9 宿泊地の小さな攻防

 エクスロス領には山が多いせいだろうか、戦地となっていたクレプト領よりも日が落ちるのが早い気がした。

 太陽は徐々じょじょに高さが低くなり、岩山の向こうへと姿を消す準備をしている。この時間になってしまってはオルキデへ戻るのも厳しいだろうと思い、ハイマは隣にいるルシェに声をかけた。


「ルシェ、お前今晩はどうする」

「野宿をしようかと。今からなら野営の準備にも困らない」

「はあ?」


 ハイマは彼女への問いかけを、食事は何が食べたいか、あるいはどこにまりたいか、という意味で投げかけた。だが、ルシェからはとんでもない方向の返事が返ってしまう。思わず眉間みけんしわを寄せて聞き返すと、彼女は少しばつの悪そうな顔をした。

 この顔は、反応を見て何か間違ったことには気づいたが、かといって何がダメだったかわからず戸惑っている顔、だ。まだ浅い付き合いだが、その辺りは何となく分かる。

 二人の認識の違いに関しては、お互いの背景が違うのだから仕方がない。どれほど粗野そや庶民的しょみんてきでも貴族として育ってきたハイマと、鴉として生きてきたルシェとでは常識が違うのだ。文字通り、育ちが違う。


「よしわかった。俺が悪かったな」


 仕事を終えた人々が家路を辿たどりながら買い物をする。周囲には人通りが増え、どこかの屋台からは良い香りもただよってきている。夕食を買い求める客の気を引くための威勢いせいのいい声も聞こえつつあった。

 そんな中で端の方とはいえ、往来おうらいで向かい合わせに立ち尽くす男女はさぞ異様な光景だろう。ハイマは問いかけが通じなかったことを、国の文化が違うのだということにして無理やり自分を納得させた。自分が悪かったという結論を出し、今度はもっとくだいたものを提示してみる。


「メシは、何が食いたい」

「別に……食べなくても大丈夫だが……携帯食料は、あるし」


 小さな声でもごもごとそんなことを言うルシェに、ハイマは思わず溜息ためいきいた。

 案内されている立場の者は目いっぱいもてなされるというのが、ある種の礼儀れいぎだ。それは勿論もちろん、厚かましくなりすぎてもいけないが。ただ遠慮えんりょしすぎても、貴方のほどこしは受けないというような意味合いに聞こえてしまってかえって非礼となる。

 だがこれはバシレイアでの慣例かんれいであり、オルキデから来たルシェが無理にならう必要はない。ハイマも分かっているから、つつきまわして彼女を困らせることはしなかった。

 そもそもこちらの食べ物は何があるのかなど、ルシェは知らないだろう。これと答えようがないに違いない。都合よくそう解釈かいしゃくすることにして、ハイマは次の問いを放った。


「俺の家か、宿屋か、どっちに泊まりたい?」

「だから野宿でいいと……」

「俺も野宿か? 自分の領地で?」

「いや、貴殿は家に帰れば……いい、の、では……」


 だんだん声がか細くなっていくのは、自分が無茶を言っている自覚があるからか、それともハイマが自覚している以上にけわしい顔をしているせいなのか。すっかりうつむいてしまったルシェの黒いつむじを見下ろしながら考える。

 ハイマから何らかの危害があることを警戒して、野宿をと言っているわけではどうもなさそうだ。どちらかと言えば、ハイマの提示した選択肢の意味が分からないという雰囲気ふんいきである。

 鴉として生きてきたルシェのこれまでの人生など知るよしもないし、おそらくこれからも知る機会はないだろう。だが、どんな人生を送ってきてどんな価値観をしていようとも関係ない。

 今此処ここで、このエクスロスの地の当主はハイマなのだ。


「よし、わかった。宿に泊まるぞ」

「は? どうしてそうなる?」

「俺の家でもいいんだが、ちょっとややこしいのがいてな……」


 さあついてこいと歩き出すと、流石に一人で離れて野営地を探す気はないのかルシェは大人しく後をついてきた。馬の手綱たづなを引いて道を歩くと、すれ違う人々が会釈えしゃくしたり手を振ったりしてくる。

 一番エクスロスの屋敷に近い街なので、ほとんどの住民が顔見知りだ。ちらほら投げかけられる揶揄からかいの声には適当な応答をしつつ、ハイマは町のはずれを目指した。

 今からエクスロス家に向かってもいいのだが、突然の訪問なので丁寧なもてなしができない。ルシェはそんなもの不要だと言うだろうが、そこはまねくハイマ側の気持ちとして、満足にもてなせないのは気持ちがよくない。

 おまけにハイマとリノケロスが不在の今、家のかじ取りをしているのはハイマの実弟と異母姉だ。実弟はともかくとして、異母姉は大変気難しく面倒な性格をしている。この世で唯一リノケロスしか、彼女の手綱たづなを握れない。

 万が一異母姉がルシェと遭遇そうぐうして、妙なことを言って彼女を怒らせようものなら講和そのものが白紙になりかねない。それはハイマとしては避けねばならないことだった。あらかじめそれを言い含めて何も言わないようになどと伝えようものなら、火に油を注いで火種を投げるようなものなので口をふさぐこともできないという有様だ。

 一族の人間を統率しきれていないというのは恥ずべきことであるので、ハイマはその辺りの事情を詳しくは話さなかった。だが、ふと一抹いちまつの不安が過ぎる。


(兄さんの結婚、大丈夫か……?)


 リノケロスがあの年まで独身を貫いたのには、一つには異母姉の存在があるのだろう。勝手ながらハイマはそう思っていた。勿論もちろんリノケロス自身がそれを口に出すことはないが、異母姉という厄介者やっかいものの存在を押しのけてまで結婚したい相手がいなかったのは本当だろう。

 だがハイマが知っているだけでも、いくつか縁談自体はあったのだ。最近では妹がいるのならと嫌厭けんえんされがちであるが、広まっていなかった頃には確かに話はあった。それはハイマの記憶違いではない。

 なぜなら誰も彼も兄に相応しくないと、異母姉がえているのを遠巻きに見ていた記憶が脳裏のうりにこびりついているからだ。ならばどんな相手なら相応ふさわしいのだと問うことは、とてもハイマにはできなかった。


(……兄さんに任せよう。)


 結局ハイマが何をどう考えたとて、異母姉はリノケロスの言うことしか聞かない。ここで他の人間がどれほど気をんでも、リノケロスが何かしない限りはどうにもならないのだ。それなら胃を痛めるのはやめて、最初から丸投げしてしまうのが賢い方法である。

 ハイマは気を取り直して、とぼとぼ付いてくるルシェを振り向いた。足取りは重いものの、背中を丸めてしまうということはないらしい。


「よし、ここだ」


 立ち止まったのは街の外れにあるこぢんまりとした宿屋の前だった。他領地の貴族がなんらかの理由で泊まりに来た場合、大抵は屋敷に泊まるための部屋を用意してそこに宿泊する。そのため貴族御用達の高級宿屋なんてものは、ほとんど存在しない。

 ヒュドール領やニュクス領などの旅行や長期の休暇きゅうかで訪れるような場所には相応の宿屋が用意されているが、エクスロス領にあるのはキャラバンが泊まるためだけのただの宿屋だ。その中でも、ハイマがよく知っている宿屋にルシェを連れてきた。


「行くぞ」

「いや、その、本当にいいんだが……」

「いいから」


 ここまで来てまだ野宿したそうに後ろを振り向いているルシェを引っつかんで、宿へ入る。他国の人間を案内したのに野宿させて帰したとあれば、さすがに外聞がいぶんが悪すぎた。

 もっとも理由はそれだけではなく、もっとルシェが喜んでいるところを見たいという、ハイマの個人的な感情も多分にふくまれてはいたが。その顔にほとんど浮かぶことのない笑顔を、もっと見たかった。


「おっさん。二部屋空いてねぇか」

「おや、坊っちゃん。一部屋じゃなくていいんで?」

「そういうのはもういいから」


 おっさんなどと呼んだが、白髪しらが混じりの髪に白いひげたくわえた男は、どう控えめに見てもおじいさんだ。だがおじいさんと呼ぶと烈火のごとく怒るので、ハイマは仕方なくおっさん呼びをしている。

 ハイマがまだ片手で数えられるぐらいの年頃の頃からここで宿屋をしている男で、幼少期はよく怒り狂ったリノケロスからの避難先ひなんさきとして利用していた。おかげで宿屋の主人も当主になって随分ずいぶん経つと言うのに、まだハイマを昔と同じ坊ちゃんという呼び方で呼ぶ。


「食事はどうします?」

「後で二人分を俺の部屋に運んでくれ」


 二部屋分の鍵を受け取って、ルシェをうながす。物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回しているルシェは、どうにも落ち着かない様子だ。

 彼女は本当にこういった場所に慣れていないのだろう。


「慣れないか」

「ああ……基本的に城にいるか野宿だから」

「休める時にしっかり休むのも仕事のうちだぞ」

「それはそうだが……」


 仕事の能率を上げるためにもそうしたことには厳しそうなルシェだが、案外そうでもないのかも知れない。

 なんとなくおかしくなって、ハイマは肩を震わせた。何かを笑われていると気づいたルシェが少しむっとした顔をして、けれど何も言うことなく顔をそむけた。

 部屋は二階で、隣同士だった。一人用の部屋なのでこぢんまりとしている。鍵を使って部屋を開け中へうながしてやると、ルシェが恐る恐る入ってきた。

 まるで警戒心の強い子猫が初めて訪れた部屋に足を踏み入れる時のような姿である。彼女の小柄さも相俟あいまって、余計にそう見えた。


「わからないものは?」

「大丈夫だ」


 部屋の使い勝手は大丈夫かという意味を込めて聞いたが、ルシェが即座に首を横に振った。全て分かるというわけではなく、何も使わないから大丈夫なのだということは、流石にハイマにも察しがついた。

 だが不要だと言うものを無理やり使わせるわけにもいかない。一先ひとまずは宿で一泊してくれるだけでも譲歩じょうほだろう。


「これから風呂に入って、メシだ」


 逆でもいいのだが、一日中領地を案内したので色々なものにまみれている。そのままで食卓に付くのは少し躊躇ためらわれた。

 また、ルシェが怪訝けげんそうな顔をする。


「先にメシがいいか?」

「いや、それはどちらでも……」


 ぼそぼそとつぶやくルシェは戦場でのあの勇姿はどこへやら、すっかり借りてきた子猫だ。馴染なじめないとその顔に書いてある。

 仮面の下はこれほど如実にょじつに感情が出るものかと思うと、ハイマは愉快ゆかいでたまらなかった。吹き出しそうになるのをこらえながら、ハイマはルシェの背中を押して風呂場へと連れて行ってやることにした。

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