10 見舞いの品を届けに

 アヴレークはその日、当日中に片付けなければならない仕事をすべて片付けてから自分の執務室を出た。水路工事の嘆願書たんがんしょや食糧不足のうったえ、そんなもの自分の領地のことなのだから自分の裁量で何とかしろと思うような内容のものも片付ける書類の中には多々混ざっていた。

 正直なところを言ってしまえば、多分アヴレーク個人ではオルキデがどうなろうと知ったことではないのだ。ただリヴネリーアがこの国を愛しているから、この国を何とかしようとしているから、アヴレークは彼女のために彼女と同じようにこの国を愛することに決めたのだ。

 というよりは、リヴネリーアがオルキデの女王であるから、オルキデという国はつまりリヴネリーアそのものであると言えるだろう。ならば彼女を丸ごと愛するのであれば、当然オルキデを愛することにもなる。

 などという理屈により、アヴレークは今でも宰相という座におさまっている。幸いにして宰相という職ができるくらいの頭はあった。


「もう一度言ってごらんなさい、シュリシハミン侯爵! この私に逆らおうと言うの!」

「逆らうも何も、私は最初から反対をしておりました。我が家から二人も後継者こうけいしゃを奪って満足ですかな、ジェラサローナ殿下」


 目的地である内廷ないてい、ひいては鴉の巣グラーブ・ウッシュへ向かう途上で頭に響く声と、落ち着いているものの怒りをはらんだ声が耳に届いた。面倒事の気配に無視をしようかとも思ったが、頭に響く方はともかくもう一方は手中に収めておきたい男の声である。

 仕方がないかとアヴレークは溜息ためいきいて、その声のする方向へと爪先つまさきを向けた。


「何ですって! わざわざ手柄てがらをあげられるように戦地へ送ってやったというのに、死んだのは本人が弱かったせいではないの! 女王になるべき私の顔にどろるなんて、何を考えているの!」

「我が家はそもそも武の家ではございません。それを無理矢理戦地へ送ればこうなることは目に見えていたでしょう」


 片方は赤茶色の髪を高く結い上げた背の高い女、もう片方は白金色の髪に同じ色のひげを蓄えた細身の男。

 その言い争いの原因も分かっていて、アヴレークは柔和な笑みを浮かべて彼らに声をかけた。とにかくこんな場所ですることではないし、ここは謁見えっけんの間も近い。万が一リヴネリーアに聞こえたらどうしてくれるのか。


「やあ、シュリシハミン侯爵。それにジェラス、往来おうらいで何を騒いでいるのかな? 第一王女としてこんな誰もに聞こえるところで騒ぐなんて、恥ずかしいと思わないかい?」


 ジェラサローナの肩を持つつもりなど、アヴレークには一切ない。むしろ自分のしたことなのだから、それは自分で責を負うべきだと思っている。

 かけた声に彼らはそれぞれアヴレークを見たが、浮かべている表情はまるで違う。


「閣下」

「お父様!」


 侯爵は疲れた顔をして、ジェラサローナは喜色を浮かべて。

 この場合正しい反応は侯爵の方だろう。ジェラサローナはこうして声をかけたアヴレークが、自分の肩を持ってくれるとでも思っているのだろうか。だとしたら本当におめでたい頭だが、一体誰に似たのだろう。父親か。

 少なくともリヴネリーアには似ていない。そもそも彼女であったのならば、ケヴェスを戦地に送るような真似はしない。


「侯爵、好きにしてもらって構わないよ。元はと言えばこの愚女ぐじょが貴公に対して我儘わがままを押し付けたことが原因だからね。結婚のことも、今回のことも」

「お父様、何を勝手に!」

「ジェラス、君が文句を言える立場だと思っているのかい? 君がシュリシハミン侯爵家から二人の後継者を奪ったのは事実だ、これは君が何を言おうが変わらない事実だ。本気で自分が女王に相応しいと思うのなら、己の行いを悔いて責任を負いなさい」


 一度目は結婚相手として無理に婿むこ入りをさせた。その時はまだ二人いるからと侯爵が何とか呑み込んでくれたのだ。けれど二度目、あろうことか無理に戦地へ送り出し、そして戦死させてしまった。

 シュリシハミン侯爵家に男児だんじは三人。けれどもう後継者となれるのは一人になってしまった。一度でも王族の伴侶はんりょとなった人間は爵位しゃくいを得る資格を永久に失う、というのは権力の集中を防ぐための措置そちである。


「……失礼します!」


 甲高い声と共にジェラサローナはきびすを返し、足音高く去って行った。

 第一王女という立場であっても、女王位が転がり込んでくることはない。当人の資質ししつに後ろ盾、そして主神たる太陽と正義の神シャムスアダーラの祝福、これがなければオルキデでは真実女王にはなれない。

 神の祝福などという何とも眉唾物まゆつばものが一番重いというのも変な話かもしれないが、これもまたオルキデという国では重要なものなのだ。


「……私からは謝罪をしないよ、侯爵」

「閣下からいただこうとは思っておりませんよ」


 ようやく解放されたとばかりに、侯爵が息を吐いている。

 シュリシハミン侯爵は現在五十四歳で、リヴネリーアやアヴレークとは同世代だ。連れ添った正妻は数年前に亡くなり、現在はほぼ一人で領地の運営をしている。


「手を引くと?」

「元々手を出してもおりません。我が家はジェラサローナ様の後ろ盾になるつもりは最初からありませんし、王女殿下の娘へと支援をしているのは孫可愛さからだけです。誰が女王になろうとも、我が家は変わりませんので」


 侯爵が治めるシュリシハミンの領地は、オルキデの中でも最もまずしい土地である。他の領地のように鉱脈や鉱床があるわけでもなければ、クエルクス地方のように作物が育つわけでもない。ただひたすらに荒れた大地と砂漠とだけが広がる場所だ。

 けれどその土地を治めるのが彼でなければ、もっとシュリシハミン侯爵領は荒れていることだろう。クレプト領との取引も彼が一手に引き受けてくれているような状況ではあるが、彼であるからこそアヴレークはそれを任せていられた。


「君があの地を治めていてくれて助かっているよ、ラフザ・イェシム」

「もったいなきお言葉です。我らも陛下と閣下忠実なしもべでありますゆえ」


 ラフザが一礼し、よどみなくそう紡ぐ。

 彼のその言葉をアヴレークは信用している。彼がラベトゥルやガドールとは決して迎合げいごうしない理由を、アヴレークはよく知っていた。たとえ貧しい領地に対して支援をと言われたところで、ラフザは決して首を縦には振らないだろう。

 そんな支援には意味がない。ふっとラベトゥルやガドールの気が変わってしまえば断ち切られるようなものにぐらりと揺れるような男でもない。


「ケヴェス・イェシムの件はジェラサローナに責を負わせるよ。不足があったら私に言ってくれ」


 矜持きょうじがあるのは構わない。むしろそれがない方がおかしなこととも言える。けれどそれが間違ったものであるのならば、周囲すらも巻き込んでこういうことを引き起こす。

 ラフザにとっては息子の命だ。決して戻らぬものだ。けれどアヴレークはただそれだけを特別扱いはできないし、するつもりはない。戦争で失われたものはいくらでもあるし、そしてこちらも奪い取ったものがいくつもある。

 ただ、ケヴェスにとっては不幸であった部分もある。彼は不届き者の虐殺ぎゃくさつ行為に巻き込まれ、負傷兵を最後まで守ろうとしたのだろう。その死に様がそれを語っていた。負傷兵を見捨てることなく最後までそこで責務を果たそうとしたというのは、ある意味でラフザの教育の賜物たまものだ。

 それをかんがみれば、ほんの少しの特別扱いは赦されるだろう。


「ラベトゥルとガドールの愚かな行いでメルシェケール様を失ったのは痛手でしたな、閣下」

「メルのみならず、だろう? 君が言いたいのは」

「さて、何の話か分かりかねますが」


 それ以上何を言うつもりもないようで、ラフザはとぼけたようなことを言う。

 メルシェケールの名前に、一緒くたにアヴレークの記憶の中から引きずり出されるのはラフザの懇願こんがん。こればかりはリヴネリーアにも言えず、アヴレークの中だけで留めている話だ。

 メルシェケール・カナズ・ルフェソーク、かつていた王族の名前。今はもう失われた、青銀色の髪をした少女。あれからもう二十年以上になるのかと、アヴレークはひっそりと生まれた感傷にふたをする。


「次代はですか、閣下」

「君は本当に鋭いよねえ、侯爵。ジェラスは君をきちんと手中に収められないのだから、その程度ということだね」


 きちんとした手順で、もっと別の形でラフザを後ろ盾として得られたのならば、ジェラサローナにもまた異なる道はひらけたのだろう。けれどもうその時は過ぎ、機会は失われた。

 三人の王女はどれも女王になるにはあたいしない。民衆から支持が高い者もいない。誰がなっても同じということはつまり、誰にも期待していないということでもある。残酷なことかもしれないが、甘い言葉を囁きおべっかを使う貴族よりも、民衆たちの方がよほど正直だ。


「またしばらくは領地に引きこもるかい? 文句を言いに来ただけだろう?」

「そうですね。我が家にはもう一人息子がおりますが、あの子は少し体が弱いので。あの子まで私は失うわけには参りません。そうなればシュリシハミンは断絶だんぜつします」

「いいよ、向こう一年くらいは引きこもってて。その間にもう少しシュリシハミンを通るキャラバンを増やせるように取りはかろう。あの愚女ぐじょ尻拭しりぬぐいとは言わないけれど、見舞いとして。もっとも大切なご子息を失った痛手を金銭に引き換えろというわけではないよ。それはそれ、これはこれ。潤うならば受け取っておく方が得策だろう?」


 シュリシハミンを失うわけにはいかない。というよりも、あの地を治めるのはイェシム家でなければならない。

 オルキデとバシレイアの国境である領地だ、下手にラベトゥルやガドールに手を出されようものなら再戦の危険性すらもある。

 ラベトゥルとシュリシハミンは接しているとは言え、決して仲が良いとは言えない。シュリシハミンはどちらかというと孤立しているような状態であり、最も親しかった家はすでに断絶している。辛うじてラヴィム侯爵であるアスワドとは交流があるようだが、それも必要最低限だ。


「お気遣い感謝いたします、閣下。別段私はこの国と陛下と閣下に離反しようという気はございませんので。ただ孫に会えぬというのは寂しいですな」

「その気持ちはよく分かるよ。可愛いからねえ、孫。僕もついつい構ってしまう」


 ふと頬をゆるめれば、ラフザがそれを見咎みとがめるような視線を向けてくる。

 ここは往来で、誰が聞いているとも分からない。誰かに聞かれて困るのはアヴレークのみならず、リヴネリーアもだ。事実を知っているラフザの前であるからか、つい気がゆるんだ。


「閣下、素が出ておられますが。そして、閣下に孫はおられないでしょう?」

「おっとしまった。ついつい」


 何でもないよとアヴレークは笑う。そして何事もなかったかのようにいつもの笑みを浮かべて、話を変えるために再び口を開いた。

 孫などいない。いるのは三人の娘だけ。そうしなければならないと、そうしようと、リヴネリーアと決めたのだ。たとえその三人の娘が何者であるか知っていようとも、固く固く口を閉ざして。


「取り急ぎ、キャラバンの通過する経路変更についてはやっておくよ。君が屋敷で面倒を見ている孤児たちが立派に育つように、私としても支援はしたいからね」

「かしこまりました。感謝いたします」


 ラフザが一礼をして、彼もまた去っていく。今度こそアヴレークも内廷へと向かって足を進めて行った。

 それきり誰かに会うこともなく、鴉の巣までの廊下は静まり返っている。ルシェは現在エクスロス領への下見におもむいているからいないのは分かっているが、今日アヴレークが用事があるのは彼女ではない。

 扉を叩くこともなく、巣の扉を開く。ルシェがいないのに何かを気遣きづかう必要もないだろう。


「おやぁ、閣下。遅かったですねぇ」


 アヴレーク以上に間延まのびした声が、姿を見せると同時にかかる。毒気を抜かれるその声に、アヴレークは少しだけ肩をすくめた。

 室内には白衣を着た男が一人。耳の前の一房だけが鮮やかに赤く、あとはくすんだ紅色をした髪を男はかき上げて、からからと笑っていた。


「やあ、シアルゥ。準備は?」

「できてますよぉ」


 瞳の色は、アヴレークと同じ。くせのあるぼさぼさ頭も少し似ている。

 けれどシアルゥのその顔立ちはアヴレークに似ているわけではなく、アヴレークの故郷にいる別の男を想起そうきさせるものであった。きっとそんなものは、アヴレークとシアルゥ以外にこの国では思う者がいないけれど。

 一房だけ鮮やかに赤い髪は、鴉の成鳥の証だ。闇の精霊ズィラジャナーフだけが、こうして加護を与えた相手に印をつける。他のどの精霊も神もしないのに、ズィラジャナーフだけが。

 その赤色をどこかで見た気がいつだってするけれど、それがどこの誰のものかが分からない。なんとも気持ちの悪い感覚で、アヴレークはそれが好きではなかった。


「誰ですか、白鴉を移動手段として呼びつけるのはぁ」

「僕」


 彼は情報収集が専門の白い鴉であり、戦地に送ったラアナの師匠でもある。彼を戦場に送らなかったのは、リヴネリーアの守りが減ることを避けるためだった。

 ただアヴレークは今、情報が欲しくて彼を呼びつけたわけではない。


「はいはい、我が叔父上様ですねぇ。で、どちらへ?」

「バシレイア軍の本陣」


 さらりと答えたアヴレークの言葉に、シアルゥがその細い目をわずかに開いた。普段は起きているのか寝ているのかも分からないような細さであるが、そうなるときちんと起きているのだということは分かる。

 敵地である。不法侵入である。ただ、だからどうしたというものだ。身分を笠に着るようでどうかとは思うものの、そうそうアヴレークに対して何かを言える人間はいない。言えるとすればリヴネリーアとルシェくらいのものだろうが、彼女たちに知られなければそれで良いのだ。


「正気ですかぁ?」

「正気だよ、僕はいつだって。狂ったことは一度もない」


 それこそ狂ってしまった方が良かったと思うことがあったとしても、いつだって正気だ。いっそ狂気に呑まれてすべてを殺し尽くしていれば、こんなことにはなっていないのかもしれない。

 ただただ柔和な笑みを浮かべて、笑顔の仮面でアヴレークは世界を睥睨へいげいする。この世界は残酷だと口癖のように言ったのは誰だったか。


「行くぞ、リノケロス・エクスロスに会う。腕一本分の見舞いの品くらいは、彼にくれてやらないとね」


 やれやれとでも言いたげにシアルゥが首を横に振る。

 早くしろとばかりに彼を見れば、分かりましたよぉとシアルゥは渋々口にして、黒い羽を舞い上がらせた。

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