9 宿泊地の小さな攻防
エクスロス領には山が多いせいだろうか、戦地となっていたクレプト領よりも日が落ちるのが早い気がした。
太陽は
「ルシェ、お前今晩はどうする」
「野宿をしようかと。今からなら野営の準備にも困らない」
「はあ?」
ハイマは彼女への問いかけを、食事は何が食べたいか、あるいはどこに
この顔は、反応を見て何か間違ったことには気づいたが、かといって何がダメだったかわからず戸惑っている顔、だ。まだ浅い付き合いだが、その辺りは何となく分かる。
二人の認識の違いに関しては、お互いの背景が違うのだから仕方がない。どれほど
「よしわかった。俺が悪かったな」
仕事を終えた人々が家路を
そんな中で端の方とはいえ、
「メシは、何が食いたい」
「別に……食べなくても大丈夫だが……携帯食料は、あるし」
小さな声でもごもごとそんなことを言うルシェに、ハイマは思わず
案内されている立場の者は目いっぱいもてなされるというのが、ある種の
だがこれはバシレイアでの
そもそもこちらの食べ物は何があるのかなど、ルシェは知らないだろう。これと答えようがないに違いない。都合よくそう
「俺の家か、宿屋か、どっちに泊まりたい?」
「だから野宿でいいと……」
「俺も野宿か? 自分の領地で?」
「いや、貴殿は家に帰れば……いい、の、では……」
だんだん声がか細くなっていくのは、自分が無茶を言っている自覚があるからか、それともハイマが自覚している以上に
ハイマから何らかの危害があることを警戒して、野宿をと言っているわけではどうもなさそうだ。どちらかと言えば、ハイマの提示した選択肢の意味が分からないという
鴉として生きてきたルシェのこれまでの人生など知る
今
「よし、わかった。宿に泊まるぞ」
「は? どうしてそうなる?」
「俺の家でもいいんだが、ちょっとややこしいのがいてな……」
さあついてこいと歩き出すと、流石に一人で離れて野営地を探す気はないのかルシェは大人しく後をついてきた。馬の
一番エクスロスの屋敷に近い街なので、ほとんどの住民が顔見知りだ。ちらほら投げかけられる
今からエクスロス家に向かってもいいのだが、突然の訪問なので丁寧なもてなしができない。ルシェはそんなもの不要だと言うだろうが、そこは
おまけにハイマとリノケロスが不在の今、家のかじ取りをしているのはハイマの実弟と異母姉だ。実弟はともかくとして、異母姉は大変気難しく面倒な性格をしている。この世で唯一リノケロスしか、彼女の
万が一異母姉がルシェと
一族の人間を統率しきれていないというのは恥ずべきことであるので、ハイマはその辺りの事情を詳しくは話さなかった。だが、ふと
(兄さんの結婚、大丈夫か……?)
リノケロスがあの年まで独身を貫いたのには、一つには異母姉の存在があるのだろう。勝手ながらハイマはそう思っていた。
だがハイマが知っているだけでも、いくつか縁談自体はあったのだ。最近ではあの妹がいるのならと
なぜなら誰も彼も兄に相応しくないと、異母姉が
(……兄さんに任せよう。)
結局ハイマが何をどう考えたとて、異母姉はリノケロスの言うことしか聞かない。ここで他の人間がどれほど気を
ハイマは気を取り直して、とぼとぼ付いてくるルシェを振り向いた。足取りは重いものの、背中を丸めてしまうということはないらしい。
「よし、ここだ」
立ち止まったのは街の外れにあるこぢんまりとした宿屋の前だった。他領地の貴族がなんらかの理由で泊まりに来た場合、大抵は屋敷に泊まるための部屋を用意してそこに宿泊する。そのため貴族御用達の高級宿屋なんてものは、ほとんど存在しない。
ヒュドール領やニュクス領などの旅行や長期の
「行くぞ」
「いや、その、本当にいいんだが……」
「いいから」
ここまで来てまだ野宿したそうに後ろを振り向いているルシェを引っ
「おっさん。二部屋空いてねぇか」
「おや、坊っちゃん。一部屋じゃなくていいんで?」
「そういうのはもういいから」
おっさんなどと呼んだが、
ハイマがまだ片手で数えられるぐらいの年頃の頃からここで宿屋をしている男で、幼少期はよく怒り狂ったリノケロスからの
「食事はどうします?」
「後で二人分を俺の部屋に運んでくれ」
二部屋分の鍵を受け取って、ルシェを
彼女は本当にこういった場所に慣れていないのだろう。
「慣れないか」
「ああ……基本的に城にいるか野宿だから」
「休める時にしっかり休むのも仕事のうちだぞ」
「それはそうだが……」
仕事の能率を上げるためにもそうしたことには厳しそうなルシェだが、案外そうでもないのかも知れない。
なんとなくおかしくなって、ハイマは肩を震わせた。何かを笑われていると気づいたルシェが少しむっとした顔をして、けれど何も言うことなく顔を
部屋は二階で、隣同士だった。一人用の部屋なのでこぢんまりとしている。鍵を使って部屋を開け中へ
まるで警戒心の強い子猫が初めて訪れた部屋に足を踏み入れる時のような姿である。彼女の小柄さも
「わからないものは?」
「大丈夫だ」
部屋の使い勝手は大丈夫かという意味を込めて聞いたが、ルシェが即座に首を横に振った。全て分かるというわけではなく、何も使わないから大丈夫なのだということは、流石にハイマにも察しがついた。
だが不要だと言うものを無理やり使わせるわけにもいかない。
「これから風呂に入って、メシだ」
逆でもいいのだが、一日中領地を案内したので色々なものに
また、ルシェが
「先にメシがいいか?」
「いや、それはどちらでも……」
ぼそぼそと
仮面の下はこれほど
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