10 見舞いの品を届けに
アヴレークはその日、当日中に片付けなければならない仕事をすべて片付けてから自分の執務室を出た。水路工事の
正直なところを言ってしまえば、多分アヴレーク個人ではオルキデがどうなろうと知ったことではないのだ。ただリヴネリーアがこの国を愛しているから、この国を何とかしようとしているから、アヴレークは彼女のために彼女と同じようにこの国を愛することに決めたのだ。
というよりは、リヴネリーアがオルキデの女王であるから、オルキデという国はつまりリヴネリーアそのものであると言えるだろう。ならば彼女を丸ごと愛するのであれば、当然オルキデを愛することにもなる。
などという理屈により、アヴレークは今でも宰相という座に
「もう一度言ってごらんなさい、シュリシハミン侯爵! この私に逆らおうと言うの!」
「逆らうも何も、私は最初から反対をしておりました。我が家から二人も
目的地である
仕方がないかとアヴレークは
「何ですって! わざわざ
「我が家はそもそも武の家ではございません。それを無理矢理戦地へ送ればこうなることは目に見えていたでしょう」
片方は赤茶色の髪を高く結い上げた背の高い女、もう片方は白金色の髪に同じ色の
その言い争いの原因も分かっていて、アヴレークは柔和な笑みを浮かべて彼らに声をかけた。とにかくこんな場所ですることではないし、ここは
「やあ、シュリシハミン侯爵。それにジェラス、
ジェラサローナの肩を持つつもりなど、アヴレークには一切ない。
かけた声に彼らはそれぞれアヴレークを見たが、浮かべている表情はまるで違う。
「閣下」
「お父様!」
侯爵は疲れた顔をして、ジェラサローナは喜色を浮かべて。
この場合正しい反応は侯爵の方だろう。ジェラサローナはこうして声をかけたアヴレークが、自分の肩を持ってくれるとでも思っているのだろうか。だとしたら本当におめでたい頭だが、一体誰に似たのだろう。父親か。
少なくともリヴネリーアには似ていない。そもそも彼女であったのならば、ケヴェスを戦地に送るような真似はしない。
「侯爵、好きにしてもらって構わないよ。元はと言えばこの
「お父様、何を勝手に!」
「ジェラス、君が文句を言える立場だと思っているのかい? 君がシュリシハミン侯爵家から二人の後継者を奪ったのは事実だ、これは君が何を言おうが変わらない事実だ。本気で自分が女王に相応しいと思うのなら、己の行いを悔いて責任を負いなさい」
一度目は結婚相手として無理に
シュリシハミン侯爵家に
「……失礼します!」
甲高い声と共にジェラサローナは
第一王女という立場であっても、女王位が転がり込んでくることはない。当人の
神の祝福などという何とも
「……私からは謝罪をしないよ、侯爵」
「閣下からいただこうとは思っておりませんよ」
ようやく解放されたとばかりに、侯爵が息を吐いている。
シュリシハミン侯爵は現在五十四歳で、リヴネリーアやアヴレークとは同世代だ。連れ添った正妻は数年前に亡くなり、現在はほぼ一人で領地の運営をしている。
「手を引くと?」
「元々手を出してもおりません。我が家はジェラサローナ様の後ろ盾になるつもりは最初からありませんし、王女殿下の娘へと支援をしているのは孫可愛さからだけです。誰が女王になろうとも、我が家は変わりませんので」
侯爵が治めるシュリシハミンの領地は、オルキデの中でも最も
けれどその土地を治めるのが彼でなければ、もっとシュリシハミン侯爵領は荒れていることだろう。クレプト領との取引も彼が一手に引き受けてくれているような状況ではあるが、彼であるからこそアヴレークはそれを任せていられた。
「君があの地を治めていてくれて助かっているよ、ラフザ・イェシム」
「もったいなきお言葉です。我らも陛下と閣下には忠実な
ラフザが一礼し、
彼のその言葉をアヴレークは信用している。彼がラベトゥルやガドールとは決して
そんな支援には意味がない。ふっとラベトゥルやガドールの気が変わってしまえば断ち切られるようなものにぐらりと揺れるような男でもない。
「ケヴェス・イェシムの件はジェラサローナに責を負わせるよ。不足があったら私に言ってくれ」
ラフザにとっては息子の命だ。決して戻らぬものだ。けれどアヴレークはただそれだけを特別扱いはできないし、するつもりはない。戦争で失われたものはいくらでもあるし、そしてこちらも奪い取ったものがいくつもある。
ただ、ケヴェスにとっては不幸であった部分もある。彼は不届き者の
それを
「ラベトゥルとガドールの愚かな行いでメルシェケール様を失ったのは痛手でしたな、閣下」
「メルのみならず、だろう? 君が言いたいのは」
「さて、何の話か分かりかねますが」
それ以上何を言うつもりもないようで、ラフザはとぼけたようなことを言う。
メルシェケールの名前に、一緒くたにアヴレークの記憶の中から引きずり出されるのはラフザの
メルシェケール・カナズ・ルフェソーク、かつていた王族の名前。今はもう失われた、青銀色の髪をした少女。あれからもう二十年以上になるのかと、アヴレークはひっそりと生まれた感傷に
「次代は繋ぎですか、閣下」
「君は本当に鋭いよねえ、侯爵。ジェラスは君をきちんと手中に収められないのだから、その程度ということだね」
きちんとした手順で、もっと別の形でラフザを後ろ盾として得られたのならば、ジェラサローナにもまた異なる道は
三人の王女はどれも女王になるには
「また
「そうですね。我が家にはもう一人息子がおりますが、あの子は少し体が弱いので。あの子まで私は失うわけには参りません。そうなればシュリシハミンは
「いいよ、向こう一年くらいは引きこもってて。その間にもう少しシュリシハミンを通るキャラバンを増やせるように取りはかろう。あの
シュリシハミンを失うわけにはいかない。というよりも、あの地を治めるのはイェシム家でなければならない。
オルキデとバシレイアの国境である領地だ、下手にラベトゥルやガドールに手を出されようものなら再戦の危険性すらもある。
ラベトゥルとシュリシハミンは接しているとは言え、決して仲が良いとは言えない。シュリシハミンはどちらかというと孤立しているような状態であり、最も親しかった家は
「お気遣い感謝いたします、閣下。別段私はこの国と陛下と閣下に離反しようという気はございませんので。ただ孫に会えぬというのは寂しいですな」
「その気持ちはよく分かるよ。可愛いからねえ、孫。僕もついつい構ってしまう」
ふと頬を
ここは往来で、誰が聞いているとも分からない。誰かに聞かれて困るのはアヴレークのみならず、リヴネリーアもだ。事実を知っているラフザの前であるからか、つい気が
「閣下、素が出ておられますが。そして、閣下に孫はおられないでしょう?」
「おっとしまった。ついつい」
何でもないよとアヴレークは笑う。そして何事もなかったかのようにいつもの笑みを浮かべて、話を変えるために再び口を開いた。
孫などいない。いるのは三人の娘だけ。そうしなければならないと、そうしようと、リヴネリーアと決めたのだ。たとえその三人の娘が何者であるか知っていようとも、固く固く口を閉ざして。
「取り急ぎ、キャラバンの通過する経路変更についてはやっておくよ。君が屋敷で面倒を見ている孤児たちが立派に育つように、私としても支援はしたいからね」
「かしこまりました。感謝いたします」
ラフザが一礼をして、彼もまた去っていく。今度こそアヴレークも内廷へと向かって足を進めて行った。
それきり誰かに会うこともなく、鴉の巣までの廊下は静まり返っている。ルシェは現在エクスロス領への下見に
扉を叩くこともなく、巣の扉を開く。ルシェがいないのに何かを
「おやぁ、閣下。遅かったですねぇ」
アヴレーク以上に
室内には白衣を着た男が一人。耳の前の一房だけが鮮やかに赤く、あとはくすんだ紅色をした髪を男はかき上げて、からからと笑っていた。
「やあ、シアルゥ。準備は?」
「できてますよぉ」
瞳の色は、アヴレークと同じ。
けれどシアルゥのその顔立ちはアヴレークに似ているわけではなく、アヴレークの故郷にいる別の男を
一房だけ鮮やかに赤い髪は、鴉の成鳥の証だ。闇の精霊ズィラジャナーフだけが、こうして加護を与えた相手に印をつける。他のどの精霊も神もしないのに、ズィラジャナーフだけが。
その赤色をどこかで見た気がいつだってするけれど、それがどこの誰のものかが分からない。なんとも気持ちの悪い感覚で、アヴレークはそれが好きではなかった。
「誰ですか、白鴉を移動手段として呼びつけるのはぁ」
「僕」
彼は情報収集が専門の白い鴉であり、戦地に送ったラアナの師匠でもある。彼を戦場に送らなかったのは、リヴネリーアの守りが減ることを避けるためだった。
ただアヴレークは今、情報が欲しくて彼を呼びつけたわけではない。
「はいはい、我が叔父上様ですねぇ。で、どちらへ?」
「バシレイア軍の本陣」
さらりと答えたアヴレークの言葉に、シアルゥがその細い目を
敵地である。不法侵入である。ただ、だからどうしたというものだ。身分を笠に着るようでどうかとは思うものの、そうそうアヴレークに対して何かを言える人間はいない。言えるとすればリヴネリーアとルシェくらいのものだろうが、彼女たちに知られなければそれで良いのだ。
「正気ですかぁ?」
「正気だよ、僕はいつだって。狂ったことは一度もない」
それこそ狂ってしまった方が良かったと思うことがあったとしても、いつだって正気だ。いっそ狂気に呑まれてすべてを殺し尽くしていれば、こんなことにはなっていないのかもしれない。
ただただ柔和な笑みを浮かべて、笑顔の仮面でアヴレークは世界を
「行くぞ、リノケロス・エクスロスに会う。腕一本分の見舞いの品くらいは、彼にくれてやらないとね」
やれやれとでも言いたげにシアルゥが首を横に振る。
早くしろとばかりに彼を見れば、分かりましたよぉとシアルゥは渋々口にして、黒い羽を舞い上がらせた。
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