21 明日が終われば、また

 道中の案内役兼護衛ごえいだというヒカノス・ディアノイアという人物は、最低限の挨拶あいさつだけをして、言葉少なく自分の仕事を果たしていた。アヴレークとも一切視線を合わせることがなかったが、その立ち方だけでも相当の腕だということは鴉にも判断ができた。

 別に仲良くおしゃべりしましょうだとか、そんなつもりもない。何事もなく終わればそれで良いのだから、早々に終わってくれと鴉は心の底から願っていた。

 エクスーシアに到着して通された客間は、窓がめ殺しになっている。まるで罪人のような扱いだよ笑えるね、などとアヴレークはいつも通りの笑みを浮かべて部屋の中を確認している様子だった。


「嫌だよねえ、この城」


 食事も終えたところで、鴉とアヴレークの二人だけになる。きちんと護衛を連れて行けとリヴネリーアには言われていたものの、アヴレークはそれを断っていた。いざという時の足手まといは要らないなどと言われてしまえば、リヴネリーアも溜息ためいきいて引き下がるしかない様子だった。

 アヴレークは用意されていた椅子に腰かけて、すっかりだらけた様子である。いつもはでつけている髪もぼさぼさになり、すっかり宰相然とした姿からはかけ離れてしまっていた。どうせ本番は明日なのだから気にすることはないということだろう。


「嫌、ですか」

「そう。見覚えがある気がしてものすごく気持ちが悪い。そもそもリヴのいない場所には何の価値もないし、どうでも良いんだけどね」


 その感覚はよく分からず、鴉は首を傾げてしまった。見覚えがある気がするということは、どこかで似たような場所にでも行ったことがあるのだろうか。

 アヴレークはそもそもリヴネリーアに出会うまでは各地を放浪していたのだから、その最中で見た何かに似ているのかもしれない。そんなことを考えながら、鴉はああ気持ち悪いと言っているアヴレークはながめてしまった。


「紙とペンを取ってくれるかな、ルシェ。確かそこにあるとか説明してただろう」

「かしこまりました」


 本棚には歴史書が何冊か収められ、そこに備え付けられた引き出しに紙とペンが入っているという説明は受けた。確かにそこを開いてみれば、ペンとインクつぼと紙とが収められている。

 それをアヴレークの前に置けば、使い慣れないのだと字が汚くなる気がするよね、などと言いながらアヴレークはペン先をインクにひたした。


「何か、書かれるのですか」

「ああうん。遺書いしょ


 さらりと言われたが、決して聞き流して良い言葉ではない。

 死ぬつもりなのか。何があると思っているのか。アヴレークに聞きたいことはいくらでもあって、ぐるぐると疑問ばかりが鴉の頭の中を回る。

 遺書。遺書だ。決してそれは聞き間違いなどではなく、彼は確かにそう言った。


「……正気ですか」

「正気だよ。僕は狂ったことは一度もない」


 いっそ気が狂ったと言ってくれる方が良かったのかもしれない。おかしなことを言ったと、冗談だと、そういう風に言ってくれれば、きっと呑み込めるのに。

 正気だなどと言われてしまえば、呑み込めなくなる。ぎゅうと締め付けられるように苦しくなったのは、呼吸なのか、胸なのか。


「遺書にならないと良いね」

「何かあるとお思いですか?」

「こんな急に呼びつけておいて、何もないわけがないだろう?」


 今回の訪問は急遽きゅうきょ決まったものである。本当ならば講和の話などハイマと鴉の間だけで終わるはずのものであり、エクスーシアで最後に締結ていけつをするなどというのは言われるまで一切出て来てはいなかった。

 ならばバシレイア側は、何を考えているのか。きちんと王の前で締結ていけつをしろというのは納得ができる理由ではあるが、かといって全権を持っているのはハイマのはずだというのに。


「ルシェ」

「はい」

「愛しているよ、僕の可愛い可愛い、大事な子」


 急に何を言い出すのかと、鴉は仮面の下で瞠目どうもくする。

 知っている。愛されていないとは思っていない。それでもアヴレークは宰相で、同じようなことを鴉に言うリヴネリーアは女王で、愛情だけを鴉に与えることが不可能なのも分かっていた。

 愛していると言うその口で、彼らは鴉に重いものを背負わせる。彼らはまだ十二だった鴉に選択を迫り、そして鴉に自分の居場所を自分で決めさせた。結果として鴉は人間であることを投げ捨てて、鴉になった。


「だから君に、命令だ」


 ゆるりと、アヴレークが笑う。いつもの柔和な笑みではないそれを、今はまともに見られそうにもなかった。

 一体何を命じるつもりか。アヴレークを守って死ねと言うのなら、鴉は喜んでそれに従おう。オルキデという国に必要なのはリヴネリーアとアヴレークで、彼らは守られねばならないのだから。

 オルキデのためになら死んでも良い。女王と宰相のためになら命だって捧げられる。いっそ喜んで、鴉はこの身を差し出すだろう。

 けれど、アヴレークはそれを命じはしなかった。


「明日何があろうとも、僕を守るな。何があっても僕を見捨てて、君は生きろ」


 生きねばならないのは、鴉ではないのに。オルキデという国のことを思うのならば、生きるべきはアヴレークであるはずなのに、彼は自分を見捨てろなどと言う。

 鴉一羽など、落ちたところで代わりはいる。けれどアヴレークの代わりはいない。リヴネリーアを公私ともに支え、そして貴族たちを押さえ付け、オルキデという国のかじ取りができる者が他にいるはずがない。


「本気でおっしゃっているのですか」

「本気だよ。君は死んではならない、目の前で君を殺されてなるものか……


 いっそ、笑顔を消してしまって欲しかった。笑いながら言わないで欲しかった。

 愛しているよなどと言ったその口で、その顔のままで、やはりアヴレークはどうしようもないものを鴉に背負わせるのだ。見捨てろなどと、生きろなどと、どうして鴉ができるはずもないことを命令するのか。

 否と言うことなど赦されはしない。鴉にはと言うことしか赦されていない。


「ああ気持ちが悪い。さっさと出て行きたいよね、こんなところ」


 アヴレークは鴉にした命令などなかったような顔をして、天井を仰いでそんなことを言う。ペンの先からぽたりとインクがしたたって、これは駄目だねと言った彼はそのままぐしゃりと紙をにぎつぶした。

 新しい紙は真っ白で、染みひとつない。再びペンの先をインクにひたしたアヴレークは、その真っ白な紙に向き直る。


「そうそう、一つお願いがあるのだけれど」

「何でしょうか」


 鴉の方を見ることもなく、アヴレークは言葉を紡いだ。さらさらと真っ白な紙の上をペンが滑り、黒い色を足していく。

 国もこんな風に真っ白であったのならば、腐敗などしないのだろうか。それとも建国から七百年、ある意味で長すぎる時間の流れは、たとえ最初が真っ白でも腐敗を避けられないものなのか。


「ハイマ・エクスロスと二人だけで話がしたい」

「総司令官殿と?」

「うん。明日のこともあるんだ、どうせどこかにはいるだろう? 居場所は知ってる?」


 何かあったら来いと言われた場所は鴉の記憶にある。城に泊まるのは嫌だということで、ハイマはエクスーシアにあるエクスロスの別邸べっていにいるとは聞いていた。

 窓の外では、月がのぼっている。満月ということは、もう夜も深まっている時間だ。まだ寝静まるというほどではないかもしれないが、それでも人を訪ねて行くには遅い時間のように思う。


「一応、聞いてはおりますが」

「それは良かった、闇雲やみくもに探し回らなくて済む」


 バシレイアで加護を使うわけにはいかない。別邸べっていの位置は確認しているし、歩いて行っても大した距離ではない。そもそも馬に乗れたとしても、こんな時間に走らせるようなものでもないだろう。

 アヴレークは相変わらず真っ白な紙の上に黒い文字をおどらせている。嫌味なほどに整った文字はかつて鴉に読み書きを教えた頃から変わっていない。残念ながら鴉は、彼ほど整った文字は書けなかった。一応、リヴネリーアには似ていると言われるけれど。


「僕が呼んでいると伝えておくれ。嫌なら来なくて良い、とも」

然様さようですか、かしこまりました」


 ハイマはまだ起きているだろうか。アヴレークの言葉を忠実に守るのであれば、眠っていたとしても起こして言葉は伝えなければならない。

 嫌なら来なくて良いと言うのなら、もう少し時間帯を考えはしないものか。怒らせて良い相手ではないし、鴉としても怒らせたいと思っていない相手だ。けれどアヴレークはそんなものどこ吹く風で、やはり鴉を見ないで文字を書いている。


「閣下」

「何だい?」


 扉から出ようとして、足を止めた。

 ハイマを呼びに行くのは良いとして、その間は護衛が不在になってしまう。廊下のところに立っているという警備の兵士に、一応声をかけてから出ていくべきだろうか。

 アヴレークが強いことは知っている。それでも異国の地で宰相を一人にするというのはおかしなことだ。


「私は貴方に、生きていて欲しいです」


 本心を、吐き出した。

 腹の底にあるよどみは消えず、息ができなくなっていく。それでもただただ、言葉をしぼった。

 死んで欲しいはずがない。生きていて欲しい。これは鴉の我儘わがままなのかもしれないし、願ってはならないことなのかもしれないけれど。


「奇遇だねえ、ルシェ。僕も君に、同じことを思っているんだよ」


 アヴレークが顔を上げて、鴉を見た。そうして微笑ほほえんだ顔を見ていられなくて、鴉はうつむいて一礼をする。

 この国のために死ねるかと、シャムスアダーラは問うという。この国のために死ねる者だけが、真実王族として認められるのだという。

 リヴネリーアはきっと、オルキデのために死ねるのだろう。アヴレークもまた、リヴネリーアがオルキデを愛しているからこそ、オルキデのために死ねるのだろう。

 三人の王女は誰も、オルキデの国のために死ねはしないだろうに。


  ※  ※  ※


 歩いて向かったエクスロスの別邸べっていには先客がいたようで、それならば良いですと鴉は出迎えた使用人に礼だけべて帰ろうとした。一応聞いてきますからと入口のところで留められて、なんとなく手持ち無沙汰ぶさたに天井を見上げた。

 小柄な鴉にしてみれば、随分ずいぶんと高く思える天井だ。仮面の下から見上げても、どのようなつくりになっているのかは分からない。


「何だ、何か不備でもあったか?」


 先客が来ていたはずだが、良かったのだろうか。

 姿を見せたハイマに思わず首を傾げてしまったが、そこは当人の判断なのだから良いのかと思い直して彼を見る。くつろいでいたのかどうかは知らないが、これまで見たことがない軽装であった。


「いや、閣下から伝言があって伝えに来た。二人で話をしたい、と」

「……オルキデの宰相が、俺に話?」

「ああ。嫌なら来なくて良い、とは言っておられたが」


 ハイマは少し考え込むような素振そぶりを見せる。

 考え込むのも当然だろう、今まで会ったこともない宰相が急に二人で話がしたいなどと言うのだから。何が目的なのか考えるのは何もおかしなことではない。

 アヴレークは断られても良いと思っているだろう。それを告げれば、ハイマは首を横に振る。


「いや、いい。行く。何か準備は必要か?」

「特には、何も。そのままで良いと思うが、先客は良いのか?」

「あいつらなら別に良いさ、気にしねぇよ」


 その言い方からして、先客は複数人だったらしい。

 申し訳ないとは思うが、ハイマがそう言うのならば良いのだろう。鴉はそう結論付けて、それ以上は何も問わないことにした。


「そうか。意中の女性でも来ているのだったら申し訳ないと思っていたのだが」

「はは、そんなのはいねぇよ。来てるのは男だ」


 ファラーシャがとつぐとなった時も自分がめとろうとはしていなかったことから、誰か結婚でも考えている相手がいるのかと思っていたが、どうやらそれも違うらしい。

 オルキデでは婚約者がいなければ三十近くなっても結婚していないというのは珍しくもないが、バシレイアも似たようなものなのだろうか。オルキデとは異なり一夫多妻の国であるのだし、一先ひとまず結婚するということもありそうなものだが、そうとも限らないのかもしれない。

 ハイマが使用人に何事かを言づけているのを、鴉はぼんやりと見ていた。それから行くぞと声をかけられて、彼と連れ立って歩き出す。


「メシは食えたか」

「え? あ、ああ……一応私も、いただいた」


 唐突とうとつに問われて、一瞬反応が遅れてしまった。

 一人じゃ味気ないと言うアヴレークに付き合って、鴉も共に食事をとった。料理の名前は分からなかったが、もてなしのためということもあって料理人は腕を振るったのだろう。それくらいのことは、鴉にも分かる。


「そりゃ良かった。美味うまかったか?」

「閣下は美味おいしいとおっしゃっていたが」

「お前は?」


 その言葉に、また考え込んでしまう。

 食事というのは自分の体が動かせる最低限であれば良いと思っているし、携帯食料をかじっていることの方が多い身だ。椅子に座って落ち着いて食事をすることすらもなく、当然味など分かりもしない。


「……私、は。味がその、よく、分からないんだ。でも……肉は、柔らかくて、少し甘くて、美味おいしかった、と、思う」

「そうか、良かったな。甘いのが好きか?」

「……よく分からないが、そうかも、しれない」


 じんわりと舌の上に残った甘さは、なんとなく記憶に残っている。そうして記憶に残っているということは、もしかすると好きな味と言えるのかもしれない。そんなことを、考える。

 しばし無言になって、また歩いた。


「明日で、終わりか」


 ぽつりと言葉が落ちて消えていく。

 講和が成れば、もう顔を合わせることもないだろう。鴉はあくまで講和の交渉をするだけであって、それ以降のバシレイアとの繋がりを作るのは鴉ではない。


「戦う相手も、交渉の相手も、貴殿で良かった。私は貴殿を、失望させずにいられたか?」


 仮面を外したのは、なんとなくだ。ずっと仮面を外して話をしていたものだから、逆にかけていると落ち着かない気分になってしまう。

 失望させるなとハイマは最初に言ったのだ。鴉を交渉相手に指名をして、顔と名前を求めて、それから笑って。


「ああ」

「そうか。それなら、良かった」


 安堵あんどをして、淡く笑む。こうして仮面をかけずに誰かに対応することも、きっと明日からはなくなるものだ。

 これが特別なことであり、鴉はまた明日が終われば顔も名前も隠した『大鴉カビル・グラーブ』という記号に戻る。またいつもの日常に戻るだけで、何も思うことなどない。


「俺を宰相閣下と二人にして良いのか?」

「構わない」


 今更ハイマがアヴレークに何かをするとは思っていない。そもそも何かがあったとして、アヴレークを殺すのは簡単なことではないのだ。

 そんなことを告げるつもりはなくて、鴉は足を止めた。


「貴殿のことは、信用している。他の誰のことが信用できずとも、貴殿だけは」


 淡く淡く、また笑う。どうせまたいつもの日常に戻っていくのだから、今日くらい笑ってみせても良いだろう。

 これで終わり、これで最後。もうきっと会うこともなく、鴉は鴉として生きて死んでいく。

 この日をいつか、懐かしむこともあるのだろうか。そういえばそんな人もいたなと、そんな風に。

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