21 明日が終われば、また
道中の案内役兼
別に仲良くお
エクスーシアに到着して通された客間は、窓が
「嫌だよねえ、この城」
食事も終えたところで、鴉とアヴレークの二人だけになる。きちんと護衛を連れて行けとリヴネリーアには言われていたものの、アヴレークはそれを断っていた。いざという時の足手
アヴレークは用意されていた椅子に腰かけて、すっかりだらけた様子である。いつもは
「嫌、ですか」
「そう。見覚えがある気がしてものすごく気持ちが悪い。そもそもリヴのいない場所には何の価値もないし、どうでも良いんだけどね」
その感覚はよく分からず、鴉は首を傾げてしまった。見覚えがある気がするということは、どこかで似たような場所にでも行ったことがあるのだろうか。
アヴレークはそもそもリヴネリーアに出会うまでは各地を放浪していたのだから、その最中で見た何かに似ているのかもしれない。そんなことを考えながら、鴉はああ気持ち悪いと言っているアヴレークは
「紙とペンを取ってくれるかな、ルシェ。確かそこにあるとか説明してただろう」
「かしこまりました」
本棚には歴史書が何冊か収められ、そこに備え付けられた引き出しに紙とペンが入っているという説明は受けた。確かにそこを開いてみれば、ペンとインク
それをアヴレークの前に置けば、使い慣れないのだと字が汚くなる気がするよね、などと言いながらアヴレークはペン先をインクに
「何か、書かれるのですか」
「ああうん。
さらりと言われたが、決して聞き流して良い言葉ではない。
死ぬつもりなのか。何があると思っているのか。アヴレークに聞きたいことはいくらでもあって、ぐるぐると疑問ばかりが鴉の頭の中を回る。
遺書。遺書だ。決してそれは聞き間違いなどではなく、彼は確かにそう言った。
「……正気ですか」
「正気だよ。僕は狂ったことは一度もない」
いっそ気が狂ったと言ってくれる方が良かったのかもしれない。おかしなことを言ったと、冗談だと、そういう風に言ってくれれば、きっと呑み込めるのに。
正気だなどと言われてしまえば、呑み込めなくなる。ぎゅうと締め付けられるように苦しくなったのは、呼吸なのか、胸なのか。
「遺書にならないと良いね」
「何かあるとお思いですか?」
「こんな急に呼びつけておいて、何もないわけがないだろう?」
今回の訪問は
ならばバシレイア側は、何を考えているのか。きちんと王の前で
「ルシェ」
「はい」
「愛しているよ、僕の可愛い可愛い、大事な子」
急に何を言い出すのかと、鴉は仮面の下で
知っている。愛されていないとは思っていない。それでもアヴレークは宰相で、同じようなことを鴉に言うリヴネリーアは女王で、愛情だけを鴉に与えることが不可能なのも分かっていた。
愛していると言うその口で、彼らは鴉に重いものを背負わせる。彼らはまだ十二だった鴉に選択を迫り、そして鴉に自分の居場所を自分で決めさせた。結果として鴉は人間であることを投げ捨てて、鴉になった。
「だから君に、命令だ」
ゆるりと、アヴレークが笑う。いつもの柔和な笑みではないそれを、今はまともに見られそうにもなかった。
一体何を命じるつもりか。アヴレークを守って死ねと言うのなら、鴉は喜んでそれに従おう。オルキデという国に必要なのはリヴネリーアとアヴレークで、彼らは守られねばならないのだから。
オルキデのためになら死んでも良い。女王と宰相のためになら命だって捧げられる。いっそ喜んで、鴉はこの身を差し出すだろう。
けれど、アヴレークはそれを命じはしなかった。
「明日何があろうとも、僕を守るな。何があっても僕を見捨てて、君は生きろ」
生きねばならないのは、鴉ではないのに。オルキデという国のことを思うのならば、生きるべきはアヴレークであるはずなのに、彼は自分を見捨てろなどと言う。
鴉一羽など、落ちたところで代わりはいる。けれどアヴレークの代わりはいない。リヴネリーアを公私ともに支え、そして貴族たちを押さえ付け、オルキデという国の
「本気で
「本気だよ。君は死んではならない、目の前で君を殺されてなるものか……今度こそ」
いっそ、笑顔を消してしまって欲しかった。笑いながら言わないで欲しかった。
愛しているよなどと言ったその口で、その顔のままで、やはりアヴレークはどうしようもないものを鴉に背負わせるのだ。見捨てろなどと、生きろなどと、どうして鴉ができるはずもないことを命令するのか。
否と言うことなど赦されはしない。鴉には
「ああ気持ちが悪い。さっさと出て行きたいよね、こんなところ」
アヴレークは鴉にした命令などなかったような顔をして、天井を仰いでそんなことを言う。ペンの先からぽたりとインクが
新しい紙は真っ白で、染みひとつない。再びペンの先をインクに
「そうそう、一つお願いがあるのだけれど」
「何でしょうか」
鴉の方を見ることもなく、アヴレークは言葉を紡いだ。さらさらと真っ白な紙の上をペンが滑り、黒い色を足していく。
国もこんな風に真っ白であったのならば、腐敗などしないのだろうか。それとも建国から七百年、ある意味で長すぎる時間の流れは、たとえ最初が真っ白でも腐敗を避けられないものなのか。
「ハイマ・エクスロスと二人だけで話がしたい」
「総司令官殿と?」
「うん。明日のこともあるんだ、どうせどこかにはいるだろう? 居場所は知ってる?」
何かあったら来いと言われた場所は鴉の記憶にある。城に泊まるのは嫌だということで、ハイマはエクスーシアにあるエクスロスの
窓の外では、月がのぼっている。満月ということは、もう夜も深まっている時間だ。まだ寝静まるというほどではないかもしれないが、それでも人を訪ねて行くには遅い時間のように思う。
「一応、聞いてはおりますが」
「それは良かった、
バシレイアで加護を使うわけにはいかない。
アヴレークは相変わらず真っ白な紙の上に黒い文字を
「僕が呼んでいると伝えておくれ。嫌なら来なくて良い、とも」
「
ハイマはまだ起きているだろうか。アヴレークの言葉を忠実に守るのであれば、眠っていたとしても起こして言葉は伝えなければならない。
嫌なら来なくて良いと言うのなら、もう少し時間帯を考えはしないものか。怒らせて良い相手ではないし、鴉としても怒らせたいと思っていない相手だ。けれどアヴレークはそんなものどこ吹く風で、やはり鴉を見ないで文字を書いている。
「閣下」
「何だい?」
扉から出ようとして、足を止めた。
ハイマを呼びに行くのは良いとして、その間は護衛が不在になってしまう。廊下のところに立っているという警備の兵士に、一応声をかけてから出ていくべきだろうか。
アヴレークが強いことは知っている。それでも異国の地で宰相を一人にするというのはおかしなことだ。
「私は貴方に、生きていて欲しいです」
本心を、吐き出した。
腹の底にある
死んで欲しいはずがない。生きていて欲しい。これは鴉の
「奇遇だねえ、ルシェ。僕も君に、同じことを思っているんだよ」
アヴレークが顔を上げて、鴉を見た。そうして
この国のために死ねるかと、シャムスアダーラは問うという。この国のために死ねる者だけが、真実王族として認められるのだという。
リヴネリーアはきっと、オルキデのために死ねるのだろう。アヴレークもまた、リヴネリーアがオルキデを愛しているからこそ、オルキデのために死ねるのだろう。
三人の王女は誰も、オルキデの国のために死ねはしないだろうに。
※ ※ ※
歩いて向かったエクスロスの
小柄な鴉にしてみれば、
「何だ、何か不備でもあったか?」
先客が来ていたはずだが、良かったのだろうか。
姿を見せたハイマに思わず首を傾げてしまったが、そこは当人の判断なのだから良いのかと思い直して彼を見る。くつろいでいたのかどうかは知らないが、これまで見たことがない軽装であった。
「いや、閣下から伝言があって伝えに来た。二人で話をしたい、と」
「……オルキデの宰相が、俺に話?」
「ああ。嫌なら来なくて良い、とは言っておられたが」
ハイマは少し考え込むような
考え込むのも当然だろう、今まで会ったこともない宰相が急に二人で話がしたいなどと言うのだから。何が目的なのか考えるのは何もおかしなことではない。
アヴレークは断られても良いと思っているだろう。それを告げれば、ハイマは首を横に振る。
「いや、いい。行く。何か準備は必要か?」
「特には、何も。そのままで良いと思うが、先客は良いのか?」
「あいつらなら別に良いさ、気にしねぇよ」
その言い方からして、先客は複数人だったらしい。
申し訳ないとは思うが、ハイマがそう言うのならば良いのだろう。鴉はそう結論付けて、それ以上は何も問わないことにした。
「そうか。意中の女性でも来ているのだったら申し訳ないと思っていたのだが」
「はは、そんなのはいねぇよ。来てるのは男だ」
ファラーシャが
オルキデでは婚約者がいなければ三十近くなっても結婚していないというのは珍しくもないが、バシレイアも似たようなものなのだろうか。オルキデとは異なり一夫多妻の国であるのだし、
ハイマが使用人に何事かを言づけているのを、鴉はぼんやりと見ていた。それから行くぞと声をかけられて、彼と連れ立って歩き出す。
「メシは食えたか」
「え? あ、ああ……一応私も、いただいた」
一人じゃ味気ないと言うアヴレークに付き合って、鴉も共に食事をとった。料理の名前は分からなかったが、もてなしのためということもあって料理人は腕を振るったのだろう。それくらいのことは、鴉にも分かる。
「そりゃ良かった。
「閣下は
「お前は?」
その言葉に、また考え込んでしまう。
食事というのは自分の体が動かせる最低限であれば良いと思っているし、携帯食料を
「……私、は。味がその、よく、分からないんだ。でも……肉は、柔らかくて、少し甘くて、
「そうか、良かったな。甘いのが好きか?」
「……よく分からないが、そうかも、しれない」
じんわりと舌の上に残った甘さは、なんとなく記憶に残っている。そうして記憶に残っているということは、もしかすると好きな味と言えるのかもしれない。そんなことを、考える。
「明日で、終わりか」
ぽつりと言葉が落ちて消えていく。
講和が成れば、もう顔を合わせることもないだろう。鴉はあくまで講和の交渉をするだけであって、それ以降のバシレイアとの繋がりを作るのは鴉ではない。
「戦う相手も、交渉の相手も、貴殿で良かった。私は貴殿を、失望させずにいられたか?」
仮面を外したのは、なんとなくだ。ずっと仮面を外して話をしていたものだから、逆にかけていると落ち着かない気分になってしまう。
失望させるなとハイマは最初に言ったのだ。鴉を交渉相手に指名をして、顔と名前を求めて、それから笑って。
「ああ」
「そうか。それなら、良かった」
これが特別なことであり、鴉はまた明日が終われば顔も名前も隠した『
「俺を宰相閣下と二人にして良いのか?」
「構わない」
今更ハイマがアヴレークに何かをするとは思っていない。そもそも何かがあったとして、アヴレークを殺すのは簡単なことではないのだ。
そんなことを告げるつもりはなくて、鴉は足を止めた。
「貴殿のことは、信用している。他の誰のことが信用できずとも、貴殿だけは」
淡く淡く、また笑う。どうせまたいつもの日常に戻っていくのだから、今日くらい笑ってみせても良いだろう。
これで終わり、これで最後。もうきっと会うこともなく、鴉は鴉として生きて死んでいく。
この日をいつか、懐かしむこともあるのだろうか。そういえばそんな人もいたなと、そんな風に。
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