22 君に賭けることにする
やはりこれは
ペンを机の上に転がして、椅子に
リヴネリーアへの手紙、ファラーシャへの手紙、ルシェへの手紙。それから、ラベトゥル公爵家へと送るもの。アヴレークはシャロシュラーサを赦すつもりはないし、見逃してやるほど甘くもない。
「ジェラサローナはいずれ失態を犯す、シャロシュラーサはこれで終わり。クルタラージュはどうせ一人では何もできないのだから、ラベトゥル
愛称で呼ぶこともなく、その名前を連ねた。
オルキデの王族を愛称で呼ぶことができる相手は限られている。身内は愛称で呼ぶものではあるが、別にアヴレークは三人の王女をそう呼びたいと思ったことがない。そもそも彼女らを、身内だとも思っていなかった。
「リヴを苦しめるものはすべて、
アヴレークはオルキデの出身ではなく、そこからさらに東のフォルモントを通り南に隣接するハイライの出身である。
扉を叩く音がして、アヴレークは姿勢を正す。ぼさぼさになっていた髪を
「はぁい」
「ハイマ・エクスロスです。お呼びと
「いいよ、入って」
低い声が扉の向こうからして、アヴレークは入室の許可を出す。窓は
ルシェが彼を信用している。アヴレークの判断材料など、それだけで十分だ。
「時間がないからさっさと本題に入らせてもらうよ。とりあえずそこ、座ってくれる?」
机の片隅に置いてあったくるりと巻いた紙に手を伸ばし、それを机の上に広げる。これは明日バシレイアの王に渡す予定の、停戦と講和に関わる協議内容の書状だ。
「これに、一文付け足しをさせて貰おうかと思ってね。一応君の立ち会いが欲しかった」
「そうですか」
さすがにアヴレークとルシェだけで勝手に追記するのもハイマに失礼かと、彼を立ち会わせることにした。
ハイマは眉間に
「何か、不足が?」
「不足じゃない。僕は君と
柔和な笑みを浮かべて、ハイマを見る。すると彼はどこか嫌そうな
だが、気に入ろうが入らなかろうが、アヴレークのやることは変わらない。これは後々のためにやっておかなければならないことだ。
バシレイアの王家については握っている情報がある。この急な呼び出しが誰の思惑によるものか、そして何をするつもりであるのか。オルキデの誰かと繋がっている誰かは十中八九皇太后だろうが、ならば繋がる先は誰なのか。
明日すぐにそれを
「付記事項は追記するが、とりあえずは一つ。『エクスロス家とオルキデ国民の
名指しにしなかったのは、逃げ道を用意するためだ。
そもそもリノケロスともアヴレークは
「異論は?」
「ありません、が」
ハイマは更に眉間の
彼の眉間の
「何故かを考えている、といったところかな」
「……万が一この講和が成らなかった場合の、再戦回避ですか」
「大正解! 考える頭がある人間は好きだよ、会話がきちんと成立するからね」
オルキデの貴族ときたら、話が通じない者も多いのだ。こちらの意図など考えることもなく、自分の権利や利益だけをがなり立てる。そういう手合いを相手にするのはひどく
そういう意味では、アヴレークから見てハイマは好印象である。リノケロスもそうであったが一応はこちらの話を聞こうという姿勢があるし、言われたことを考えることもする。
「ただし付記事項。当人たちの意思は関係なく、エクスロス家の上位者とオルキデの王族の
「取り消す? 最初からなかったことにすると?」
「そういうことだね」
すべては白紙になる、なかったことになる。
当然何もかもすべてというわけではないし条件もあるが、それはそれだ。そしてこれはどちらかの一方的なものでは不可能であるとして、付記事項として
「バシレイア王族にした方が良いかい? でも君たちは各領地での
「そこに異論はありませんが」
一応バシレイアの王族も入れて尊重しているという姿勢を見せても良かったが、それはそれで面倒な口出しをされることになるだろう。同じ理由で、オルキデの貴族の介入はさせていない。
現状リノケロスとファラーシャの場合、エクスロスの上位者というのはハイマしかいない。これが別のきょうだいであったのならば、リノケロスも
オルキデの王族は何人かいるが、さすがにハイマに働きかけてこの
「これを書き加えることは、君のところで伏せておいてくれ。これを作ったのは君と
「わかっ……り、ました」
恐らくは「分かった」と言いそうになったのだろう。奇妙なところで言葉を切り、ハイマは何とか
敬語に慣れていないのだろうなとアヴレークは笑う。無理をして敬語を使うようなこともないのに、一応はオルキデの宰相という身分を尊重しようとはしているようだ。
「さて、じゃあオルキデ宰相の私として、エクスロス当主の君への話は終わりだ」
「では……」
「本題はここからだよ、ハイマ・エクスロス。ここからは僕もアヴレーク・イラ・アルワラとして話をしよう」
帰ろうとして腰を浮かせた彼に、更に
先ほどの話も確かに本題ではあるのだが、アヴレークとして重要なのはここからの話である。ルシェが信用していないようならばこれを持ち掛けたりはしなかったが、どうにもルシェは彼を信用している。
あの無条件に
「は?」
「エクスロス家当主ではなく君個人に、オルキデ女王国宰相ではなく僕個人から、取引を持ちかけたくてね」
「何です」
ハイマは一度浮かせかけた腰を引き戻している。そうして座り、聞く姿勢になった。
さすがにアヴレークの言葉を無視して帰るほどには無礼になれなかったらしい。リノケロスだったら帰ったかもしれないなと思ってしまったのは、先日彼のところに
「一応聞いてくれるんだ? それはありがたいね」
そうして、また笑う。
この急な呼び出しには必ず何か裏がある。この講和を望まないのならば、壊すための機会は明日しかない。そして
けれどもそれは、考えないことにする。
「もし明日万が一何かあったとして、ルシェルリーオを保護しておいて欲しいんだ。オルキデへすぐに帰らせないように」
「ルシェを? それは別に、構いませんが……」
ハイマの口から滑り落ちたのはルシェルリーオの愛称で、思わずアヴレークは笑ってしまった。
彼女も大鴉になっているとはいえ、王族であることに変わりはない。愛称で呼ぶことを赦す意味を彼女がきちんと覚えているかどうかはさておいて、許可なく呼ばせるとも思えない。
「あっは、君、ルシェって呼んでるんだ? あの子が許可した?」
「……そうですが、何か」
「いや別に?」
その意味が分かっているから、あのエハドアルドですら身勝手に彼女を愛称で呼んだりはしないのだ。
オルキデの王族の愛称を呼ぶのは身内か、それに準じる者だけだ。しかもその身内も、近しい者に限られる。だからルシェは三人の王女を愛称で呼ぶことがない。
「取引だからね、僕からも何か出さないと。君、何か欲しいものないの?」
「特に、何も」
「ふうん」
これで何か欲しいものを口にしてくれればさっさと取引成立とできたのだが、ハイマは何もないと言う。物欲がないというのも考え物だが、当主という立場にあればそんなものか。
ならばアヴレークから出せるものは何もない。となれば「構わない」と言ったハイマの言葉に
「じゃあ、欲しくなったらあげるよ、とだけ言っておこうかな」
「話はそれだけですか」
「これだけだよ。君たち兄弟はせっかちだなあ、本当に」
再び椅子から腰を浮かせようとしているハイマに笑い、こつりと指先でテーブルを叩いた。長々とお
というよりも簡潔な報告が好きなのだろう。その辺りはある意味武人らしいと言うべきか。
「君の欲しいものなんて一つだけだろう、昔から。ああ気持ち悪い、でも仕方ないよね。欲しいと願うのならば手を伸ばせ、その願いがたとえ
こんな場所にいるからいけない。何かを思い出しそうになって、けれど知らないはずで、そんないつかを想起させるようなものをアヴレークは必要としていない。
見るべきものは今だけだ。意味不明の
「僕はルシェが君を信用しているから、君に
「そりゃどうも」
「話はそれだけ、ご足労どうもありがとう。違えないでくれることを信じているよ」
今度こそハイマは立ち上がる。アヴレークは立ち上がるつもりも見送るつもりもなかったが、彼もそれを望んだりはしないだろう。足を組んで、頬杖をつく。そうして、彼の背中に言葉を投げた。
アヴレークは別にハイマを信用しているわけではない。ただ、ルシェが信用したからそれに
「もしも違えたらその時は……君も、
そうなったのなら、アヴレークはハイマが死ぬまで赦さないだろう。
この世で一番大切なものがリヴネリーアで、そして二番目がルシェルリーオである。それ以外のものなど
大切なものを苦しめるのならば、裏切るのならば、どうか無惨に死ねば良い。
ただただ笑顔を浮かべてハイマの背中を見送る。ややあってから戻ってきたルシェがアヴレークの様子を見て首を傾げるのを、やはりアヴレークは笑って見ていた。
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