
「ラアナは仕事があったんだ。待ってられなかったんだよ。手紙の約束をしただろ?」
「むー……」
それはそれ、これはこれ。そんな言葉が顔に書いてある。
手紙は手紙として嬉しいが、カプノスとしてはきちんとさよならをしたかったのだろう。改めて、ラアナを追い返した妻に腹の奥がムカムカとしてきた。
彼女は
「カプノス。じゃあ俺の仕事についてくるか」
「おしごと? なあに?」
だがそれを妻に
カプノスが父であるカフシモに懐いていて、母のような
ぷんぷんと怒っているカプノスの前に
「エクスロスに武器を届けるんだ。ついてくるか」
「行く!」
普段は決してついて行かせてはもらえない仕事について行けるとあって、カプノスの機嫌は急浮上した。
今日のように妻はカフシモが戦地から帰ってきて以来、
デュナミス領は岩山が多く、亡くなったセラスのように転落事故も時折発生する。カプノスが一人で出歩いていて何かあったらと思うと、カフシモはおちおち遠出もできない。それならば多少危険は伴うが、仕事に連れて行く方が精神衛生上楽だ。
そんなカフシモの思いも知らずぴょんぴょんと飛び跳ねるカプノスは、部屋に戻って自分のおでかけ装備を引っ張り出していた。
※ ※ ※
翌日、カフシモとカプノスの姿は馬上にあった。
デュナミスからエクスロスまではそう遠くなく、馬を走らせれば一日あれば十分に着く距離だ。カフシモの愛馬は足が速く、少々の悪路でも気にせず突き進むので余計に早い。だが今日は、
カフシモ以外を乗せることを極端に嫌う愛馬はカプノスを見て不満そうに鼻を鳴らしたが、最終的に主人の要望を飲んでトコトコと並足程度の速さで進んでいる。その後ろには、武器や防具を乗せた荷台が続いた。馬車のような状態で走らされることを愛馬は嫌がったが、かといってカフシモが自分以外の馬に乗るのも嫌、という
「ごめんな。帰りは荷物はないからな」
がたごとと揺れる馬車の上で、カプノスは終始ご機嫌だった。
「はやーい!」
きゃっきゃとカプノスが笑うたびに愛馬が鼻を鳴らす。うるさい、とでも言っているかのようだ。
決して子供の声を喜んでいるわけではないのは分かっている。
「カプノス、静かにな」
「はあい」
その度にカフシモは我が子を
これはエクスロスについたら愛馬のご機嫌取りが必要だなとカフシモが苦く笑った時、不意に空を小さな影が横切った。
「なんだ?」
念の為に、弓矢を近くに引き寄せて空を見上げる。それは、カフシモらの上を
「あ! グラウだ!」
カプノスは覚えていたらしい、ラアナが連れていた小さな
パタパタと飛んできたグラウは、カプノスが大喜びで差し出した手のひらの上に無事着地する。少し得意げな顔をしているように見えるのは、カフシモの気のせいだろうか。
その足に括り付けられた手紙を見て、カプノスはまた喜んだ。せがまれるままに手紙を外して渡してやりながら、グラウを回収しておく。
「ほら、あっちで読んでろ」
「うん!」
いそいそとカフシモの膝から降りて荷台に入るカプノスに、カフシモはほっと息を吐いた。これで少しは静かになるだろう。愛馬のストレスも和らぐに違いない。
グラウもぴょこりと荷台に降りると、影になっている場所で止まり目を閉じた。
「エクスロスで返事を書こうな」
「うん、書く! たくさん書くよ!」
読むのが大変だからほどほどになと呟いた声は、元気よく手紙を音読する声に飲み込まれて消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます