6 他の方には内緒です
本当のところを言えば、馬車は嫌いだった。ガタゴトと不規則に揺れるのは自分の体の制御ができていないような気持ちになる上に、どこへ連れて行かれるのか分からないような恐怖もある。今は目の前にカリサがいるから安心していられる部分はあるが、おそらくこれは幼いころにベジュワ侯爵家へ連れて行かれた記憶のせいなのだろう。
たださすがに、顔合わせに馬でというわけにもいかなかった。シハリアにも馬車で行ってください姉上、と言われてしまっては否とは言えない。可愛い可愛い弟に言われると、ファラーシャはどうにも反論ができないのだ。
「顔合わせの場所が戦時中の本陣だなんて、面白いわよね。どんな場所なのかしら」
アヴレークからの書状に書かれていた顔合わせの場所は、どこかの屋敷というわけでもない。馬車はひたすらにオルキデとバシレイアの国境へと向かい、荒地を進んでいく。
荒地といっても一応はキャラバンの行き来によって踏み固められて整えられており、馬車の車輪が石に乗り上げてしまうだとか、そういうことはない。
それでもやはり舗装された街道とは異なって、馬車の揺れは大きくともすれば跳ねる。足の力で体を支えられていられないファラーシャにとっては、やはり嫌いだとしか思えなかった。
「そこは普通お相手がどんな方か気になるところではないのですか、お嬢様」
「あら、そこを気にしても仕方ないでしょう? どんなお相手だろうと、私から『否』は言わないわ」
それはファラーシャの本心である。相手がどんなであろうとも、ファラーシャが否を言うことはない。言えるはずもない。
この政略結婚はある意味で、己の身を守るためのものでもある。ここで
それならば相手がどんなであろうと、アヴレークの駒となって受け入れる方が良い。結局そういう計算であって、わが身可愛さなのだという自覚もある。我が事ではあるが、ある意味利用される相手に申し訳なくもある。
「無体を強いるような方でないと良いですね」
「その時はその時よ。あの時のことに比べたら、何もかも
本気でそう思って告げたのに、カリサはほんの少しだけとはいえ顔を
痛みも苦しみも、多分一生分経験したのだ。あれ以降そういうものは遠ざかってしまって、例えば転んでだらだらと血が流れようとも、ああ
そう考えれば己は立派な
「……
「困らせてしまったかしら、ごめんなさいね、カリサ」
「いえ」
そのようなことはと、カリサが首を横に振る。
別に彼女を困らせるつもりで口にした言葉ではなかったのだ。ただずっとそれはファラーシャの中にあるものであって、この十五年間抱え続けたものでもある。
「でも、本当のことなのよ。あれこそ
オルキデ固有の
それが十五年前、まだ十歳だったファラーシャも巻き込まれたサンドリザードの暴走である。サンドリザードは子供を奪われることを嫌い、何としても奪い返そうと襲い掛かって来る。十五年前のそれは、街に迷い込んだサンドリザードの子供を住人が殺してしまったことが原因となった。
何人もの人がそこにはいたのに、生き残ったのはファラーシャだけだった。他の誰も生存者はなく、先代の大鴉が己の腕を犠牲にして暴走するサンドリザードを討って終わりを迎えたのだ。
「別に生き残ってしまったから何かをしなければならないだなんて、そんなことを言うつもりはないわ。けれどこうして命があるのなら、生き延びる方向に常に
それは今、駒になることだった。どこの誰とも分からぬ相手に
別にこんなものは
「お嬢様」
「ふふ、なんて、冗談よカリサ。もうじき着くかしら。馬車の旅って本当につまらなくて、嫌ね」
カリサの顔が、また
目を閉じて、それでも揺れる。何の
※ ※ ※
杖をつきながら案内された天幕に入れば、顔を合わせる相手は既にその中で待っていた。ファラーシャはオルキデの女性の中では背が高い方だが、それでも男の
カリサをどうしたものかとは思ったが、万が一の時に控えていて貰わなければ困る。許可は取るべきかと、ファラーシャは先に礼の姿を取った。
杖があろうが何だろうが、見本のように完璧に。知略と礼節のバルブール、その名前と
男の姿も、何にも興味はない。ただ片腕がないことだけは一瞬見えた袖口で
「お初にお目にかかります、ファラーシャ・バルブールと申します。
「構わない」
低くはあるものの、ざらついてはいない声だった。どこか耳の中から染み入るような声は、
椅子を
「リノケロス・エクスロスだ」
二脚の椅子の間には、小さな机が一つ。
本当に顔を合わせるだけなのだから、これで終わっても良いくらいだ。けれどそれでは責任を果たしたことになるかもわからず、ファラーシャはただ黙って
リノケロスはファラーシャの様子を気にしている
「食べるか?」
「ええ、いただきます」
少なくとも食べていれば無言でも
その味に、ふと
そうして食べ終えて、
「この天幕というのは、外にどれくらい声が漏れるものですか?」
「……は?」
リノケロスが若干
先ほどハンカチを取り出したのとは反対の袖口の裏、
オルキデの衣服というのは袖口が広くなっているものが多く、こうして
「私が帰ってからで構いませんから、信用できるとお思いになったらこちらをご覧くださいな」
その場で握り潰されても
これはある意味で相手をはかるものではある。これをどうするのか、ファラーシャを信用するのかしないのか。別に開いてもらえるとは思っていなかったし、これで終わりとしても良かったのだ。
だというのに、リノケロスは受け取ったそれを何の
「え……」
広げた紙の上を、黄金色の視線が
ざっと一通り目を通してから、リノケロスは顔を曲げて真っ直ぐにファラーシャを見た。
この顔合わせで、初めてきちんと目が合った気がする。ファラーシャもまた、リノケロスの顔をきちんと見たのはこれが最初だ。
「これは?」
「この度の戦争に関して、エクスロス領でどのような噂になっているのかを調べさせていただきました。その内容と、あとは勝利を掴めなかった当主に対して不満を口にする方がいらっしゃったようですので、それを
どうしても人の口に噂はのぼる。流れ始めてしまったものはどうしようもないが、他の噂をぶつけることで、ある程度の操作はできるものだ。
だからほんの少しだけ、調べてみた。本当にそれだけなのだ。
「
「あら、違っておりましたか? そうだとしてもそういうことにしておく方が得策ですわ」
今一度紙へと視線を落としたリノケロスが、もう一度ファラーシャを見る。その視線は鋭くて、並みの令嬢であったのならば悲鳴でも上げていたかもしれない。
けれどファラーシャは、その視線を受け止めてゆるりと
ここでリノケロスがファラーシャを害したとて、彼には何一つとして得はない。
「何故、こんなものを?」
「私自身を守るためです」
オルキデにいると身の安全が保障されない。そんなことを告げるつもりはなかったが、これが事実なのである。
ならばもう一つも渡して良いかと、もう一枚の小さく折り畳んだ紙も彼の方に押しやった。何の
「もう一つ、こちらも。こちらはエクスロス領内の火山で、噴火が発生しそうなものを調べたものです。ひとつ大規模な噴火が発生しそうなものがございますから、住民の
エクスロス領は火山帯である。それは当然噴火というものがつきものだということだ。
小規模な噴火ならばいざ知らず、大規模な噴火は人々の生活を
ただその避難を先んじて領主ができたのならば、また支持はされるものだろう。これはそういう目算だ。
「私は、私の利用価値を示す必要はあるかと思いましたの。上手に利用してくださるのでしたら、どうぞ存分に利用してくださいまし」
この政略結婚に必要なものは何か。
ファラーシャが断られないためにできることは、己の利用価値を示すことだけである。それをうまく使えるかどうかは相手側のことであるが、少なくともできることの開示くらいは必要だ。
何せ、足が悪い。ならばそれを
「こんなものをどこから聞き出した?」
「人の口に戸は立てられませんし、鳥は見ているものですわ」
ファラーシャはそれきり口を閉ざした。リノケロスはゆるく口の端を持ち上げて、笑みを浮かべている。その笑みの奥にある感情が何かなど読み取れるはずもなく、ファラーシャはただ静かに彼を見ていた。
リノケロスは手にしていた紙を畳み、それを自分の
「ハイマには言うなよ。あいつは嫌がる」
「他の方にお伝えするつもりはございませんわ。大地の神サフラサカーに誓って、硬く口を閉ざすことをお約束いたします」
人差し指を一本、口の前に立てる。
これはファラーシャが駒となるために必要なものであり、結婚をするであろう候補に渡すのならばともかくとして、他の人間に渡す必要はない。
バシレイアではどうか知らないが、オルキデではこうして自分が奉じる神の名に誓う。ベジュワ侯爵領は
「ですから、これは私と貴方様だけの秘密です。他の方には、内緒ですわ」
まるで弟のシハリアにするような仕草ではあったが、リノケロスは気分を害した様子もなかった。彼はどこか
あれは、試されていたのだろうか。それならばそれで構わないけれど。そもそもつい先日まで争っていた敵国の人間なのだから、手放しで信用されるはずもない。
「俺が断って別の候補と顔合わせをするとなったら、同じことをするか」
「それは勿論。私は私の身を守らねばなりませんもの」
別の相手が候補として現れるのならば、同じように。
そう問うということは、リノケロスは断るつもりだろうか。おそらくオルキデの候補はファラーシャから変更されることはないだろうから、変更されるとすればバシレイア側だ。
「お断りするかは、お任せいたします。少なくとも私は『否』とは申しませんから。どうぞ、よしなに」
それきり会話は途切れて、
次に顔を合わせるとすれば、誰だろうか。エクスロス領を調べたのは、ただこの戦争で総司令官となっていた領地だからだ。そういう場所の方が、戦争に関する噂は流れる。
同じ情報を渡すわけにはいかない。次の手はどうするべきかと、ぐるりとファラーシャは思考を巡らせていた。
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