13 鴉の失態
講和に向けた調整については、話し合いの場所をバシレイアの陣とオルキデの陣とで交互にということになっていた。オルキデ軍の本陣であった場所はすっかり片付けられていて、鴉の天幕しか残されていない。ではなと去って行ったアスワドの背中を見送り、鴉はようやく息を
本陣は静まり返り、誰の声もない。戦時中は騒がしかったものだが、終わってしまえばこんなものだろう。
「エヴェン」
「はい」
隣にいたエヴェンに声をかければ、彼は即座に返答をする。
兵士は残しておくかとアスワドに問われて、鴉は首を横に振った。雛鳥たちはそれぞれいつもの仕事に戻っているが、エヴェンとラアナだけは
ハイマを信用している、というのは何も偽るところはない。他人など信用できるようなものではないが、鴉は彼の裏表のなさを信用していた。それは戦場で刃をぶつけ合ったからかもしれないし、何度となく顔を晒して交渉しているせいかもしれない。
別に
「シュティカの方はどうなっている?」
「今は静かです。ジェラサローナ殿下がシュリシハミン侯爵と
それは
侯爵にとっては災難だ。鴉によって報復はした、不届き者の首は荒野に
「……ケヴェス殿のことでか」
「はい」
仮面の下で目を閉じる。不幸であったなどと言ったところで、結局何も戻りはしない。失われた命は戻らず、時間が巻き戻ることもない。
その責を負うべきは、彼を無理矢理に戦地へ送ったジェラサローナだ。
「シャロシュラーサ殿下は?」
「それが、
「そうか」
先日シャロシュラーサは
どうせ鴉はあの情報を肯定したりはしない。ルシェルリーオなどという人間はおらず、ここにいるのは髪も黒い大鴉だ。
それにしても、どこへ行ったのか。行く先として考えられるのは、夫の実家であるガドール公爵家くらいのものだけれど。
「エヴェン、ファラーシャにこれを届けておいてくれ。エクスロス領の下見をしてきた報告だ」
「かしこまりました。お一人で問題ありませんか」
「ああ。どうせあちらも一人だろうからな、問題ない」
鴉が
誰と誰がということはぎりぎりまで伏せておきたいからこそ、信用できるエヴェンにしかこの書状を
残念ながら同じ鴉であっても、信用できる者は少ない。それこそエヴェンとラアナとシアルゥくらいのもので、あともう一羽いる成鳥や他の雛鳥は信用には値しないのだ。
「かしこまりました。では、届けてまた戻ります」
どぷりとエヴェンが影に沈むのを見送って、鴉は天幕の中に入った。
バシレイア側に行くといつも食べ物と飲み物が用意されているが、オルキデ側ではいつも水だけだ。その水ですらかなりの値段になるオルキデにおいて、ただこうして交渉するだけの相手に食べ物まで振る舞うことは難しい。
これが実際に講和の儀式となれば国の
どうせハイマが来るのを待つだけだ。彼が来てから慌てて仮面を外すというのも失礼な気がして、鴉は早々に仮面を外す。顔の上半分だけを
広がった視界は、やはり慣れない。停戦からこっち慣れないことばかりで、どうにも落ち着かなかった。椅子に座って食べ物を食べるということもそうだし、誰かとあれだけ長い時間共にいるというのもアヴレーク以外では
そこまで考えて、ひたりと鴉は動きを止める。馬車の音、そしてあるはずのない気配。ハイマではないそれに嫌な予感がして仮面に手を伸ばすが、つるりと仮面は逃げるように鴉の手から滑り落ちて地面に転がった。
「
ばさりと勢いよく天幕の入口が跳ね上がる。
その向こう、立っていた人物に鴉は息を呑むしかなかった。ここにいるはずがない、いてはならない人物がそこに立っている。
オルキデの人間は小柄な方が多いが、男は大柄であった。別に武人でもないのに
「……エハドアルド・ハーフィル、何をしに来た」
鴉の仮面は地面に転がっていて、すぐに手が届く場所にない。鴉の顔を認めたエハドアルドがにんまりと笑い、どすどすと足音を立てて近寄って来る。
お前は本当に母親に似ているなと、
あの時はまだ、十二歳だった。九年前、何もできない子供であった。
「こんなところにいたか、ルシェルリーオ! なんだその髪は、シャロシュラーサ殿下に聞いた時はまさかと思っていたが!」
声が大きくて、どうにもうるさい。
やはりシャロシュラーサはエハドアルドに情報を流したらしい。今年で四十二になるはずの筋肉
「誰だ、それは」
「そう恥ずかしがるな、我が婚約者よ! 何、講和の交渉などしなくて良いのだ、俺が代わってやろう」
そもそもの
顔を見ていたいとは思わない。嫌なことばかり思い出す。
息が苦しい、どうにも酸素が足りていない。アヴレークやアスワドに重たいものを乗せられた時の息苦しさとはまた違う、背筋は冷えて足は
「結構だ、あちらとの取り決めなのでな」
何とかして、声を
鴉がハイマと交渉をしているのは、それがハイマから出された条件だからだ。顔と名前を
今更交替したところで、ハイマを怒らせるだけだろう。彼を怒らせれば再び戦争になる危険性もあるというのに、それすらも分からないのだろうか。それとも、そうして再度戦争を始めることが目的なのか。
「俺の方が上手くやれると言っているのだ。それにあちらの総司令官と言えば化け物のような男なのだろう? おお怖かったな、ルシェルリーオ。お前を
「寝言は寝て言え、エハドアルド・ハーフィル」
近寄ってきたエハドアルドに口では
何もできない子供ではなくなって、平気なはずだった。だというのに本人を目の前にすればこの様なのかと、我がことながら
いっそこの男を殺してしまえば良いのか。けれど曲がりなりにもエハドアルドはガドール公爵家の
「婚約者を
「そんなものになった覚えはない」
シャロシュラーサも言っていたが、この男の中ではそういうことになっているらしい。その理由は察しているし、それこそが鴉にとっての恐怖の要因でもある。
九年前だ。昔のことだ。
だからこそなのかもしれないが、恐怖が鴉の足を
「お前は最早俺以外には嫁げぬ身だろう?」
「はっ……十二歳の子供を
そうでなければこの恐怖に負けてしまう。かつてのことを思い出して、ただ怯えるだけの子供に戻ってしまう。お前は鴉だろうと自分を叱責し、その
「この! 減らず口を……! お前は俺の物だろう、ルシェルリーオ!」
「私をその名で呼ぶのなら、
言葉を吐き出す途中で、エハドアルドに突き飛ばされた。流石に体格差もあり、鴉は簡単に地面に突き飛ばされて背中を打つ。
即座に立ち上がろうとしたが、思った以上に素早かったエハドアルドが鴉を地面に押さえつけた。
捕まれた手首が痛い。嫌だ離せとかつても暴れることすらできず、泣き叫ぶばかりだった自分を思い出す。
「ああ、最初からこうすれば良かったのだな? 自分の立場が分からないならば、もう一度教えてやるしかない」
「この、離せ馬鹿力が……! 痛い、離せ!」
いっそ本当に殺してやろうかと心底考えてしまったところで、エハドアルドの肩の向こうで天幕の入口が上がるのが見えた。
本来ならばこのような場面を見せるものではないのだが、最初から
ハイマは
「取り込み中か、ルシェ?」
「……ちがっ!」
人が来たことに驚いたか、一瞬エハドアルドの腕の力が
ようやく、息ができた気がする。詰まってしまっていた息を一気に吐き出すかのように、自分の右手で喉元を押さえて息を
「はあ……すまない」
「……大丈夫か?」
ハイマのその言葉に、一瞬
心配などされるものとは思っていなかったし、そもそも鴉を心配するような人は滅多にいない。アヴレークやリヴネリーアが時折そう声をかけてくることはあれど、彼らはそれ以上に重いものを鴉の肩に乗せるのだ。
だから、何を言われたのか最初分からなかった。けれど何か返答をしなければと、慌てて口を開く。
「え? あ、ああ……だいじょうぶ、だ」
どうしたものかと考えている間に、エハドアルドが立ち上がる。その顔が赤くなっているのは、邪魔をされた怒りだろうか。
邪魔も何も、招かれていないのはエハドアルドの方だというのに。あの様子でハイマと交渉する立場になるつもりだったのかと思うと、ぞっとする。
「アレは?」
「……我が国の恥だ」
他に答えはなく、端的にそう答えた。
ふうん、とハイマは特に興味もなさそうな声を上げる。さてどうしたらあの男を帰らせることができるかと考えたが、有効な手立ては何も思い浮かばなかった。
これはもうハイマには悪いが、一度帰って貰う他ないだろうか。話し合いは後日また日を改めるとして、謝罪をするしかない。
「何をしている、ルシェルリーオ。婚約者がいながら他の男に尾を振るか!」
「だからそのようなものになった覚えはないと言っているだろう!」
「今回の講和には結婚が条件に入っていると
エハドアルドの言葉に、はたと気付く。
もしもそうであるのならば、流石にエハドアルドも引くのではないだろうか。そもそも婚約者だ何だというのはエハドアルドが勝手に言っていることであり、誰が認めたものでもない。アヴレークのところに話がいったことくらいはあるだろうが、きっと彼はそれを突っぱねている。
「そうだと言ったら?」
国と国との講和に際しての結婚であるのならば、エハドアルドも文句は言えないだろう。
ならばここで、一芝居打つしかない。巻き込んでしまうハイマには申し訳ない話ではあるが、彼には後で丁重に謝罪をすると決めた。
「……総司令官殿、すまない。後で謝罪する」
エハドアルドに背を向けて、ハイマにそう告げた。彼はよく分からないという顔をしていたが、だからと言って何かを言うわけでもない。
背中の側でエハドアルドが何かを
「一芝居打つ、不快ならあとで
ぐいとハイマの
それが、あまり良くはなかった。別に本当にするつもりはなくて、ただエハドアルドからは口付けているように見えさえすれば良かったのだ。
まさか本当に、触れてしまうとは思わなかった。あ、と思ったものの時は既に遅く、
しまったと思いながら鴉が離れようとするのと、ハイマの腕が鴉を
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