19 分からない

 死ねと言われれば喜んで死ぬだろう。そんなことを考えながら、目の前の書状を確認する。アヴレークから返された目録は書き直し、織物の量を増やす。

 オルキデの織物は糸を他国から買って織り上げるものであるが、この暑さからか織り方を工夫して風通しが良く手触りも良いものとなっている。案外これが諸国の取引ではよく売れるのだ。


「ところでさあ、ルシェ」

「何でしょう」


 アヴレークに声をかけられて、鴉は顔を上げないままに返答をする。

 これが宰相と大鴉という立場であれば顔を見ないのなど大変に無礼であるし有り得ないが、アヴレークは鴉を本名で呼んだ。ならば今ここにいるのはただのアヴレークとルシェということであり、礼儀を気にするような間柄でもない。


「僕ずっと聞こうと思ってたんだけど、あちらの総司令官と何かあった?」


 その問いに、鴉はひたりと動きを止めるしかなかった。

 アヴレークは一体何を聞きたがっているのだろう。何か。その言葉の意味するところは何だ。


「何、って……何です」

「だから、何か」


 ようやく顔を上げてアヴレークを見れば、彼はにやにやと笑っている。なんとも下世話な顔であるが、そのことで鴉をつつきたくて仕方がないらしい。

 何かそんな風に見えるようなことでもあったか。そんなにも挙動不審きょどうふしんになった覚えもないのだが。


「なにか」

「うん、何か」


 まるで鸚鵡オウムのようである。

 けれどそうして言葉を紡いでいる間に、鴉はぐるぐると考える。何かと言われても、特別な何かがあるわけではない。

 確かに何事もなかったとも、言えないのだけれど。ただあれはそもそも鴉が仕掛しかけたことであるし、ハイマはそれに付き合っただけだ。事故が起きたとはいえ、それをもっともらしく見せてくれただけだろう。


「……何も、ありませんが」


 そこに関しては、何も言うことはない。

 本当に、何も。たとえ鴉にとってはあれが初めてであって、他の誰かとも一切したことがないことだったとしても。


「嘘つき」

「どうしてそう思うんです」

「一ヶ月くらい前から、ちょっと様子がおかしいからね。あちらの総司令官の話も前みたいにしないから、これは何かあったかな、と。なになに、求愛でもされた?」


 アヴレークの言葉には、溜息ためいきしか出なかった。彼の中で鴉というものの存在がどうなっているのか知らないが、一応は女であると言っても戦場で平然と敵兵を殺して回り、血と砂埃にまみれるような存在である。そんなものに求愛をして何になるというのか。

 そういうことをされるべきは、もっと女性らしい人物だろう。少なくともそういうものをすべて投げ捨てた鴉など、誰もそういう対象にはしない。エハドアルドはただ少しばかり特殊というか、あれは鴉の母親に執着しているだけであって、本当に欲しいのはルシェルリーオでないことも知っている。


「どうしてそうなるんです。有り得ませんしあちらに失礼ですよ、閣下」


 さて、ハイマはどのような女性を選ぶのだろうか。

 いっそのことファラーシャを彼がめとれば良いと思っていたし、年齢的にもつり合いが取れていた。結局政略結婚の相手はリノケロスになったわけだが、いっそもう一人出せば関係性も強固になるのかもしれない。

 ただそれはエクスロスの縁戚えんせき関係がオルキデにかたよることにもなり、望ましくはないか。


「エハドアルド・ハーフィルが乱入してきたので、帰らせるために一芝居打っただけです」

「うん、だからその一芝居の内容」


 それで聞き流してくれればよかったものを、アヴレークは聞き流してはくれなかった。

 流石に口付けをしましたと言うのははばかられて、鴉はそこについてはくちばしを閉じることを決意する。今思い出しても恥ずかしいことであるというのに、どうしてそれを口にしなければならないのだろう。

 思い出しそうになったものを、首を横に振って払い落とす。そもそもハイマは平然としていたのだし、彼にとってはきっと何でもないことなのだ。ならば鴉一人があわあわとしていてもおかしな話だろう。


「嫌です」

「あは、やっぱり何かあったんじゃないか!」


 鴉の反応に、アヴレークは手を叩いて喜んでいる。これ以上はアヴレークの玩具おもちゃになるつもりもなくて、鴉は仮面の下から彼をにらんだ。

 結局そこにはつるりと丸いでっぱりがあるだけで、鴉が睨んでいることなど一切分からないものではある。


「閣下、揶揄からかわないでくださいませんか」

「たまには良いじゃないか。だって君、浮いた話一つないんだもの」

「なくて結構です、そんなもの」


 浮いた話などあるはずもない。鴉は鴉、化け物になり下がらないように必死で人間の形にしがみついている。

 こんなものを誰が好きになると言うのだろう。九年前に何もかもを投げ捨ててしまった、まともに人間らしい生活すらも送れない鴉を、誰が愛するというのだろう。

 アヴレークもリヴネリーアも鴉に対して愛情はある。それは知っているし、疑ったことはない。けれど彼らは当然ながら互いのことが一番であって、鴉のことは二の次だ。

 誰も鴉を守りはしない。誰も鴉に手を差し伸べはしない。そういうものだ、分かっている。


「僕個人としては君の花嫁姿が見たいんだけどなあ」


 アヴレークのそれは、到底とうていかなわない願望だ。

 そもそも鴉はその血筋からして危険すぎる。シャロシュラーサの言った通りで、駒にされる可能性も高い。だからこそ大鴉となり、顔も名前も隠さなければならなかったのだ。ただの鴉でも駄目だった、大鴉でなければ駄目だった。


「……有り得ませんね」

「えー、残念。見たいんだけどなあ」


 話を終わりにしたかったのに、アヴレークはなおも食い下がる。

 そもそも顔も名前もさらせない大鴉に、彼は何を求めているのだろう。人間に戻れたとしても面倒事しか抱えていないような身だ、エハドアルドのような者以外で鴉を求める者などあるものか。


「まだおっしゃいますか」

「絶対綺麗だし可愛いと思うんだよ、リヴに似て」

然様さようで」


 ところで閣下、と鴉は強引に話を変えることにした。

 これ以上この話をしていても不毛なだけで、何も先には進まない。鴉は鴉、それで良いのだから。


  ※  ※  ※


 悪いな、とハイマはばつの悪そうな顔をしていた。特段彼に責任はないはずだが、その内容を申し訳なく思っているらしい。アヴレークが了承したと告げた時も、やはり複雑そうな顔はしていた

 バシレイア側の言い分も筋が通っていないというわけではない。宣戦布告をしたのがオルキデなのだから、きちんとそれに関してはオルキデ側から謝罪があってしかるべき。そしてその場には王もいるのだからそこで講和を成すべきと、何も反論するような部分はなかった。


「こちらで宿の手配はするが、護衛ごえいは?」

「私が護衛を。閣下は護衛を付けられるのが嫌いで、基本的に私か、あるいは別の成鳥が一羽つくだけだ。そちらから出す必要があればしてくれればいいし、それについては否とは言わない、はずだ」


 アヴレークはそもそも周囲に人がいるという状況が好きではないらしく、仰々ぎょうぎょうしい護衛も好まない。そんなのいらないよ鬱陶うっとうしいと言うのが目に見えていて、リヴネリーアもそれについては立場を考えてくれと溜息ためいきいていた。

 そもそも身一つで各地を放浪していたような人なのだ。宰相という地位に納まっているから率先そっせんしてすることはないが、おそらく彼は騎士団長にだってなれたのだ。結局そちらを選ばなかった理由は、というのが気に入らなかったから、ということらしい。

 これが女王守護騎士団とかだったら喜んでなったのにねえ、などと笑っていたので多分それは本心だ。


「じゃあ、二部屋か」

「いや、一部屋で構わないが」


 アヴレークの部屋さえあれば鴉はそこで護衛をする。二部屋というのは鴉の部屋も用意しようということなのかもしれないが、どうせ使わない部屋を用意されても申し訳がない。

 そう思っての断りだったのだが、ハイマには眉間にしわを寄せられてしまった。


「じゃあお前はどこで休むつもりだ、ルシェ。廊下か?」

「いや、必要ないだろう?」

「はあ?」


 休みたくなったらアヴレークの部屋の隅で休むくらいのことはできる。どうせ布団で眠ることなどできないのだから、どこであっても同じことだ。

 食事も、睡眠も、生きるために必要な最低限であればいい。結局そういうものを楽しむだとか、よく休むだとか、そういうものは最早鴉には分からなくなってしまったことだった。


「とにかく、二部屋にはする。休むか休まないかはお前の好きにしろ、知らん」


 ハイマはほとほと呆れたというような口調でそう告げて、どこか見捨てられたような気持ちになる。

 だって仕方ないではないか、と思ってしまうのは鴉の言い訳じみたもので、彼に言うべきものではない。けれどもどこか心細いような気持ちになって、気付けば謝罪の言葉を口にしていた。


「……すまない」


 心底、仮面が欲しかった。

 こうして顔をさらしていると、無表情でいるというのも難しい。うつむいてしまうのも何かが違う気がして、ただ奥歯をめてハイマの顔を見た。

 にらんだつもりもない。ただ、よく分からない。


「おい、ルシェ? どうした」

「何がだ」

「何がってお前な……自分がどういう顔してるか自覚あるか?」


 ハイマはわずかに瞠目どうもくし、その眉間みけんからはしわが消える。だからといって良かったというわけでもない。

 言われた言葉に、鴉はぺたりと自分の顔に触れる。


「顔」


 果たして自分はどんな顔をしていたのだろうか。言われるほどに酷い顔をしていた自覚はなく、ぺたぺたと触ってみてもやはり分からない。

 いつも通りの手触りだ。いつも通りの、そのはずだ。


「怒ってねぇぞ」

「何の話だ?」


 ハイマが何を言っているのか分からなくて、鴉は首を傾げてしまった。

 怒らせてはいないだろう、突き放されてしまっただけで。他人など信用できないがハイマは信用できると思っていて、多分そういう相手から突き放されたことが初めてで混乱しているだけだ。

 多分何か鴉が駄目だったのだろう。休むというものがよく分からないから駄目なのか。

 そうしてぐるぐると考え込んでいたら、大きな手が鴉の頭にのせられた。それはなんとなく気に入らなくて、鴉は彼をにらみ上げる。


「何故でる」

「さあ、何でだろうな。お前が泣きそうな顔してるからかもな」


 泣きそうな顔とは、どんな顔なのだろう。どうしようもなく情けない顔であるようにしか思えないけれど。

 何度かハイマの手が鴉の頭をでて、それから離れていく。確かに鴉の方が年下ではあるが、だからといって子供扱いをされるような年齢ではない。まして、大鴉という立場だ。鴉をまとめ上げる立場であるのだから、子供であれるはずもない。


「休める時は休め。いざという時に自分が困るぞ」

「……分からない」

「は?」


 ぽろりと言葉は口からすべり落ちて消えていく。

 これはおかしなことなのか。食事は何も味がしなくなった、布団で眠ることもできなくなった。何が美味しいと聞かれても一切分からず、休めと言われてもその方法すらも分からない。


「分からないが、貴殿がそう言うのなら……心がけは、する」

「そうか」


 なんだかおかしな空気になってしまって、鴉は何とか話を変えようとぐるりと思考をめぐらせる。それで結局思い付いたのは目録の話だけなのだから、本当に頭が回っていない。

 胸中で己を叱責しっせきして、鴉は気持ちを切り替える。弱っている暇など、ないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る