8 エクスロスという領地
エクスロス領とオルキデは、地図上で見れば国境を接してはいる。しかしオルキデから直接エクスロス領へ入ることができないのは、かつて大蛇が尾を振り下ろした際に
その断崖絶壁は
ごつごつとした岩場の続く大地は少しだけ歩きにくい。一応道というものはあるが、それは岩場を
「どうした?」
「いや……
ひょいひょいと慣れた様子でハイマは歩いて行く。鴉も別段突っかかるというわけではないが、気を付けていないと岩場に足を取られて転びそうだ。
つんと鼻についた臭いは、
「しかし、良かったのか」
「何がだ?」
「兄君だ。まさかたった一度で了承されるとは思わなかった」
ファラーシャは
彼女が何かしたのだろうか、とも思う。ファラーシャは見た目こそたおやかで優しげであるが、その実中身は
「俺も少し意外ではあったけど、まあ……女性への
「そういうものか」
だからといって異国から
少し遠くを
慣れない暑さに体力が奪われるような気がして、鴉は
「と、この辺りからなら
ようやく目的地に
攻め込む場所を考えるつもりであったのならば、どうするつもりなのか。見た限りそう簡単に攻め込める場所ではないし、この領地に入ろうと思うのならばおそらく道は一か所しかない。そう考えれば案内してしまっても
「……これは、
見慣れない光景に、鴉は目を丸くする。
美しいと言うような景色ではない。
鴉の隣で、ハイマがからりと笑う。まるで己の領地を
「気に入ったか?」
「私が気に入るも気に入らぬもないだろう? ファラーシャが気に入るかどうかだ」
社交辞令であろう問いかけに、本当ならば鴉も社交辞令で「気に入った」と返答すべきだっただろうか。けれど考えるよりも前に
どうせ鴉は講和が
自分がどんな顔をしていたのか鴉には分からないが、振り
「じゃ、街の方に行くか。エクスロスの屋敷の周りは馬じゃねぇと入れないが、街は馬車も入れる」
「ファラーシャは乗馬が得意だぞ?」
「はは、馬車が入れないことに文句を言うヤツもいるんだ」
そういうものかと、鴉は首を
馬に乗れないのならば歩けばいいというのは、鴉が勝手に思っていることである。言ってしまえば鴉も馬には乗れないし、訓練すらしたことがない。やってみれば乗れるのかもしれないが、やってみたことすらなかった。
そもそも国内であれば、移動は影を伝えば事足りる。流石に加護というものがない外の国では人前で使うのが
エヴェンやラアナは馬に乗れたはずだ。それは彼も彼女も乗馬の教育を受けたことがあるからに他ならない。
「お前、馬は」
そんなことを考えていたせいだろうか、考えたことを言い当てるようにハイマに問われた。え、と一瞬口を開けて固まり、それを
馬に乗れないということを恥じるのは、貴族だけだ。鴉は貴族ではないのだし、特別恥じるようなこともない。
「乗れない。昔閣下に乗せて貰ったことはあるが、それきりだな」
それこそ鴉になるより前、アヴレークに
本当に幼い頃であり、立場というものも分かっていなかった。それが赦されていた頃だった。そういえばあれば鴉にならざるを得なかった時の直前くらいだったなと、嫌なことまで思い出す。
ハイマは少しだけ意外そうな顔をしていて、けれどすぐにまた笑顔になる。鴉よりも七つほど年上のはずだが、そうして笑っていると少年のようだった。
「じゃあ、乗せてやるよ」
「……何故?」
「乗れねぇなら、人に乗せてもらうしかないだろ?」
それはそうかもしれないが、どうしてそんなことになったのか。
よく分からないがそんなことを話しながら、鴉はハイマと共に岩場を下っていく。街までは馬で三十分くらいかかるのだというハイマの言葉に、だからかと得心がいった。
そもそもエクスロス領へ来るのに馬を使っていないのだから、鴉は馬を持っていない。エクスロス家が馬を持っていないはずもないので、乗れると言えばその中の一頭を貸してくれる予定だったのだろうか。
整えられた道ならば、ファラーシャも移動はできるだろう。そもそもカリサがついているのだし、彼女がなんとかする気がする。馬にも乗れるのだしこれならば心配はないだろうか。
「そういえば、兄君の部屋の階層は? 階段は
「あ、あー……最上階だな……大丈夫そうか?」
エクスロスの屋敷が何階建てなのかは知らないが、一応後で見せて貰う必要はあるかもしれない。今日中にオルキデに戻れるだろうかと時間を計算し、もし戻れなければどこかで野宿をすれば良いかと結論付ける。
ファラーシャは足が悪いからと言って、何も自分でしないというようなことはない。基本的なことは自分でするし、カリサもいる。特にリノケロスを
「大丈夫だろう、おそらくは。基本的に侍女がついているし、あちこち歩き回るような性格もしていない」
おとなしいかと言われれば確かにおとなしい。ただそれは部屋の中でのんびりしているという意味であって、その頭の中はおとなしくなどない。
常に何もかも計算
「悪いな」
「何がだ? 身分の高い人間の部屋など、上の階にあるのが普通だろう」
そんなものは当たり前だろうと告げれば、ハイマはどこか複雑そうな顔をしていた。
※ ※ ※
馬を三十分ほど走らせたところに、エクスロスで最も大きな街があった。ハイマの手を借りて馬から降り、人生二度目の馬上から解放されて鴉はひっそりと息を
そうして馬から降りたところで彼から手を差し出され、はてこれは何だろうかと鴉は少しばかり考える。そしてそれが女性に対する
「不要だ。そういう扱いはしなくていい」
「そうか」
気を悪くしただろうかと思ったが、慣れないのだから仕方がない。普通ならば立場上受け入れるべきものであるのだが、こうしてぽんと返してしまうということは
連れ立って街へ入れば、ハイマの姿に気付いた領民が「ご当主様」と次々に声をかけてくる。彼はそれに片手をあげて応じ、笑っていた。
領民に
「なんですご当主様、女性連れで……あ! ようやくですか!」
店先に立っていた男が「おめでとうございます」などと言っている。一体何の話だと鴉は首を傾げたが、次にかけられた言葉で納得がいった。
「ご当主様! デートですか!」
デート。デートってなんだ。男女が出かけることか。
ハイマは気にした様子もないが、流石に
「案内をしてもらっているだけだ。貴殿らの領主に良縁があると良いな」
けれどそうして慕われている様子がどうにも
思えば、外で笑ったのはいつぶりだろうか。そもそも鴉の仮面も被らずに外にいることが鴉にとっては異例のことであって、当然人前で笑うことなど普段はない。
こういう領主の下で生活ができる領民は幸せなのだろう。ただ上から押し付けて
「お前、そんな顔してる方がいいぞ」
「そうか」
そうは言われても、鴉にそれは難しい話である。
今だけだ、こんなものは。交渉をするための条件であるから、顔を
そうしてあちこちを見て回り、気付けば日は暮れていた。
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