14 そういうことだ

「ここまででいい」


 出迎えてくれたオルキデ軍の兵士に、ハイマは軽く手をあげて別れを告げる。オルキデ軍の陣地もほとんど解体が終わっていて、すでにルシェとの会議の場所を間違えるほど天幕の数は多くない。数日ぶりだが彼女は元気だろうかと考えながら近づいていくと、ふとルシェではない別の誰かの気配がして足を止めた。

 詳しく聞いたことはないが、ルシェはオルキデ国内でもそれなりの立場だろう。部下も持っている。となれば当然ハイマとの打ち合わせにだけ時間を使えるわけではなく、それ以外で行わなければならない仕事もあるはずだ。

 てっきりハイマは天幕にいる別の誰かをそういう用件の相手だと思ったのだ。だからこそ足をゆるめて到着を遅らせた。多少無理を言ってルシェを交渉の場に引きずり出した自覚はあるので、本来の仕事の邪魔をする気はなかった。

 約束の時間になっているのだからとずかずか踏み込んでも良かったのかもしれないが、どれほど気を許していても他国の人間に聞かれるとまずい話もあるだろう。だからこそ、ハイマはあえて足を止めた。ハイマが来るとわかっていて声も聞こえやすいこんな場所で重要な話をするほど、ルシェは迂闊うかつではないと思っていはいる。だがそうは言っても、やむにやまれぬ場合もあるものだ。


「……ん?」


 だが風に乗って耳を澄ませずとも聞こえてくる声が、思っていたものといささか違っていた。仕事の話であるのなら、声をひそめてやるのが普通であろう。だが、遠慮なくがなり立てるような声がする。これは、それなりに年嵩としかさの男の声だ。ルシェの声はあまり聞こえない。

 首を傾げて、数歩近づき耳をそば立てる。万が一聞かれてはならない話であれば、後から記憶を消去する所存しょぞんだった。


「お前は俺の物だろう、ルシェルリーオ!」


 聞こえた声はどう控えめに聞いても怒声であり、言葉だけならば相手を口説いているとも受け取れなくない。だがその声がはらむのは欲望だけだ。どうやら不穏なことになっている気配を察して、止めていた足を動かした。ルシェが誰とどういう関係にあろうと構いはしないが、同意ではなさそうな雰囲気がひしひしと感じられるのは気分が悪い。


「痛い、離せ!」


 ルシェの悲鳴が聞こえた、ちょうどその時にハイマは天幕の入り口を跳ね上げた。太陽を背負ったハイマは一体彼らにどう見えているのだろう。

 今まで出会ってきたオルキデ人と比べるとかなり大きな体格をした男が、地面にルシェを押し付けている。もう少しハイマの到着が遅れているか割って入るのを躊躇ためらってどこかで時間を潰すなどしていたら。

 その時には、ルシェは。

 そこまで考えが及んでハイマは眉間みけんしわを寄せる。


「取り込み中か、ルシェ?」


 わかっていたが深刻な顔をするのもルシェに気をませるかと、あえて揶揄からかうような口ぶりで問いかけた。人が来たことに驚いたのか男の手がゆるみ、その隙にルシェが一度沈んでまた隣に上がってくる。


「はあ……すまない」

「……大丈夫か」


 ハイマとしては襲われかけていた相手に対するごくごく一般的な問いかけだった。だが、なぜだかルシェは目を見開いている。そんなに驚かせるようなことを言っただろうかと、ハイマは内心首をひねった。

 ひょっとすると講和の会議をするはずだった場所で何をしている、などと怒ると思っていたのかもしれない。もしこれが真実ルシェとこの名前も知らない男が恋人同士で相引きしていたのだとしたら、ハイマとて怒っただろう。だがどう贔屓目ひいきめに見てもそうではない。不可抗力ふかこうりょくのことに腹を立てるほど、ハイマは狭量きょうりょうではなかった。


「一芝居打つ、不快なら後で如何様いかようにも」


 ハイマがぼんやりとルシェの不可解な反応について自分なりの解釈かいしゃくをしている間にも、男とルシェは何かやり合っていたようだ。声をひそめてハイマにささやいてくるルシェに、反応を返す暇もなく襟首を掴んで引き寄せられた。

 男が斬りかかってきそうならともかく、そんな雰囲気ふんいきではなかったのでつい油断して力を抜いて立っていたハイマは、呆気なくルシェに引き寄せられる。お、と思った時には柔らかい感触がくちびるに触れていた。

 特に何も考えず、キスをするときの作法として腕をルシェの腰に回す。どうやら自分たち二人がそういう関係だとあの男に知らしめたいらしい、とハイマはルシェの口を離さないままに薄ぼんやりと現状を理解した。

 ちらりと見た男の顔は、赤くなったり青くなったりと忙しい。そのまま憤死ふんしするのではないかと、ハイマは少しだけ懸念けねんした。


「んっ……ふ、ぅ……」


 ルシェが苦しげな息を吐いてハイマの胸元にすがり付いてくる。ぞろりと舌で口の中をめて、髪の隙間から見えた耳が真っ赤になっていたのでそれだけで解放してやった。


「はあっ……は……」


 肩で息をしているルシェは、ひょっとするとこういうことには慣れていなかったのだろうか。引き寄せてきたので、てっきり常套手段じょうとうしゅだんかと思っていた。だが、よくよく考えれば宿屋で泊まった時の物慣れない反応しかり、人との接触は必要最低限しか行ってこなかった可能性が高い。

 つい衝動しょうどうで申し訳ないことをしたなと思いつつ、楽しかったことは否定できないハイマである。せめてものびとしてすっかり力が抜けているルシェが座り込まないよう腰に回した手に力を込めて支えてやりながら、今にも倒れそうな顔色でこちらをにらんでいる男を睥睨へいげいした。


「そういうことだ、いつまでそこにいる。とっとと立ち去れ」

其奴そやつは我が婚約者だ! 忘れるな!」


 文字通り捨て台詞をいて、名前も知らない男は天幕を飛び出していく。その途上で男に弾き飛ばされそうになり、ハイマはルシェを抱えたまま一歩横に退いて衝突しょうとつを回避した。すれ違いざまに舌打ちが聞こえたので、ひょっとするとわざとぶつかろうとしたのかもしれない。

 だがそれほど動きの早くない男に黙ってぶつかられるほど、ハイマは愚鈍ぐどんではないし寛容かんようでもない。当てつけのようなドスドスという足音がすっかり遠ざかってから、ハイマはようやく腕の中のルシェに視線を落とした。


「大丈夫か」


 本日二度目の問いかけには、返事がなかった。その代わりに震える手でルシェがハイマを押し退ける。

 その手の震えは果たして先ほどの男から与えられた感情に起因きいんする物なのか、それともキスの名残なのか。


「悪かったな。つい」


 つい、で終わる話なのかはともかくとして、仕掛しかけてきたのはルシェである。

 それ以上何も言うまいと思っていたが、案の定ルシェは何かをこらえるようにうつむいた後、ようやく顔を上げた。


「いや。こちらこそ、見苦しいものを見せた」


 口調ばかりはいつものルシェだったが顔は笑ってしまいそうになるぐらい真っ赤で、とても赤鴉コキノス・コローネーとは思えない。ここで笑うと流石にルシェの機嫌をそこねると思ったハイマは、必死に頬の内側をんでえた。

 せっかくルシェがいつも通りを装おうとしているのだから、ここは合わせてやるのが優しさだろう。たとえそれが、傍目はためにはどう見ても装えていなかったとしても。


「それで。日取りの件だが」

「彼女の準備にはどれくらいかかる?」


 気を取り直して、用意されていた椅子に二人とも腰を下ろす。幸いなことに先ほどの騒動そうどうでも机は蹴り飛ばされておらず、上に乗った水の入ったグラスは無事だった。それを見たルシェがあからさまにほっとした顔をする。

 水や食料は非常に値が張るのだと、以前エクスロスへ泊まった時にルシェは愚痴ぐちのようにこぼしていた。こうして一杯の水を用意するだけでも大変だろうに、それがあんな暴挙で倒れていて無に帰したとしたらやるせないものがある。


「大層なものにするつもりはないから、それほどかからないだろう」

「そうか……それなら一週間後の今日はどうだ。収穫祭があって、誰も彼も忙しくしてるからな。馬車が一台通ったところで気にされねぇだろ」

「そうか、わかった」


 バシレイアは毎年、夏から秋に移り変わるこの時期に収穫祭を行なっている。滅多にない国全体が同じ日に行う行事だ。大々的な祭りが開かれるのは穀倉地帯であるアグロス領やディアノイア領だが、エクスロス領とて無縁ではない。もっと言うのならば、オルキデにつながるキャラバンも無関係ではない。

 どこの領地も、去年採れた収穫物を格安で売り払い、新しい恵みをたっぷりとたくわえるのだ。毎年とんでもない量の荷馬車が行き交うので、派手にしていなければファラーシャを乗せた馬車もその中の一つにまぎれられる。


「ルシェ?」


 手元の紙に何か書き付けているルシェの行動がどうも不審ふしんで、ハイマは首を傾げた。先ほどからやけに挙動不審きょどうふしんなのだ。

 今まで密約がれるのを恐れて決してやり取りを書面で残すなどしなかったのに、今になって急に筆を取り始めた。おまけに話すときも顔はあげるが、視線がハイマを素通りしている。天幕の入り口を見て男がまだ戻ってこないか気にしているのかと思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。


「えっ? あ、ああ、そ、そうだ、ええと……私は所用で行けないからな、本人と侍女と護衛の三人だけで向かうことに、なる」

「はあ、そりゃ構わんが」

「それで経路、だが!」


 いっそ不自然なまでに、ハイマの方を見ない。髪からわずかに覗く耳が全く赤さを失っていないことを、果たして指摘するべきか。

 そんなことを考えながら、ハイマはルシェが地図を広げて早口でまくし立てながら馬車の経路を説明するのに耳を傾け続けた。

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