4 手紙の約束

 どうして涙が出てしまったのか、泣いたラアナ自身にも分からなかった。けれど大切な何かをうしなってしまったかのような胸の痛みは確かにあって、分からないままに落ち着かなければと内心であせる。カフシモに渡されたハンカチは返さなければならないが、かといって濡らしてしまった以上そのまま渡すこともできない。

 目の前には真っ白な墓標がある。

 オルキデでは遺体の埋葬まいそう火葬かそうが主である。これは早々に燃やしてしまわなければ暑さによって腐敗ふはいするというのが一因であったという。火の神であるラハブレワハが生命を司るとされるのも、人間は最期にラハブレワハの火によって焼かれるからだ。

 じくりと、顔の火傷痕やけどあとが痛みをうったえた。過去のことをとかく言うことはできず、そしてこれがなくなることはない。あぶられ、焼かれ、それでも生きた、それだけのこと。


「お姉ちゃん?」

「はい、どうしましたか」


 カプノスに呼ばれて、ラアナは彼と視線を合わせるようにしゃがみこむ。

 五歳だという彼はまだまだ未来がある年齢だ。その頃に自分が何をしていたかなど思い出せるようなものではないが、その後のことを思えばどうか幸せであれと願うばかりだ。

 彼は貴族の子として生まれてきたのだから、平民のラアナが思うものとはきっと違う道だろう。

 墓標の前、彼はきっともうつまらなくなっているに違いない。カフシモは墓標の掃除をしているが、手伝おうにも手は出せそうになかった。


「またあそんでくれる?」

「え、と……」


 そもそもラアナはオルキデの人間であり、今回国境を越えてデュナミスへやって来ることができたのはカフシモの許可があったからだ。けれど何もないのに勝手にデュナミスへ来ることはできず、またカプノスがオルキデに来ることも難しい。

 ましてラアナは普段どこにいるとも言えないのだ。居候いそうろうとしてバルブール家に部屋を与えられてはいるものの家というわけではなく、仕事によっては野宿をしていることも多い。


「だめ?」


 じわりとカプノスの瞳に涙がにじんだ。

 どうにも母親は彼を放りがちで、父親であるカフシモもずっと彼の相手をしているわけにもいかないのだろう。ならば遊び相手を雇うという手はあるのだが、バシレイアでそれは一般的なのだろうか。

 年の近い子供が親族にいれば良いのかもしれないが、かといって相性が良いとは限らない。ましてバシレイアにおいては異母や異父のきょうだいということも多く、敵対関係にあることも珍しくはないという。


「こら」


 どうしようかとラアナがカプノスを前にして悩んでいると、ひょいとカプノスがカフシモに抱き上げられた。墓標の掃除はもう終えたのだろうか。


「あまり困らせてやるな」

「だってぇ……」


 父に抱き上げられて、カプノスは不満げな声を上げている。

 母も父も遊んでくれないともなれば、遊びたい盛りの五歳は不満なのだろう。けれど我儘わがままばかりも言えず、ようやく遊んでくれそうな相手を見付けたというところかもしれない。

 ラアナがデュナミスの平民であったのならばどうとでもなったかもしれないが、残念ながらラアナはオルキデの人間だ。そして平民とは言えど、鴉の雛鳥でもある。

 この後群島へ行かなければならない以上、カプノスの些細ささい我儘わがままをかなえてやることもできない。どうしたものかと考えていると、ラアナの砂けのフードの中で何かがもぞもぞと動き出す気配があった。


「あ、か、カプノス様、では、こうしましょう」


 フードの中でのんびりと昼寝をしていた小さなフクロウを、手の平の上に乗せる。突然明るい光の下に引っ張り出されたからかグラウは体を震わせているが、飛び立とうとする様子はない。

 相変わらずのんびりやなラアナの手の上にちょうど乗る大きさのフクロウだが、カプノスには少し大きく見えるかもしれない。彼の目の前にグラウを連れて行けば、カプノスは珍しいものを見るような目でグラウを見ていた。

 くる、と機嫌良くグラウが喉を鳴らしている。


「この子、グラウと、言います」

「グラウ?」

「はい。小さい、ですが、仕事はできます、から」


 海を越えることはできないが、デュナミスとベジュワ侯爵領の往復くらいはできる。カプノスのことを覚えさせれば、問題なく仕事は果たせるだろう。

 シハリアには言わなければならないが、彼が中継点になるのはいつものことだ。群島にグラウを連れて行くことはできないし、ちょうどいい。


「手紙を、書きます。バシレイアの、文字は、書けます、から……文字の、お勉強、です」


 バシレイアとオルキデは喋る言葉は同じでも、書く文字は異なっている。それから少し意味の異なるものもあるのでそこは気を付けなければならないが、その辺りはラアナが考えれば良いことだ。

 頻繁ひんぱんにというわけにはいかないが、待ちぼうけをさせるほどではない。小さな子供の文字の練習にはなるだろう。


「私も、下手、なので……一緒に、お勉強を、しませんか」


 オルキデの平民の識字率しきじりつというのは、それほど高くはない。

 ラアナが読み書きできるのは、ファラーシャに、ひいてはバルブール家に拾われたという幸運あってのものでしかない。それでもファラーシャやシハリアと比べればまだまだで、勉強途中でもある。

 カプノスはきょとんとした顔をしていたが、何を言われたのか理解をして、ぱあっと表情が明るくなった。


「する!」

「そうですか。良かった、です」


 下ろしてくれと言うように身じろぎしたカプノスの気持ちを汲み取ったカフシモが、彼をそっと下ろしてやっている。カプノスの目線がまた低くなったので、ラアナもまた身をかがめた。

 手の上にいたグラウはラアナの頭の上に移動して、機嫌良さそうに一声鳴いた。


「グラウがよろしくね、だそうです、カプノス様」

「うん、グラウ、よろしくね!」


 カプノスは嬉しそうに笑っていて、ラアナはほっと胸をでおろす。良かったなと父親に頭をでられているカプノスは親に愛されている子供そのもので、それがほんの少しだけうらやましい。

 それをうらやましがったとて、ラアナには最初から与えられることのなかったものだ。だから何を言うこともなく、ラアナはただその光景をながめていた。


  ※  ※  ※


 カプノスは墓までの移動とはしゃいだこととで疲れたのか、眠そうにしていた。今日は昼寝をするかとカフシモに問われた彼は船をいだのかうなずいたのかこくりと一つ頭を動かして、それきり父の腕にかかえられて眠ってしまったらしい。

 寝かせてくるから待っていてくれとカフシモに言われ、ラアナはただ別邸だというその家の前でたたずんでいた。


「あら?」


 手持ち無沙汰ぶさたにしていると、女性の声が耳に届いた。

 その声のした方を振り返れば、背の高いりんとした風情の美しい女性が立っている。戦乙女もかくやというばかりの文句なしに美女と言える彼女は、じろりとラアナの頭のてっぺんから爪先までを見聞するように見ていた。

 紫色の瞳に、嫌悪の色が宿っている。そんなものを見慣れてしまっているのもどうかとは思うが、それはラアナが自分を見られる時によく乗せられる色であり、それだけはよく分かってしまう。


「見たことのない顔……嫌だ、どこかからネズミでも迷い込んだのかしら」


 返答を求められていない以上は口を開くのもはばかられて、ラアナは口をつぐむ。

 凡庸な平民など視界に入れたくないと言う貴族が一定数いることは理解していた。平民とて見目が整っていればいくらでもやりようはあるが、ラアナはそうではない。ただでさえ平凡な顔の上に、隠しているとは言えど醜い火傷やけどあとは広がっている。

 ちゅう、とネズミの鳴き声がした。


「帰ってちょうだい。嫌だわ、きたならしい」


 待っていろと言ったのはカフシモである。おそらくカフシモの妻であろう彼女の命令を聞くべきなのかどうか、この場においてラアナには判断がつかなかった。


「聞こえないのかしら? もしかして耳まで悪いの?」

「……いえ」


 聞こえてはいる。聞こえているからこそ、考えている。

 ここはバシレイアであって、オルキデではない。オルキデであってもバルブール家の評判を落とすことにつながるのだからいさかいは起こすべきではないが、バシレイアであるのならば尚更だ。

 まして今はまだ、情勢が安定していない。ラアナが雛鳥である以上、軽率な振る舞いは危険をはらむ。

 おそらくこの場では彼女の言葉に従って、ここから去るのが一番だろう。またカフシモには謝罪することが増えてしまうが、ハンカチも返さなければならないのだし、それと併せて謝罪をすれば良いだろうか。彼女の様子からして、この場で謝罪をたくすこともできそうにない。


「不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。すぐに去りますので、ご容赦ようしゃください」


 この判断が正しいのかは分からないが、この場を収めるという点においては間違いではないだろう。そう考えてラアナは謝罪をして頭を下げる。

 ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。彼女はそれきりラアナに興味を失くしたのか、こつこつと足音が聞こえてくる。やがて扉の音がして、人の気配も消え失せた。

 そうしてようやく、ラアナは顔を上げる。


「帰り、ましょうか……」


 彼女にそう言った手前、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう。何か書くものでも持っていれば良かったのだが、生憎と今は紙がない。

 グラウはまたラアナのフードの中で昼寝を決め込むことにしたのか、フードの中に潜り込んでいる。

 誰もが優しい人ではないと知っている。ラアナの顔の火傷痕やけどあとを見ても何も言わなかったカフシモの方が珍しいのだ。

 ファラーシャやシハリアとばかり関わっていて、忘れそうになることを思い出す。


「ラハブレワハ」


 その神の名前すらもいとわしいと思うことは、赦されるのか。

 まだ誰も出てくる気配のない別邸に向けて一度頭を下げて、ラアナは背を向ける。そうしてしばらく行ったところで、ずるりと影に沈んだ。

 この後戻れば、船旅になる。群島諸島連合の話ならカプノスも喜んでくれるだろうかと考えると、少し気分が浮上する気がした。

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