11 アヴレーク・イラ・アルワラの見舞いの品

 目的地である天幕の中は、誰もいなかった。シアルゥはどぷりとアヴレークの影の中に沈み、見かけ上はアヴレーク一人だけがその場に残される。

 そろそろこの本陣も撤去てっきょされる頃だろう。ハイマとルシェとの間で講和に向けた交渉は続いているのでその交渉場所だけは残されるだろうが、それ以外は片付けが進んでいる。オルキデ側もアスワドの指揮のもとで撤収てっしゅう作業が進んでいるはずだ。

 血生臭い戦場というわけではなくなった場所だが、こういう場所にいるとリヴネリーアに会うより前のことを思い出す。もう五十八にもなるのかと自分の年齢を数えて、彼女に出会ってじきに四十年になるのだと気付いた。

 後悔はしていない。ただ若かったなと思うだけだ。

 勝手に天幕の中にあった椅子に腰かけて、主を待つ。まるで己がその天幕の主であるかのように足を組んで座り、気配を殺した。とはいえ気配を殺しすぎても怪しすぎるかと、ほんの少しだけ分かるようにはしておく。相手は司令官なのだから、中に誰かがいるということくらいは気付くだろう。

 聞こえた足音が天幕の前で止まる。少し止まったのは、やはり警戒か。開いた天幕の入口の向こう、リノケロスは腰に吊るした剣のつかに手を乗せていた。失われた腕は利き腕ではないのだから、慣れれば剣を振るうくらいはできるだろう。


「やあ、先日ぶりだね?」


 この天幕はリノケロスのもので、主も彼のはずだ。けれどやはり中にいて椅子に足を組んで座っているアヴレークと入口のところで剣のつかに手をかけているリノケロスでは、主と客とが逆転しているような光景になってしまっている。

 先日ぶりというのは真実だ。リオーノが虐殺ぎゃくさつ行為をはたらいた後、謝罪に来たのはリノケロスだった。そしてその場で謝罪を受け取らずに帰らせ、鴉に腕を取らせたのはアヴレークである。

 けれどリノケロスはわざとか本気か、誰か分からないという顔をする。


「……はじめまして」


 彼の中ではそういう結論になったのだろう。

 果たしてこれはわざとか、それとも本気で覚えていないのか。アヴレークになど一切興味がないのかもしれない彼に、思わず口の端が吊り上がる。

 別に不快というわけではない。むしろとても愉快ゆかいな気分だ。面と向かってアヴレークにこんなことをする人間など、今となってはそうそういない。


「あは、良いねえそういうの。嫌いじゃないよ?」


 むしろこういう対応をしてくる相手は好きである。何一つとして逆らうことなく顔色をうかがって唯々諾々いいだくだくと従われるだけというのも、それはそれで気持ちが悪いのだ。恐怖政治をしているつもりはないのに、オルキデの貴族というのは骨がないのかすっかりそんな相手ばかりになってしまった。

 勿論もちろんシュリシハミン侯爵であるラフザやラヴィム侯爵であるアスワドといった例外はあれど、例えば二大公爵家のはずであるラベトゥルとガドールなどはアヴレークの顔色をうかがっている。影であれこれ言っているのは知っているが、それを面と向かってアヴレークに言う度胸どきょうもない。


の調子はどうだい?」

「おかげさまで」


 リノケロスの眉間みけんに少しだけしわが寄った。

 貴族というのは往々おうおうにしてそういうものであるが、彼も見てくれは悪くない。むしろバシレイア側の司令官の中であれば、彼が一番女性からは好かれそうな外見をしているだろう。

 確か年は三十六で、そこまで独身であったのは男色かあるいは性格に大きな難点があるか、あとは身内がとんでもないか、そのどれかだろう。そのうちのどれに当てまるのかというのをアヴレークはおおよそ予想がついているが、あえて彼に聞いたりすることはない。


「比較的前向きに結婚の承諾しょうだくをしてくれたそうで助かるよ。彼女はなかなかに使えるからさ、しばらくは貸し出しておいてあげよう」


 本当はアヴレークの手中に収めておきたかったが、こうなってしまっては仕方がない。シャロシュラーサもこうして戦争にかかずらっている間に余計なことをしてくれたものである。とりあえず彼女の異母弟であるシハリアだけは手元に置いておくとして、ファラーシャは一旦リノケロスに預けておくしかない。

 ラベトゥルをき付けることは、すでにアヴレークの中では決定事項だ。三人もいるのだから、一人くらい減っても支障ししょうはない。そもそも三人ともいなくなってもアヴレークは困らないし、最終的にはそうなれば良いとすら思っている。

 オルキデにえきもたらさないのなら、何の利用価値もないのなら、彼女らに存在する価値はない。生きていることを赦してやっているのだから、せめて役に立てというものだ。


「訳あってオルキデに置いておくと危険でね。エクスロスで守ってもらえるなら私としても一石二鳥だ」


 エクスロスであれば、オルキデからも近い。直接的な行き来はできないと言っても、国境を接してはいる。

 幸いにしてファラーシャは鳥を飼っているので、り取りとしても困ることはない。アヴレークがこの先どうなるかはさておいて、誰かとの手紙のり取りは簡単だ。


「用件はそれだけか」

「まさか、本題はこれからさ」


 さっさと帰れというのがリノケロスの全身からにじみ出ている。こういった冗長じょうちょうな話は好きではないのだろうなと分かりつつ、あえてアヴレークは引きばす。

 簡潔かんけつまとめようと思えばできることであるが、あえてしない。リノケロスが嫌そうだからこそ、ああはいはいそうですか、で終わらせないことにしたのだ。


「流石に見舞いの品くらいは必要かなと思ってねえ。その腕では何かと大変だろう?」


 左腕を奪わせたのはアヴレークだ。部下が粗相そそうをしたのだから上官である彼が責任を負うのは当然であり、一族の首を並べろと言われなかっただけ温情だろうとも思っている。

 だが悪かったと思わないわけではないのだ。今後不便になることは分かっているし、腕がないというのは一生それと付き合っていくしかない。戦争で四肢ししのいずれかが欠損することなど珍しくはないし、いちいち誰も彼もに悪いなどと思ったりはしない。ただリノケロスに対しては、アヴレークが鴉に命じて落とさせたからこその特別扱いだ。


「というわけで! 君に朗報ろうほうだよ」


 果たして彼がこれをと思うかどうかはさておいて。

 貴族の結婚など政略であることが常であるし、恋愛結婚なんてものはそうそうない。誰それが好きだからなどと言って結婚するから、ジェラサローナのようなことになるのだ。

 恋愛感情など二の次にして、最もえきのあるものを――などとアヴレークが言うのは、完全に自分のことを棚の上にあげてしまっているけれど。


「一年だ。一年だけ彼女を守ってくれればいい。白い結婚で構わないというか、この条件は白い結婚であることが大前提だ。そうでないと意味がないからね」

端的たんてきに話せ、話が長い」


 リノケロスの手は既に剣のつかからは離れていた。けれどアヴレークに近寄るつもりはないのだろう、入口付近に立ったままで足を進める気配はない。

 アヴレークはなおも笑って、足を組み直す。彼がさっさと話を終わらせたいのは分かっているし、いつまでも遊んでいては流石に不在が長くなってリヴネリーアにしかられそうだ。怒っている彼女はそれはそれで美しいのだが、口をきいてもらえなくなっては困る。

 だから、譲歩じょうほしてやることにした。


「せっかちだねえ。まあ良いけど、一度しか言わないから一度できちんと理解するんだよ? 理解できないと言われても私は知らないからさ」


 頭は悪くなさそうなので、おそらく彼はアヴレークの言葉を正しく理解するだろう。

 シアルゥはわきまえて聞こえないふりをしていてくれるだろうし、これは本当にアヴレークとリノケロスの間だけでの密かな提案だ。


「一年間守り抜いてくれるなら、君も彼女も結婚そのものをなかったことにしてあげよう。一年経ったら君は好きにすると良い。必要ならファラーシャに言えば結婚相手の候補者リストくらい出してくれるよ、あの子は優秀だ」


 そもそも何事もなければ、ある程度の期間が過ぎたらファラーシャ当人が離縁りえんをしようとするような気はしている。彼女はこの結婚の目的を理解しているだろうし、そこに感情などなくても良いと思っているはずだ。

 別に国と国のつながりを強めるために子供を必要とするような結婚でもない。これは講和のためであり、ある意味で最も簡単にバシレイアへと人質を送るための口実だ。ただそこに、シャロシュラーサとガドール公爵家からファラーシャの身を守るという目論見もくろみが追加されているだけで。


「何も一生げろというわけじゃあない。たったの一年、それで講和も果たされて丸く収まって君も彼女も経歴にきずは付かない。婚姻こんいんではなく保護であり、そういった事実は一切ありませんと。この意味は分かるね?」


 リノケロスは不愉快ふゆかいそうな顔をしていた。彼の不愉快ふゆかいがアヴレークの発言のどこにかかるのかは知らないが、だからといってアヴレークが態度を変えてやる必要もない。

 今必要なのはリノケロスへのご機嫌取りではなく、決定事項を伝えることだ。


「続きは」

「あは、君は本当にせっかちだね。というより、僕の話を聞いていたくないし、さっさと僕が目の前から消えないかと思っているだろう? 残念でした、だからこそ、だ」


 用が終わったならばさっさと消えろとばかりのリノケロスに笑ってやれば、表情こそ変わらないものの彼の雰囲気ふんいきは更に冷たくなる。まるで周囲の温度が一段下がるような空気に、アヴレークとしては愉快ゆかいな気持ちになるのだ。

 まだ遊んでいたいところだが、やはりそろそろ時間的には限界か。これでも遊んでいられるような立場ではない。


「これが僕からのだよ、リノケロス・エクスロス。ただしこれは僕と君しか知らないことであり、他の人間――ファラーシャに対しても明かすことは赦さない。彼女はどうせ自分のことは無頓着むとんちゃくで、調べようとはしないだろうけれど」


 彼女の性格や思考については、アヴレークがべらべらとまくし立てるようなものでもない。興味があるのならばリノケロスが知れば良いだけのことだ。

 そこまで告げて、アヴレークはようやく足を組んでいたのを直して立ち上がる。

 彼に言うべきことはこれだけだ。後のことは当人の決めることであり、別にこうしろと押し付けるつもりもない。見舞いの品を受け取るか受け取らないかは、渡された方の自由なのだから。


「以上。それじゃあ僕は帰るとしよう」

「二度と来るな」

「さあ? バシレイアにはあと一回か二回くらいは来ることになるんじゃないかなあ」


 交渉役として表に立っているのはルシェであるが、だからといってアヴレークが裏で何もしなくて良いわけではない。ルシェは大鴉としては優秀であるが、変に素直なところがある。身内以外をほとんど信用しないくせに、一度信用してしまうと今度は一切疑わなくなってしまうという困った部分もあるのだ。

 ルシェもいずれはオルキデから出さねばならないとは思っている。それは彼女に執着しゅうちゃくするガドール公爵家の嫡男、エハドアルド・ハーフィルが問題だからだ。それだけではなく、ルシェルリーオという存在は国内の人間に与えるには危険すぎる。大鴉にして隠しておいても、意味がないほどには。


「ああそうそう、最後に一つ」


 シアルゥに合図をして影に沈む前に、柔和な笑みの仮面を被った。

 まだあるのかという嫌そうなリノケロスに、思わず笑みを深めてしまう。これは余程嫌われたらしいが、彼に嫌われたところでアヴレークは痛くもかゆくもない。


「気に入ったなら反故ほごにすればいい。この見舞いの品の条件はだからね」


 つまりは、そういうことだ。

 ある意味で下世話な話ではあるのだが、手元に置きたいのならば、手に入れたいのならば、くさびを打つというのは一つの手なのだ。そしてそれは、かつてのアヴレーク自身の所業でもある。

 そんなものはすべて棚上げをしてから、今度こそアヴレークはシアルゥに合図をして影に沈んだ。

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