16 プンプーキ

 ベジュワ侯爵領はオルキデ国内においてバシレイアへは最も遠い土地である。何せ国境であるシュリシハミン侯爵領はオルキデの最も北西にあり、ベジュワ侯爵領は最も南東にあるのだ。ファラーシャが政略でとつぐというのはある意味ですぐに実家には頼れないという事実もあり、それはそれで理にかなっているのかもしれないとエヴェンはぼんやり考えた。

 オルキデの貴族の結婚年齢というのは、実は二極化している。幼いころから婚約をしているような状況にあれば十八歳の成人を迎えてすぐに結婚してしまうが、そうでなければ遅くなるのが常だ。結局そこには家同士の利害関係というもの、それから派閥はばつというものがあるせいで難しくなっているのだろう。

 かくいうエヴェンはラヴィム侯爵であるアスワドを叔父に持っているが、婚約者はいない。エヴェンは少々特殊な立ち位置であるのとクエルクス地方というオルキデ唯一の穀倉地帯を所有しているというのが、アルナムル家の結婚を難しくしている一因だ。アスワドなど今年で三十九であるというのに、未だに独身である。

 ガタゴトと音を立てて、馬車は荒地を進んでいく。ベジュワ侯爵領から王都エルエヴァットを通り女王陛下に謁見えっけんを済ませ、クエルクス地方を通り、そしてシュリシハミン侯爵領を抜けてバシレイアへと向かう。この経路はリヴネリーアとアヴレークが確実に裏切らないと思っている貴族の領地を通っていくものなのであり、その結果ぐるりとオルキデ女王国の外周を半周するような形になっていた。

 ベジュワ侯爵家の馬車をラヴィム侯爵家で乗り換え、またそれをシュリシハミン侯爵家へ乗り換え。誰が乗っているのか分からなくさせるためとは言え、なんとも徹底てっていしたことである。


「……あ」


 上空をくるりと旋回する黒いタカが見えて、エヴェンは声を上げる。馬車の隣に馬を並走させての護衛ごえいであるが、護衛はエヴェン一人きりだ。御者ぎょしゃに合図を出せば、ゆるりと馬車が止まる。

 黒い鷹がこちらが止まったのを確認してか、上空から舞い降りてきた。その足には書状が括られている。


「ワールンガン……大鴉カビル・グラーブからか?」


 羽を震わせた黒い鷹は、大鴉の飼っているものである。となれば括られている書状は彼女からか、あるいはアヴレークからの可能性が高い。

 馬から降りずに馬上で書状の中身を確認すれば、大鴉からのものであった。宿泊先の変更の指示ということは、おそらく何かあったのだろう。

 今日はシュリシハミン侯爵領で一泊して、そして明日バシレイアに入る予定であった。先に選定していた宿屋ではなくもう少し国境寄りの宿屋に変更する手筈てはずになったようだが、何があったのだろう。とはいえそこを詳しくエヴェンが知る必要はない。

 エヴェンはそのまま、馬車の窓を軽く叩いた。中が見えないように閉ざされていた窓が開き、そこからわずかにファラーシャの侍女であるカリサが顔を覗かせる。


「宿泊先の変更指示が大鴉カビル・グラーブよりありました。こちらをお嬢様に」

「かしこまりました」


 名前を明言することはない。誰がどこで聞いているか分からない以上、決定的なものは避けなければならなかった。

 貴族の令嬢の結婚であれば、本来は華々しい花嫁行列を作るものだろう。それが家の威信いしんを示すことにも繋がるものであり、その時にはちょっとした食べ物も振る舞われるので民衆としても心待ちにしている部分はあるのだ。けれどファラーシャのこれはとても花嫁が乗っているようには見えない。

 本人が思うところはないのだろうかとエヴェンは考えたものだが、ファラーシャはこれくらいがちょうどいいと笑っていた。逆に異母弟でありエヴェンの友人でもあるシハリアが憤慨ふんがいしていたので、エヴェンともう一人シハリアの従兄いとことで彼をなだめることになった。

 逆に言えばファラーシャが結婚したことを誰も知らないことになるのだから、離縁した戻ってきて再びどこかへ嫁ぐとなった時にお前が盛大になるよう整えてやれ、とそんなことを言ったわけである。シハリアはそれでも納得したのかしていないのかよく分からない顔はしていたけれど。

 ワールンガンは再び上空へと戻り、王都の方向へ向かって飛んで行く。御者に合図をすれば、再び馬車は前へと進み始めた。

 ぎらつく太陽が相変わらず地面をいている。バシレイアに入れば少しは日差しもやわらぐだろうかと、エヴェンは馬を進めながらそんなことをぼんやりと考えた。


  ※  ※  ※


 エクスロスの屋敷周辺というのは、馬車で入れる限界があるらしい。その限界のところに馬車を停めれば、戦場でエヴェンが見たことのある顔が出迎えのために立っていた。まさか彼らが自ら出迎えるとは思ってもおらず、エヴェンが少しばかり驚いてしまったのは仕方のないことだろう。

 一瞬それが顔に出てしまった自覚もあって、エヴェンは慌てて表情を引き締める。

 馬車が止まり、先にカリサが降りて来た。ファラーシャに手を貸すためかハイマが動こうとした横で、先んじて動いたリノケロスが馬車へと歩み寄る。


「え?」


 驚いたような声はハイマのものだったが、彼は咳払せきばらいをしてそれを誤魔化ごまかしていた。

 リノケロスが差し伸べた手を取り、ファラーシャが馬車から降りてくる。そうして降り立った彼女に、カリサが杖を静かに差し出していた。


「ありがとうございます」

「ああ」


 微笑ほほえんで礼をべたファラーシャにリノケロスが短く返答し、彼はまたハイマの方へと戻っていく。女性に対してはこうするべきものとして身に染み付いているものだろうか。

 エヴェンはとてもそんなことが簡単にはできそうにもなくて、内心で感心してしまう。とてもではないがそんなに容易たやすく女性と手を重ねられるとも思えなかった。


「お初にお目にかかります、エクスロスのご当主様。ベジュワ侯爵家が第一女、ファラーシャ・バルブールでございます」

「ハイマ・エクスロスだ。堅苦しいのは良い、屋敷まではまだ距離があるからな……馬での移動になるが」

「構いませんわ。馬を貸していただければ自分で向かうこともできますが、如何いかがいたしましょうか」


 ファラーシャは足が悪いが、馬には乗れる。馬があればどこにでも行けて良いというのは、彼女がかつて言っていたことだ。杖をつかねば自分の足ではどこにも行けない彼女にとって、馬は己の足にも近しいものなのだろう。

 ハイマが何か言おうとするより前に、リノケロスが口を開いた。


「いい、俺が乗せる」

然様さようでございますか。でしたらお願いいたしますわ、


 微笑ほほえんでいるファラーシャのその顔は、エヴェンもよく見たものである。彼女はいつだってそうして笑っているが、本当は何を考えているのかが分かりづらい。どこかアヴレークの柔和にゅうわな笑みの仮面とも似ているように思うが、彼女はこの結婚に対して何を思っているのだろう。

 ファラーシャが分かりにくいのは、昔からだ。自分の考えていることをさとらせることはなく、けれど他人に流されてしまうこともない。

 彼女の言う旦那様という言葉の真意も、どこにあるのだろうか。そう呼べば名前を呼ぶ必要がないというのもあるかもしれない――余計な情を抱かない、そういう意味でも。


「は?」


 今度こそハイマがしっかりと声を上げてリノケロスを見ていた。そんなハイマをぎろりとリノケロスが鋭い目で見ている。

 その冷たさに、さすがにエヴェンの背筋にも寒いものが走った。


「何だ」

「いや、何でも……」


 いつまでも彼らを見ているわけにもいかず、エヴェンは自分のやるべきことを思い出す。

 馬車にはまだファラーシャとカリサの荷物があるはずで、それをまずは渡さねばならない。馬車を戻すこともしなければならないし、ただ送り届けてはいおしまいというわけにはいかない。


「カリサ、馬車の帰還の手筈てはずと荷物を」

「かしこまりました」


 一礼したカリサが馬車の方へと向かっていく。

 彼女はエヴェンにとっては先輩にあたると聞いたことはあるが、エヴェンが雛鳥になった頃には彼女はもうその立場ではなくなっていた。エヴェンの認識では彼女はずっとファラーシャの侍女であり、護衛ごえいである。

 そんなカリサを見送ってハイマたちの方へと戻れば、もうそこにはハイマしかいなかった。


「久しぶりだな、蕾ちゃんプンプーキ

「……戦地でも思っておりましたが、何ですそれは。私はエヴェン・アルナムル、そのような名前ではございませんが」


 エヴェンは最初にハイマの足止めをして以降、何度となく戦場でハイマと対峙たいじしている。その度にエヴェンは逃げにてっしていたのだが、なぜかハイマからはよく分からない呼び方で呼ばれることとなった。

 そもそも名乗っていないのだから仕方のないことではあるのだが、釈然しゃくぜんとしないものはある。その呼び方が妙にかわいらしい響きであるというのも一因だ。


「雛なんだろう? お前ら。だから可愛い蕾ちゃんプンプーキ、だ」

然様さようで」


 結局言いつのったところで変わらないのだろうなと察して、エヴェンは早々にさじを投げることにした。別にハイマに名前で呼んで欲しいとか、そんな願望もない。

 そんなことよりもと、エヴェンはふところに入れていた書状をハイマに差し出した。


大鴉カビル・グラーブより、こちらをお渡しするよう言われております」

「内容は?」

「知らされておりません」


 ふうん、とハイマは書状を受け取って、開くことなく自分のふところにしまい込む。

 エヴェンにも内容を知らせなかったということは、それは外に知られたくない内容ということなのだろう。それを察してエヴェンは運び役にだけてっしたし、だからこそハイマも受け取ってそのまま自分のふところにしまったのだ。


「お前はどうする?」

しばらくあの方の護衛をするよう陛下と閣下より命じられております。気になるようでしたら目につかないようにしておきますが」


 こうしてとついだとは言え、それで終わりというわけにはいかない。ファラーシャに何かあれば講和どころか停戦すらも破綻はたんしかねないというのが現実だ。誰がどこに嫁いだかなど、いずれは知れる。シハリアたちほどではないにせよ、どこの家も情報収集の手段というのは持っているものだ。

 生きた人間である以上、いつまでも隠してはおけない。まして講和のためとなっている以上は、いずれ人に知られるものだ。


「ああいや、それはいい。特に気にしねぇから」

「つい先日まで戦場で敵対していた人間がうろついていては、気が休まらないのでは?」


 エヴェンはさして気にしないし、戦争とはそういうものだと思ってもいる。敵対していた相手とじゃあ明日から戦争はおしまいです仲良くしましょう、などとそんなことができるとも思っていないが、かといって個人の感情を差し挟むのもおかしなものだ。

 けれどそれをすべての兵士にしろとも思えない。そうして個人の感情で納得ができない人間も必ずいるのだ。もしかしたら友人を殺されたかもしれないし、兄弟を殺されたかもしれない。そういった人間が個人的感情としてオルキデに悪感情を抱くことを止められないのは当たり前だ。

 国と国の取り決めと、個人は違う。もちろんその国に所属する以上はその方針には従わなければならないが、だからといって心までそれに従えるはずもない。


「俺も兄さんも気にしねぇよ、そんなもん」

「いえ、他の兵士の方は……」

「気にするヤツには気にさせとけ。お前が気を遣うようなことじゃねぇよ、お前は仕事だろ」


 すっぱりと言い切られた言葉は呑み込めるかどうかというものではあったが、確かに仕事ではある。命じられた以上はしなければならないことで、それは身を隠し続けていては十二分にできるというものでもない。

 ましてここはバシレイアで、おいそれと加護を使うべき場所でもない。オルキデには当たり前にあるものであっても、バシレイアにはそうではない。となればやはり姿を見せておいた方が良いのだろう。


「……そうですか。かしこまりました」


 行くぞとハイマが馬の方へと歩いて行く。お前はどうすると問われて、エヴェンは歩きますのでお気になさらずと、それだけ返した。

 普段はすぐに影に沈んでしまうので、自分の足で歩くというのも新鮮だ。ハイマはそうかとからりと笑って、先に馬に乗って駆けて行った。

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