6 他の方には内緒です

 本当のところを言えば、馬車は嫌いだった。ガタゴトと不規則に揺れるのは自分の体の制御ができていないような気持ちになる上に、どこへ連れて行かれるのか分からないような恐怖もある。今は目の前にカリサがいるから安心していられる部分はあるが、おそらくこれは幼いころにベジュワ侯爵家へ連れて行かれた記憶のせいなのだろう。

 たださすがに、顔合わせに馬でというわけにもいかなかった。シハリアにも馬車で行ってください姉上、と言われてしまっては否とは言えない。可愛い可愛い弟に言われると、ファラーシャはどうにも反論ができないのだ。


「顔合わせの場所が戦時中の本陣だなんて、面白いわよね。どんな場所なのかしら」


 アヴレークからの書状に書かれていた顔合わせの場所は、どこかの屋敷というわけでもない。馬車はひたすらにオルキデとバシレイアの国境へと向かい、荒地を進んでいく。

 荒地といっても一応はキャラバンの行き来によって踏み固められて整えられており、馬車の車輪が石に乗り上げてしまうだとか、そういうことはない。

 それでもやはり舗装された街道とは異なって、馬車の揺れは大きくともすれば跳ねる。足の力で体を支えられていられないファラーシャにとっては、やはり嫌いだとしか思えなかった。


「そこは普通お相手がどんな方か気になるところではないのですか、お嬢様」

「あら、そこを気にしても仕方ないでしょう? どんなお相手だろうと、私から『否』は言わないわ」


 それはファラーシャの本心である。相手がどんなであろうとも、ファラーシャが否を言うことはない。言えるはずもない。

 この政略結婚はある意味で、己の身を守るためのものでもある。ここで固辞こじしてベジュワ侯爵領へ戻ったとて、待っているのはシャロシュラーサからの再びのおどしか、あるいは命の危機なのだ。

 それならば相手がどんなであろうと、アヴレークの駒となって受け入れる方が良い。結局そういう計算であって、わが身可愛さなのだという自覚もある。我が事ではあるが、ある意味利用される相手に申し訳なくもある。


「無体を強いるような方でないと良いですね」

「その時はその時よ。あの時のことに比べたら、何もかも些細ささいなことだと思わない?」


 本気でそう思って告げたのに、カリサはほんの少しだけとはいえ顔をゆがめた。それからしばらく彼女は黙り込み、言葉を探しているかの様子だった。

 痛みも苦しみも、多分一生分経験したのだ。あれ以降そういうものは遠ざかってしまって、例えば転んでだらだらと血が流れようとも、ああ怪我けがをしたのだなと、そんなことしか思わなくなったのだ。むちで打たれようとも何があろうとも、痛いと思うこともない。

 そう考えれば己は立派な欠陥品けっかんひんだ。痛みというものが麻痺まひしてしまって、それはそれで都合が良いけれど。


「……然様さようですか」

「困らせてしまったかしら、ごめんなさいね、カリサ」

「いえ」


 そのようなことはと、カリサが首を横に振る。

 別に彼女を困らせるつもりで口にした言葉ではなかったのだ。ただずっとそれはファラーシャの中にあるものであって、この十五年間抱え続けたものでもある。


「でも、本当のことなのよ。あれこそ地獄じごくと言うのでしょう? 生きながら喰われる人、くずれる建物、目の前に牙をいたサンドリザード。私の目の前でお母様は首から上がなくなったわ。私は瓦礫がれきはさまれたおかげで生き延びただけ……この足一本と、引き換えに。私一人だけ、生き残ってしまったの」


 オルキデ固有の爬虫類はちゅうるいであるサンドリザードは、調教すれば騎獣きじゅうとして扱うことができる。けれど野生のサンドリザードというのは、ともすれば大災害を引き起こすものだ。

 それが十五年前、まだ十歳だったファラーシャも巻き込まれたサンドリザードの暴走である。サンドリザードは子供を奪われることを嫌い、何としても奪い返そうと襲い掛かって来る。十五年前のそれは、街に迷い込んだサンドリザードの子供を住人が殺してしまったことが原因となった。

 何人もの人がそこにはいたのに、生き残ったのはファラーシャだけだった。他の誰も生存者はなく、先代の大鴉が己の腕を犠牲にして暴走するサンドリザードを討って終わりを迎えたのだ。


「別に生き残ってしまったから何かをしなければならないだなんて、そんなことを言うつもりはないわ。けれどこうして命があるのなら、生き延びる方向に常にかじを切っても良いと思うだけなのよ」


 それは今、駒になることだった。どこの誰とも分からぬ相手にとつぐことであった。

 別にこんなものは悲愴ひそうな決意だとかそういうものではない。ただそういうものであると受け入れて、そうして生きていくだけのものだ。


「お嬢様」

「ふふ、なんて、冗談よカリサ。もうじき着くかしら。馬車の旅って本当につまらなくて、嫌ね」


 カリサの顔が、またゆがんだ気がした。今日は随分ずいぶんと表情を変えるのねなどと内心で思いながら、それが自分のせいだということには気付かないふりをした。

 目を閉じて、それでも揺れる。何の感慨かんがいがあるわけでもなく、ファラーシャはただ乾いた空気を吸い込んでいた。


  ※  ※  ※


 杖をつきながら案内された天幕に入れば、顔を合わせる相手は既にその中で待っていた。ファラーシャはオルキデの女性の中では背が高い方だが、それでも男のあごのあたりまでしか高さがなかった。

 カリサをどうしたものかとは思ったが、万が一の時に控えていて貰わなければ困る。許可は取るべきかと、ファラーシャは先に礼の姿を取った。

 杖があろうが何だろうが、見本のように完璧に。知略と礼節のバルブール、その名前と矜持きょうじにかけて。

 男の姿も、何にも興味はない。ただ片腕がないことだけは一瞬見えた袖口で把握はあくしたが、それをどうこう言うつもりもなかった。つい先日まで戦争をしていたのだ、そういうこともあるだろう。


「お初にお目にかかります、ファラーシャ・バルブールと申します。不躾ぶしつけながら初めに、私の侍女が同席することをお許しくださいませ。私は足がこの通りですので、彼女がいないと困りますの」

「構わない」


 低くはあるものの、ざらついてはいない声だった。どこか耳の中から染み入るような声は、つとめて荒くならないように紡がれたものだろうか。

 椅子をすすめられて、ファラーシャはそこに腰かける。カリサがするりと近付いてきて、ファラーシャの杖を預かって去っていく。


「リノケロス・エクスロスだ」


 二脚の椅子の間には、小さな机が一つ。果物くだものと水とが置かれているだけで、他には何もない。

 本当に顔を合わせるだけなのだから、これで終わっても良いくらいだ。けれどそれでは責任を果たしたことになるかもわからず、ファラーシャはただ黙って微笑ほほえむだけに留めた。

 リノケロスはファラーシャの様子を気にしている素振そぶりもなく、目の前の果物くだものつかんで口の中に放り込む。オルキデでは当然れないものだが、バシレイアのどこかではれるのだろう。


「食べるか?」

「ええ、いただきます」


 少なくとも食べていれば無言でもゆるされるかという打算も込みで、ファラーシャも目の前の果物くだものを手に取った。小さく割って口の中に入れれば、ほのかな甘みと共に瑞々みずみずしさが広がっていく。

 その味に、ふとほほゆるめた。オルキデにおいては贅沢品ぜいたくひんであるので、滅多に口にしたことはない。

 そうして食べ終えて、れた自分の指先を見て少しだけ考え込む。舐めるのは流石にはしたないかと思い直して、袖口そでぐちのところからハンカチを取り出して指先をぬぐった。


「この天幕というのは、外にどれくらい声が漏れるものですか?」

「……は?」


 リノケロスが若干いぶかしげに眉を上げた。何をするつもりかと思われたのかは分からないが、あまり大っぴらには言えないことを言うつもりでの問いでしかない。

 先ほどハンカチを取り出したのとは反対の袖口の裏、い付けておいた小さく畳んだ紙を取り出す。

 オルキデの衣服というのは袖口が広くなっているものが多く、こうしてい付けておけば案外色々と持ち運べるものだ。取り出した紙を机の上に置き、すべらせるようにしてリノケロスの方へと押しやった。


「私が帰ってからで構いませんから、信用できるとお思いになったらこちらをご覧くださいな」


 その場で握り潰されてもむ無しと思っていた。

 これはある意味で相手をはかるものではある。これをどうするのか、ファラーシャを信用するのかしないのか。別に開いてもらえるとは思っていなかったし、これで終わりとしても良かったのだ。

 だというのに、リノケロスは受け取ったそれを何の躊躇ためらいもなく開いていく。


「え……」


 広げた紙の上を、黄金色の視線がすべっていく。

 ざっと一通り目を通してから、リノケロスは顔を曲げて真っ直ぐにファラーシャを見た。

 この顔合わせで、初めてきちんと目が合った気がする。ファラーシャもまた、リノケロスの顔をきちんと見たのはこれが最初だ。


「これは?」

「この度の戦争に関して、エクスロス領でどのような噂になっているのかを調べさせていただきました。その内容と、あとは勝利を掴めなかった当主に対して不満を口にする方がいらっしゃったようですので、それを払拭ふっしょくする場合に流す噂と、流し方とを僭越せんえつながら」


 どうしても人の口に噂はのぼる。流れ始めてしまったものはどうしようもないが、他の噂をぶつけることで、ある程度の操作はできるものだ。

 地盤じばんをきちんと固めておく必要などないのかもしれないが、住民からの支持はあるに越したことはない。誰も彼もから好かれるなどという気持ちの悪い状態が望ましいわけではないが、少なくとも不満は少ない方が良い。

 だからほんの少しだけ、調べてみた。本当にそれだけなのだ。


虐殺ぎゃくさつ蹂躙じゅうりんを好む当主ではない、か」

「あら、違っておりましたか? そうだとしてもにしておく方が得策ですわ」


 今一度紙へと視線を落としたリノケロスが、もう一度ファラーシャを見る。その視線は鋭くて、並みの令嬢であったのならば悲鳴でも上げていたかもしれない。

 けれどファラーシャは、その視線を受け止めてゆるりと微笑ほほえんだ。

 ここでリノケロスがファラーシャを害したとて、彼には何一つとして得はない。むしろ停戦ということを考えれば、バシレイア側が不利になる。そういう目算もあって、ただいつも通りに笑って見せた。


「何故、こんなものを?」

「私自身を守るためです」


 オルキデにいると身の安全が保障されない。そんなことを告げるつもりはなかったが、これが事実なのである。

 ならばもう一つも渡して良いかと、もう一枚の小さく折り畳んだ紙も彼の方に押しやった。何の躊躇ためらいもなく手を伸ばしたリノケロスが、再び受け取った紙を開いていく。


「もう一つ、こちらも。こちらはエクスロス領内の火山で、噴火が発生しそうなものを調べたものです。ひとつ大規模な噴火が発生しそうなものがございますから、住民の避難ひなんを行ってくださいませ」


 エクスロス領は火山帯である。それは当然噴火というものがつきものだということだ。

 小規模な噴火ならばいざ知らず、大規模な噴火は人々の生活をおびやかしかねない。火山の噴火の予兆というものは、案外近くに住んでいる人々が知っている。その辺りに住む獣たちも知っている。

 ただその避難を先んじて領主ができたのならば、また支持はされるものだろう。これはそういう目算だ。


「私は、私の利用価値を示す必要はあるかと思いましたの。上手に利用してくださるのでしたら、どうぞ存分に利用してくださいまし」


 この政略結婚に必要なものは何か。

 ファラーシャが断られないためにできることは、己の利用価値を示すことだけである。それをうまく使えるかどうかは相手側のことであるが、少なくともできることの開示くらいは必要だ。

 何せ、足が悪い。ならばそれをおぎなえるくらいの価値はあると、そう示しておかなければならない。


「こんなものをどこから聞き出した?」

「人の口に戸は立てられませんし、鳥は見ているものですわ」


 ファラーシャはそれきり口を閉ざした。リノケロスはゆるく口の端を持ち上げて、笑みを浮かべている。その笑みの奥にある感情が何かなど読み取れるはずもなく、ファラーシャはただ静かに彼を見ていた。

 リノケロスは手にしていた紙を畳み、それを自分のふところにしまいこんだ。どうやら持ち帰ることに決めたらしい。


「ハイマには言うなよ。あいつは嫌がる」

「他の方にお伝えするつもりはございませんわ。大地の神サフラサカーに誓って、硬く口を閉ざすことをお約束いたします」


 人差し指を一本、口の前に立てる。

 これはファラーシャが駒となるために必要なものであり、結婚をするであろう候補に渡すのならばともかくとして、他の人間に渡す必要はない。

 バシレイアではどうか知らないが、オルキデではこうして自分が奉じる神の名に誓う。ベジュワ侯爵領は鍛冶かじと細工の土地ということもあり、鍛冶かじの神でもあるサフラサカーの主神殿がある土地だ。だからファラーシャも領民たちと同じく、サフラサカーに誓う。


「ですから、これは私と貴方様だけの秘密です。他の方には、内緒ですわ」


 まるで弟のシハリアにするような仕草ではあったが、リノケロスは気分を害した様子もなかった。彼はどこか愉快ゆかいそうに笑っていて、黄金色の双眸そうぼうからは鋭い光が消えていた。

 あれは、試されていたのだろうか。それならばそれで構わないけれど。そもそもつい先日まで争っていた敵国の人間なのだから、手放しで信用されるはずもない。


「俺が断って別の候補と顔合わせをするとなったら、同じことをするか」

「それは勿論。私は私の身を守らねばなりませんもの」


 別の相手が候補として現れるのならば、同じように。

 そう問うということは、リノケロスは断るつもりだろうか。おそらくオルキデの候補はファラーシャから変更されることはないだろうから、変更されるとすればバシレイア側だ。


「お断りするかは、お任せいたします。少なくとも私は『否』とは申しませんから。どうぞ、よしなに」


 それきり会話は途切れて、静寂せいじゃくだけが訪れた。

 次に顔を合わせるとすれば、誰だろうか。エクスロス領を調べたのは、ただこの戦争で総司令官となっていた領地だからだ。そういう場所の方が、戦争に関する噂は流れる。

 同じ情報を渡すわけにはいかない。次の手はどうするべきかと、ぐるりとファラーシャは思考を巡らせていた。

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