6 機嫌の良い兄と釈然としない弟
エクスロス
つまり、誰と誰が何をしていようと、ほとんど知られることはないということである。
(だからといって、本気で誰かをここに
ハイマの部屋の隣の部屋。空き部屋のはずのその扉を見つめながら、リノケロスは皮肉気に口元を吊り上げた。
かつては愛人との
「ハイマ。入るぞ」
扉を叩いて声をかけると、内側から鍵が開く音がした。ご丁寧に普段は外から勝手に開けられないよう鍵をかけているらしい。
あまりの念の入りっぷりにいっそ笑いがこみあげてくる。だがそれは完璧に
「兄さん、何か用か?」
まずどこから言うべきか。リノケロスは自身の記憶にある部屋よりずいぶんと生活感の増した室内をぐるりと見渡して、
以前壁だったはずの場所には、隣室であるハイマの部屋に続くよう扉がつけられている。わざわざ廊下に出ることなく行き来できるほか、こちらの部屋にいても自室への来客に対応できるようにだろう。更に念の入ったことにその扉は壁と同じ色に塗られていて、一見しただけでは扉と分からないようになっている。
ベッドは元々部屋に備え付けてあったものだが、その近くには小さなテーブルと
食事と睡眠以外のほとんどを、ハイマはこの部屋で過ごしているようだった。
「馬鹿か?」
「えっ、何が?」
思わず
代わりにリノケロスは盛大な
「
「あ、ああ、うん、そうだな……」
運び込まれた時よりはましだが、幾分血の気の引いた白い顔色で
戦場では血を浴びて、仮面の下で
なんとなく
「どうする気だ、彼女」
「とりあえずは意識が戻るのを待つ」
「その後は?」
「その後は……まだ、考えてはいない、が……」
口ごもるハイマは、何かをリノケロスに隠している。
当主として誰にも言えないことがあるのは事実で、それを隠されているからと言って怒るほどリノケロスは
それならばそれで、構わないのだ。
「色
「わかってるさ」
リノケロスが
役目を果たせる
「えーと、兄さんの用事は……?」
気を取り直した顔で、ハイマが話の方向性を無理矢理変えた。
リノケロスとしてもこれ以上鴉のことを追求するつもりはなかったので、ハイマから向けられた流れに乗ることにする。
「ああ、そうだ。ファルと旅行をする。後のことは任せた」
「ああ……え? 旅行?」
先日、ファラーシャと共に互いの国について話をする機会があった。彼女はバシレイア国内について
その時にバシレイアにはファラーシャが見たことがないものがたくさんあると知り、せっかくならば見に行けばいいと気づいたのだ。
当然、理由はそれだけではない。きちんと建前も用意してある。
「最近、ファルが狙われているだろう」
「ああ。なんか多いらしいな」
リノケロスとファラーシャの結婚が停戦を続ける条件の一つだという条項は、当初はなかったはずのものだ。リノケロス自身、ハイマから講和の儀が壊された後に聞いた話である。
いかにもあの宰相閣下のやりそうなことだと思う以上の
当然、そのことはハイマも知っている。エクスロス家に滞在を続けているエヴェンも大車輪の働きをしているが、どうにも
一体今まで何人を火口に
「
本人は自分一人が
確かにこのまま家に
「なるほど、
ハイマが感心したように
きちんと建前の理由を
「俺とファルが出かければ、奴らは追ってくるだろう。
護衛もつけずにファラーシャとリノケロス、そして侍女の三人だけで行動をすれば、彼らは好機と思うに違いない。
もし万が一自分が逆の立場であればそんな無防備な状況に身を
「旅行なら、どこへ行くつもりなんだ?」
「ファルが故郷にもあった光景を懐かしがっているから、デュナミスへ寄って、それからヒュドールまで足を伸ばす」
「遠いな!」
経路はこれだと、手に持っていた紙をハイマに渡す。
馬を使って行くとはいえ、これは旅行である。全力で走って行くわけではないのでそれなりの長旅になるだろう。
目を
「嬉しいだろう? 鴉が見つかるリスクが減るものな?」
「うっ……」
刺客が多いということは、万が一が発生しやすくなっているということでもある。貴族の上位者の部屋は基本的に上階にあるのが一般的であり、刺客も当然上の階を重点的に狙う。
リノケロスが一階に居を移したことは公表しているわけもなく、まさか扉にネームプレートをぶら下げているなどわかりやすい印もないので、うっかりハイマの隣の鴉が眠る部屋を刺客に見つけられる可能性はゼロではないのだ。
ハイマもそれを
ぐぅと喉を鳴らして黙り込んだハイマを見下ろして、正直なやつだと内心で笑った。昔から変わらない妙な素直さがハイマの美点だと、リノケロスは素直に評価している。
「え、っと……なんでデュナミスとヒュドール?」
「実家が
「へえ。オルキデにもあるんだなそういうの」
慌てて話の方向性を
全ては、リノケロスの気分次第だ。今日はひどく気分がいいのでハイマのやりたいように話の流れに乗ってやっている。
「ヒュドールは?」
「実家には港もあるそうだ。この国で港はヒュドールだけだからな」
「へぇ……」
行き先を決めた理由は建前も本音もなく、ただハイマに伝えたこの通りである。ファラーシャに
はっきりとこことは言わなかったものの、話をしていて彼女がその表情を和ませた場所がデュナミスとヒュドールだった。どちらもリノケロスには知り合いがいる。特別相手をしてもらおうとか案内をさせようというつもりはないが、何かあったときに顔が効くのはいいことだ。
「なんだ。不細工な顔をするな気持ち悪い」
「いやその……
「は? 当たり前だろうが。俺が行きたいところなんぞこの国の中にあると思ってんのか」
「それはまあそうだろうけど」
この弟はひょっとするととても馬鹿なのではないか。数年ぶりに、そう思った。幼少期はよくそう思っていたので、懐かしい気分だ。
リノケロスはバシレイア王国に生まれ育ち、国内のことは大抵知っている。行ったことがない場所がないというわけではないが、あえて旅行としてその場所に行きたいかと言われると答えは「否」だ。
行ったことのない領地というのはすなわち知り合いがいない領地で、それはつまりかなり癖のある家が治めている場所である。
「まあ、いいや。わかった、のんびりしてきてくれ」
「ああ。行き先にはお前から一報を入れておけよ。刺客の死体を処理することになるかもしれん」
「あー……わかった」
エクスロス領内であれば死体処理は火口に放り込んでしまえば跡形もないが、他領地ではそうもいかない。いちいち穴を掘って埋めるのは面倒だ。
よろしくなと滅多に言わない言葉を口にしながら部屋を出ると、一瞬見えたハイマがまたおかしな顔をしていた。
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