4 手紙の約束
どうして涙が出てしまったのか、泣いたラアナ自身にも分からなかった。けれど大切な何かを
目の前には真っ白な墓標がある。
オルキデでは遺体の
じくりと、顔の
「お姉ちゃん?」
「はい、どうしましたか」
カプノスに呼ばれて、ラアナは彼と視線を合わせるようにしゃがみこむ。
五歳だという彼はまだまだ未来がある年齢だ。その頃に自分が何をしていたかなど思い出せるようなものではないが、その後のことを思えばどうか幸せであれと願うばかりだ。
彼は貴族の子として生まれてきたのだから、平民のラアナが思うものとはきっと違う道だろう。
墓標の前、彼はきっともうつまらなくなっているに違いない。カフシモは墓標の掃除をしているが、手伝おうにも手は出せそうになかった。
「またあそんでくれる?」
「え、と……」
そもそもラアナはオルキデの人間であり、今回国境を越えてデュナミスへやって来ることができたのはカフシモの許可があったからだ。けれど何もないのに勝手にデュナミスへ来ることはできず、またカプノスがオルキデに来ることも難しい。
ましてラアナは普段どこにいるとも言えないのだ。
「だめ?」
じわりとカプノスの瞳に涙が
どうにも母親は彼を放りがちで、父親であるカフシモもずっと彼の相手をしているわけにもいかないのだろう。ならば遊び相手を雇うという手はあるのだが、バシレイアでそれは一般的なのだろうか。
年の近い子供が親族にいれば良いのかもしれないが、かといって相性が良いとは限らない。ましてバシレイアにおいては異母や異父のきょうだいということも多く、敵対関係にあることも珍しくはないという。
「こら」
どうしようかとラアナがカプノスを前にして悩んでいると、ひょいとカプノスがカフシモに抱き上げられた。墓標の掃除はもう終えたのだろうか。
「あまり困らせてやるな」
「だってぇ……」
父に抱き上げられて、カプノスは不満げな声を上げている。
母も父も遊んでくれないともなれば、遊びたい盛りの五歳は不満なのだろう。けれど
ラアナがデュナミスの平民であったのならばどうとでもなったかもしれないが、残念ながらラアナはオルキデの人間だ。そして平民とは言えど、鴉の雛鳥でもある。
この後群島へ行かなければならない以上、カプノスの
「あ、か、カプノス様、では、こうしましょう」
フードの中でのんびりと昼寝をしていた小さな
相変わらずのんびりやなラアナの手の上にちょうど乗る大きさの
くる、と機嫌良くグラウが喉を鳴らしている。
「この子、グラウと、言います」
「グラウ?」
「はい。小さい、ですが、仕事はできます、から」
海を越えることはできないが、デュナミスとベジュワ侯爵領の往復くらいはできる。カプノスのことを覚えさせれば、問題なく仕事は果たせるだろう。
シハリアには言わなければならないが、彼が中継点になるのはいつものことだ。群島にグラウを連れて行くことはできないし、ちょうどいい。
「手紙を、書きます。バシレイアの、文字は、書けます、から……文字の、お勉強、です」
バシレイアとオルキデは喋る言葉は同じでも、書く文字は異なっている。それから少し意味の異なるものもあるのでそこは気を付けなければならないが、その辺りはラアナが考えれば良いことだ。
「私も、下手、なので……一緒に、お勉強を、しませんか」
オルキデの平民の
ラアナが読み書きできるのは、ファラーシャに、ひいてはバルブール家に拾われたという幸運あってのものでしかない。それでもファラーシャやシハリアと比べればまだまだで、勉強途中でもある。
カプノスはきょとんとした顔をしていたが、何を言われたのか理解をして、ぱあっと表情が明るくなった。
「する!」
「そうですか。良かった、です」
下ろしてくれと言うように身じろぎしたカプノスの気持ちを汲み取ったカフシモが、彼をそっと下ろしてやっている。カプノスの目線がまた低くなったので、ラアナもまた身を
手の上にいたグラウはラアナの頭の上に移動して、機嫌良さそうに一声鳴いた。
「グラウがよろしくね、だそうです、カプノス様」
「うん、グラウ、よろしくね!」
カプノスは嬉しそうに笑っていて、ラアナはほっと胸を
それを
※ ※ ※
カプノスは墓までの移動とはしゃいだこととで疲れたのか、眠そうにしていた。今日は昼寝をするかとカフシモに問われた彼は船を
寝かせてくるから待っていてくれとカフシモに言われ、ラアナはただ別邸だというその家の前で
「あら?」
手持ち
その声のした方を振り返れば、背の高い
紫色の瞳に、嫌悪の色が宿っている。そんなものを見慣れてしまっているのもどうかとは思うが、それはラアナが自分を見られる時によく乗せられる色であり、それだけはよく分かってしまう。
「見たことのない顔……嫌だ、どこかから
返答を求められていない以上は口を開くのも
凡庸な平民など視界に入れたくないと言う貴族が一定数いることは理解していた。平民とて見目が整っていればいくらでもやりようはあるが、ラアナはそうではない。ただでさえ平凡な顔の上に、隠しているとは言えど醜い
ちゅう、と
「帰ってちょうだい。嫌だわ、
待っていろと言ったのはカフシモである。おそらくカフシモの妻であろう彼女の命令を聞くべきなのかどうか、この場においてラアナには判断がつかなかった。
「聞こえないのかしら? もしかして耳まで悪いの?」
「……いえ」
聞こえてはいる。聞こえているからこそ、考えている。
ここはバシレイアであって、オルキデではない。オルキデであってもバルブール家の評判を落とすことにつながるのだから
まして今はまだ、情勢が安定していない。ラアナが雛鳥である以上、軽率な振る舞いは危険を
おそらくこの場では彼女の言葉に従って、ここから去るのが一番だろう。またカフシモには謝罪することが増えてしまうが、ハンカチも返さなければならないのだし、それと併せて謝罪をすれば良いだろうか。彼女の様子からして、この場で謝罪を
「不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。すぐに去りますので、ご
この判断が正しいのかは分からないが、この場を収めるという点においては間違いではないだろう。そう考えてラアナは謝罪をして頭を下げる。
ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。彼女はそれきりラアナに興味を失くしたのか、こつこつと足音が聞こえてくる。やがて扉の音がして、人の気配も消え失せた。
そうしてようやく、ラアナは顔を上げる。
「帰り、ましょうか……」
彼女にそう言った手前、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう。何か書くものでも持っていれば良かったのだが、生憎と今は紙がない。
グラウはまたラアナのフードの中で昼寝を決め込むことにしたのか、フードの中に潜り込んでいる。
誰もが優しい人ではないと知っている。ラアナの顔の
ファラーシャやシハリアとばかり関わっていて、忘れそうになることを思い出す。
「ラハブレワハ」
その神の名前すらも
まだ誰も出てくる気配のない別邸に向けて一度頭を下げて、ラアナは背を向ける。そうしてしばらく行ったところで、ずるりと影に沈んだ。
この後戻れば、船旅になる。群島諸島連合の話ならカプノスも喜んでくれるだろうかと考えると、少し気分が浮上する気がした。
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