11 アヴレーク・イラ・アルワラの見舞いの品
目的地である天幕の中は、誰もいなかった。シアルゥはどぷりとアヴレークの影の中に沈み、見かけ上はアヴレーク一人だけがその場に残される。
そろそろこの本陣も
血生臭い戦場というわけではなくなった場所だが、こういう場所にいるとリヴネリーアに会うより前のことを思い出す。もう五十八にもなるのかと自分の年齢を数えて、彼女に出会ってじきに四十年になるのだと気付いた。
後悔はしていない。ただ若かったなと思うだけだ。
勝手に天幕の中にあった椅子に腰かけて、主を待つ。まるで己がその天幕の主であるかのように足を組んで座り、気配を殺した。とはいえ気配を殺しすぎても怪しすぎるかと、ほんの少しだけ分かるようにはしておく。相手は司令官なのだから、中に誰かがいるということくらいは気付くだろう。
聞こえた足音が天幕の前で止まる。少し止まったのは、やはり警戒か。開いた天幕の入口の向こう、リノケロスは腰に吊るした剣の
「やあ、先日ぶりだね?」
この天幕はリノケロスのもので、主も彼のはずだ。けれどやはり中にいて椅子に足を組んで座っているアヴレークと入口のところで剣の
先日ぶりというのは真実だ。リオーノが
けれどリノケロスはわざとか本気か、誰か分からないという顔をする。
「……はじめまして」
彼の中ではそういう結論になったのだろう。
果たしてこれはわざとか、それとも本気で覚えていないのか。アヴレークになど一切興味がないのかもしれない彼に、思わず口の端が吊り上がる。
別に不快というわけではない。むしろとても
「あは、良いねえそういうの。嫌いじゃないよ?」
「左腕の調子はどうだい?」
「おかげさまで」
リノケロスの
貴族というのは
確か年は三十六で、そこまで独身であったのは男色かあるいは性格に大きな難点があるか、あとは身内がとんでもないか、そのどれかだろう。そのうちのどれに当て
「比較的前向きに結婚の
本当はアヴレークの手中に収めておきたかったが、こうなってしまっては仕方がない。シャロシュラーサもこうして戦争にかかずらっている間に余計なことをしてくれたものである。とりあえず彼女の異母弟であるシハリアだけは手元に置いておくとして、ファラーシャは一旦リノケロスに預けておくしかない。
ラベトゥルを
オルキデに
「訳あってオルキデに置いておくと危険でね。エクスロスで守ってもらえるなら私としても一石二鳥だ」
エクスロスであれば、オルキデからも近い。直接的な行き来はできないと言っても、国境を接してはいる。
幸いにしてファラーシャは鳥を飼っているので、
「用件はそれだけか」
「まさか、本題はこれからさ」
さっさと帰れというのがリノケロスの全身から
「流石に見舞いの品くらいは必要かなと思ってねえ。その腕では何かと大変だろう?」
左腕を奪わせたのはアヴレークだ。部下が
だが悪かったと思わないわけではないのだ。今後不便になることは分かっているし、腕がないというのは一生それと付き合っていくしかない。戦争で
「というわけで! 君に
果たして彼がこれを朗報と思うかどうかはさておいて。
貴族の結婚など政略であることが常であるし、恋愛結婚なんてものはそうそうない。誰それが好きだからなどと言って結婚するから、ジェラサローナのようなことになるのだ。
恋愛感情など二の次にして、最も
「一年だ。一年だけ彼女を守ってくれればいい。白い結婚で構わないというか、この条件は白い結婚であることが大前提だ。そうでないと意味がないからね」
「
リノケロスの手は既に剣の
アヴレークはなおも笑って、足を組み直す。彼がさっさと話を終わらせたいのは分かっているし、いつまでも遊んでいては流石に不在が長くなってリヴネリーアに
だから、
「せっかちだねえ。まあ良いけど、一度しか言わないから一度できちんと理解するんだよ? 理解できないと言われても私は知らないからさ」
頭は悪くなさそうなので、おそらく彼はアヴレークの言葉を正しく理解するだろう。
シアルゥは
「一年間守り抜いてくれるなら、君も彼女も結婚そのものをなかったことにしてあげよう。一年経ったら君は好きにすると良い。必要ならファラーシャに言えば結婚相手の候補者リストくらい出してくれるよ、あの子は優秀だ」
そもそも何事もなければ、ある程度の期間が過ぎたらファラーシャ当人が
別に国と国のつながりを強めるために子供を必要とするような結婚でもない。これは講和のためであり、ある意味で最も簡単にバシレイアへと人質を送るための口実だ。ただそこに、シャロシュラーサとガドール公爵家からファラーシャの身を守るという
「何も一生
リノケロスは
今必要なのはリノケロスへのご機嫌取りではなく、決定事項を伝えることだ。
「続きは」
「あは、君は本当にせっかちだね。というより、僕の話を聞いていたくないし、さっさと僕が目の前から消えないかと思っているだろう? 残念でした、だからこそ、だ」
用が終わったならばさっさと消えろとばかりのリノケロスに笑ってやれば、表情こそ変わらないものの彼の
まだ遊んでいたいところだが、やはりそろそろ時間的には限界か。これでも遊んでいられるような立場ではない。
「これが僕からの見舞いの品だよ、リノケロス・エクスロス。ただしこれは僕と君しか知らないことであり、他の人間――ファラーシャに対しても明かすことは赦さない。彼女はどうせ自分のことは
彼女の性格や思考については、アヴレークがべらべらと
そこまで告げて、アヴレークはようやく足を組んでいたのを直して立ち上がる。
彼に言うべきことはこれだけだ。後のことは当人の決めることであり、別にこうしろと押し付けるつもりもない。見舞いの品を受け取るか受け取らないかは、渡された方の自由なのだから。
「以上。それじゃあ僕は帰るとしよう」
「二度と来るな」
「さあ? バシレイアにはあと一回か二回くらいは来ることになるんじゃないかなあ」
交渉役として表に立っているのはルシェであるが、だからといってアヴレークが裏で何もしなくて良いわけではない。ルシェは大鴉としては優秀であるが、変に素直なところがある。身内以外をほとんど信用しないくせに、一度信用してしまうと今度は一切疑わなくなってしまうという困った部分もあるのだ。
ルシェもいずれはオルキデから出さねばならないとは思っている。それは彼女に
「ああそうそう、最後に一つ」
シアルゥに合図をして影に沈む前に、柔和な笑みの仮面を被った。
まだあるのかという嫌そうなリノケロスに、思わず笑みを深めてしまう。これは余程嫌われたらしいが、彼に嫌われたところでアヴレークは痛くも
「気に入ったなら
つまりは、そういうことだ。
ある意味で下世話な話ではあるのだが、手元に置きたいのならば、手に入れたいのならば、
そんなものはすべて棚上げをしてから、今度こそアヴレークはシアルゥに合図をして影に沈んだ。
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