15 バルブールの姉弟

 嫁ぐと言っても荷物などほとんどない。部屋の片隅に置かれた少し大きめの真四角のかばんを見て、ファラーシャはそれでもまだ少し減らせないものかと考える。

 元々持っているものは多くなく、持って行くものなど更に少ない。服は三枚もあれば十分であるし、気に入っている本も五冊だけ選別してあとは置いて行く。他はもう書き味が気に入っているガラスペンとインクつぼくらいのものだが、これを入れるのは今からの用事が終わってからだ。

 大鴉からの連絡が来て、一週間後というのはさすがにファラーシャも面食らったものである。といってもこちらの準備が終わっていることを彼女は知っているのだし、移動に六日ほどかかると言っても一日の猶予ゆうよはある。いつまたシャロシュラーサからの連絡があるか、あるいはガドールの行動があるか分からない以上、のんびりとオルキデに留まっているのは危険でもある。

 したがってこの一週間後という日程は、ファラーシャにとっても好都合ではあるのだ。父と異母弟おとうとは急すぎる日程にさすがに思うところはあったようだが、ファラーシャ自身が「別に良いではありませんか」と言ったことですべて呑み込まれた。

 カリサは相変わらず影のように近くにひかえている。ファラーシャの目の前に置かれたカップの中身が空になった瞬間に彼女はするりと隣にまで移動してきて、空のカップに再び琥珀こはく色の茶をそそいだ。


「ありがとう、カリサ」

「いえ」


 さてどうしたものかと、ファラーシャは目の前に置いてある紙面を眺める。大きめの紙に細かな文字でびっしりと書かれた情報はファラーシャとシハリアとで吸い上げてきたものだが、人に告げるには危険すぎるものもある。遣いどころを間違えれば、その相手から命を狙われる可能性すらもあった。

 やはり馬鹿のふりをしておくことは必要だろうか。リノケロスにだけは手の内を少し見せたが、それ以外は誰も知らない。敵国の物を知らない馬鹿な女が人質になることも気付かずに送られて来た、そういう風に振る舞うことも確かにできる。

 そうすることで懐柔しやすいと思われれば、バシレイアにおいてオルキデと繋がっているものも釣りやすいかもしれない。まだそこはきちんと調べていないが、あまりにもオルキデ側の軍の展開と宣戦布告がなめらかに進みすぎていたのだ。となればバシレイア側からの何らかの手引きはあったと考えるのが妥当だとうだろう。

 扉を叩く音に、一度紙面を伏せる。カリサの方を見て確認すれば、彼女は小さく「シハリア様です」と告げた。ファラーシャにはさっぱり分からないのだが、彼女には気配で誰が訪ねて来たのか分かるらしい。


異母姉ねえ様、シハリアです。入ってもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」


 カリサの言った通り、扉の外から声をかけてきたのはシハリアだった。カリサに目で合図をして扉を開けさせれば、そこにはファラーシャと同じ鉄の色をした髪の少年が立っている。まだ成長途上の彼は小柄で、ファラーシャよりも背が低い。

 シハリアはきょろりと紫紺しこん色の目を動かして室内を確認してから、一礼して中へと入ってきた。


「僕が集めて来た分は、いかがでしたか」


 ファラーシャの向かい側の椅子に腰かけながら、シハリアが問いを口にする。彼がきちんと腰かけたのを確認し、カリサに扉をしっかりと閉めさせてからファラーシャは紙面を再び引っくり返した。

 本来ならば扉は少し開けておくべきものだが、これからするのは外にれてはならない話だ。扉は閉めるし、声もひそめる。


「ええ、それの確認をしたくてシィを待っていたのよ」

「そうでしたか。長らくお待たせを?」

「いいえ、頭に入れなければならないでしょう? その時間があって助かったわ」


 紙面の上にはヒュドール、アグロス、デュナミス、シュガテール、といったバシレイアの領地と家の名前が並んでいる。エクスロスについても書かれてはいるが、そちらについては今回の本題ではない。今回はむしろエクスロス以外の領地についての方が重要だ。

 紙面のヒュドールについて書かれた部分に視線を落とす。その記載に察した部分はあれど、裏付けは取れていない。未確定のことを口にするつもりはなく、そしてそれが確定した場合も決して口に出すようなものではないということを理解して、ファラーシャはそれについてはここで握り潰しておくことに決めた。

 おそらくこの情報を使うことはないだろう。下手にこれを口にすれば、ファラーシャはリノケロスに殺されるかもしれない。


「よくここまで調べたものね、シィ?」

「人が生まれ落ちるというのは、なかなか一人では難しいものですよ。関わった人間は必ずいます。そのすべてを伏せたいのであれば、関わった人間をすべて殺した上で母親も子供に何も告げないまま死なねばならない。実際にこれがどれほど難しいかは異母姉ねえ様もご存知ぞんじでしょう?」


 十五歳の少年が、恐ろしいことを口にする。

 おそらく他人が聞けば、目をくことだろう。ファラーシャにとっては慣れたものであっても、まだ幼さを残した少年の口から飛び出すような言葉ではない。

 今回は主に、人間関係についてだ。災害の予兆であるとか、そういうものについては手を回していない。オルキデとは風習が異なるバシレイアにおいては、ことに誰かの子供であるとか、誰と誰が関係を持っているだとか、そういうものが複雑化しやすいのは事実だ。

 オルキデは一夫多妻の国ではない。基本的に一夫一妻であるというのは、それだけの妻をやしなうことが不可能だからだ。一応貴族においてはめかけという立場が公然として存在してはいるものの、その立場は何かを保証するようなものでもない。

 だからこそ、というものかもしれないが、オルキデにおいて平民は貴族の妻にはなれない。与えられてきた教育が違う、立場が違う、オルキデにおいて貴族と平民の間には明確な隔絶かくぜつが存在していた。


「バシレイアは本当にごたごたしていますね……相変わらずというか、人間性が昔から変わっていないというか」


 シハリアが溜息ためいきまじりにそんなことをき捨てた。彼の言う昔などこの三年くらいのものだろうし、そうそう人間性など変わるものではない。

 国民性というものがある。そしてその国に根付いている倫理観りんりかんというものがある。他国の人間が見れば眉をひそめそうなことであっても、その国の人間にとっては当たり前のことだっていくらでもあるのだ。


「私も少し探ってはみたけれど、アルニオンとディアノイアとヘリオスについてはまともに探れなかったのよね。シィはどう?」

「僕も駄目ですね、というかアルニオンはともかく他二つはあまり手を出さない方が良いと思いますよ。どうにも当主がうすら寒いしきな臭いので。特段困りはしないと思いますし、その三領は捨て置いておけば良いと思います」

「それもそうね。いざという時に使えそうなのは……デュナミスとアグロスかしら」

「デュナミスはゼステノ側がカフシモ側に手柄を独り占めさせまいとねじ込んだリオーノがとんでもないことをしでかした挙句に戦死しましたからね、水面下では激化するのではないですか。当主であるピル・デュナミスは病床で、未だどちらを指名するか決めあぐねていますし」

「ふふ、女性二人のどちらも選べなかった挙句にほぼ同時に出産、後継者こうけいしゃもその流れで指名ができず……為政者いせいしゃとしてはともかく、家長かちょうとしてはいかがなものかと言うところね」


 立場というものは、本来明確にしておくべきものである。

 ファラーシャたちの父親にも言えることではあるが、そこを間違えれば後に禍根かこん混乱こんらんを生む。考えなしに何かをするということは後々に問題を生むのだと言うことを、本来上に立つ人間はわきまえておかなければならないものだ。

 後は野となれ山となれ、それで良いと言うのならば好きにすれば良いことだけれども。少なくともこのベジュワ侯爵家のことではないので、部外者が口を出せることなど本来何もないのだから。

 だからこれは、ファラーシャの勝手な感想だ。


「ゼステノは内向き、カフシモは外向き、ということでどちらがより優れているということもないのがまたやり辛いところでしょう。これで二人の仲が良好であれば共同統治という形を取れたかもしれませんが、二人の仲は最悪ですからね。まず無理でしょう」


 そうしてシハリアは、鼻で笑う。

 仲が悪い場合に共同統治など、どうせ後で問題になるだけだ。お互いの得意をする分野をそれぞれ発揮して共同統治という形を取ることができれば丸く収まるのかもしれないが、そもそもこの問題は母親たちにも起因している。

 たとえ当人たちの仲が良かったとしても、母親たちを排除しなければ到底共同統治などできないのは容易に想像ができた。


「まあ、あの二人が仲良くなるなんてありえませんね」

「あら? どうしてそんなことが言えるの?」

「色々と。お気になさらず」


 シハリアはそれ以上言うつもりはないようで、意味深な笑みを浮かべて言葉を切ってしまった。

 時折ではあるが、シハリアはこういうことがある。その年齢には似つかわしくない、もっと老獪ろうかいな何かを相手している気分になることが、少なくともファラーシャはある。

 これでデュナミスの話は終わりとばかりに、今度はシハリアが指先でアグロスのところを叩いた。


「アグロスの方は当主の女癖の悪さのせいですね。子供が複数人いるというのに、双子を除けばすべて母親が違う。見目が良ければ誰彼構わずということですから、お気を付けくださいね」

「そう……ならばカリサは気を付けさせなければならないわね」


 主人であるファラーシャが言うのは欲目が入っているのかもしれないが、カリサは冷たさを感じさせるものの美人である。褐色かっしょくの肌が似合うつんとした美女は、アグロスの当主のお眼鏡にかなってしまうかもしれない。

 そうなった時に彼女を守るのは、主人であるファラーシャの役目だ。それこそ情報を使って取引でもして、手を引いてもらうことにもなるだろう。


異母姉ねえ様、もう少しご自身を……いえ、いいです。僕からは何も申しません」


 シハリアは目を伏せて、少しばかり複雑そうな顔をする。けれども彼はそれ以上何も言わず、ゆるく首を横に振るだけで終わった。

 やはりバシレイアというのは血縁関係でごたつくものか。一夫多妻というか、そもそも妻ですら夫以外の男と関係を持つことが珍しくない国である。オルキデではその血筋の確実性を失うということで当然眉をひそめられる行為であるが、そこは国の違いだ。

 そもそもオルキデでもそういったことがないわけではないから、王家の青銀が重要であったり、各家で目の色が重要視されたりするのだ。単純にそういったことが表面化しているかいないかだけの違いだろう。


「上二人はそもそも後を継ぐ気がないのですが、下から見れば年長者というだけで目の上のたんこぶですからね。未だ当主は健在で大層だそうなので、下が増える可能性もある。ことに当主の座を狙っている者からすれば気が気ではないでしょう」


 上には何人もいて、そして下が増える可能性もある。となれば当主の座を狙うのならば当然気が気ではないだろう。年功序列ねんこうじょれつ的な考えはバシレイアにもあるもので、腹で順番が付けられないのならば当然次は年齢というのが手っ取り早い。

 誰かが頭角をあらわせば形式上は同列ということもあって指名を受けることはあるかもしれないが、調べた限りではそれもない。そもそも頭角をあらわすなど、有事の際か大きな問題事でも起きない限りは無理だ。


「正妻がすでに死んでいるのもあって、腹の順にもできませんからね。これで当主が新たに正妻を迎えて子供が生まれれば当然今いる子供らに当主の座が転がり込むのは難しくなる。そういう意味でも目を光らせている、と言ったところでしょうか」


 大きなところはこの二つだろう。あとはどちらかと言えば細々とした部分だろうか。

 シュガテールは女系であるのに女性がおらず現在は男性が当主になっているとか、マカリオスは皇太后こうたいごうの家であることから当主が王の血縁者であり、大きな顔をしているだとか。どこの国も問題事を抱えているのは変わらない。


「ところで異母姉ねえ様、僕は怒っているのですが」

「あら、誰に?」


 これは燃やしておきますと、シハリアが紙面を手に取った。ぺらりとした一枚きりのそれは、すでに姉弟の頭の中に入っている。

 書面で残しておくというのは危険なのだ。きっちりと契約をするなどで書面を残しておかなければならない場合もあるが、こんな情報は頭の中に入れてしまってあとは燃やしてしまうに限る。

 だからこそ、うろ覚えは赦されない。頭に入れた情報が間違っていましたでは意味がない。


「あのクソおん……いえ、第二王女とかいう……あーっと、そうです、第二王女殿下とお呼びすべき人ですね」

「シィ、前半が余計よ?」

「失礼しました、つい」


 ついとは言っているものの、きっとわざとなのだろう。いつもならばとがめるところではあるが、今回は自分も関わる部分なのでファラーシャは口をつぐんでおくことにした。

 一度は落ち着いたもののやはりシハリアは腹にえかねているらしく、再び口を開く。


「あの女のせいで、まるで犯罪者の移送のようではありませんか。まがりなりにも結婚ですよ、しかも国を背負って講和のために人質同然で嫁ぐのですよ? むしひざまずいて感謝するのが普通ではありませんか! 僕の、異母姉ねえ様に!」


 今度は立ち上がって、とうとう熱弁になってしまった。

 そんな彼の様子に、ファラーシャは苦笑するしかできることはない。それから、やんわりとくぎを刺すくらいしか。

 別にファラーシャはそこまでして欲しいとは思っていないが、それを呑み込みなさいとシハリアに押し付けることもできなかった。


「シィ、声が大きいわ」

「これは再び失礼しました、つい、です」


 ふうと一つ自分を落ち着けるようにシハリアは息を吐き出して、再び椅子に座る。それでも大きな音を立てたりしないのは、教育の賜物たまものだろう。

 そんな様子に、ファラーシャは柔らかく微笑ほほえんだ。しっかりしてはいるものの、こういうところはまだまだ子供だ。


「良いのよ、それは。シャロシュラーサ様のおどしに負けた私が悪いのだから」

「違いますよ、それはおどす方が悪いのです。異母姉ねえ様に落ち度などあるはずがない」


 ファラーシャだから。

 特定の人間をそうして理由にするのは、ある意味で危険だ。身内であるからと目をつむっておくことはできるものの、だからといって無条件に誰かを信じすぎるのも危険な話である。


「それは目をくもらせるものよ?」

わきまえておりますのでお気になさらず」


 シハリアはあっさりとそう告げて、深々と溜息ためいきを吐いていた。

 ようやく話がひと段落したからか、カリサがシハリアの前に茶の入ったカップを置く。ありがとうとシハリアは彼女に告げて、そのカップに口を付けた。


「僕は異母姉ねえ様には、今度こそ幸せになって欲しいのに」


 飲み終えて、カップを置いて、シハリアはそんなことを言う。

 そう言われても、ファラーシャには幸せというものがよく分からない。こうして生きている以上に何か幸福なことはあるだろうか。


「大丈夫よ、シィ。そもそも講和がきちんと整えばお役御免ごめんだもの、離縁でもして帰って来るわ。その頃にはほとぼりが冷めているでしょうから」

「本当ですか!」


 リノケロスとてそういうことは分かっているだろう。

 何を思って彼が承諾しょうだくしたかなど知らないが、おそらくはこの結婚の意味をよく分かってのことだ。そうでなければ足の悪いファラーシャとの結婚など了承のしようがない。

 あるいは見せた手の内が、利用できると踏んだのか。どちらであっても構いはしないが。


「約束ですよ、異母姉ねえ様」

「ええ。大丈夫、そうなるように取り計らうわ」


 微笑んで言えば、シハリアはうつむいてしまった。ファラーシャの髪とは違い、シハリアの髪にはくせがない。

 そうそう長くはならないだろう。ある意味でこの結婚は停戦の継続と講和をきちんと結ぶための土台になるためのものだろう。ならば講和が強固にまとまってしまえばファラーシャなど用済みだ。


「……前に異母姉ねえ様を守れなかったような男に、渡してたまるか」


 ぼそりと落ちていった言葉は確かにファラーシャの耳を通り過ぎたはずなのに、よく聞こえなかった。

 首を傾げれば、結っていない鉄色の髪が落ちてくる。


「シィ?」

「何でもありません。約束ですからね!」


 ぱっと顔を上げたシハリアは笑っていて、何とも嬉しそうな顔であった。

 まだ成人していないシハリアの両肩に、ベジュワ侯爵領がのっている。父はどう見ても賢いとは言えず、シハリアの実母も悪い人とは言わないが厳しすぎるきらいはあった。ある意味で貴族の女性らしすぎて、母親らしいと言えるはずもない。


「ええ。何ならサフラサカー様に誓いましょうか?」


 オルキデにおいてはごくごく一般的なことであるが、その神の名前にシハリアが何とも形容しづらい表情を浮かべた。喜んでいるはずもなく、けれど嫌がっているわけでもない。


「あっ、いえ……それは、いいです。それはちょっと……」

「そう?」


 それならやめておくわねと、ファラーシャは笑う。

 どうせすぐに帰って来ることになるのだから、やはり荷物はあれだけでいい。部屋の片隅に視線を投げて、ファラーシャは目の前にあるカップを手に取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る