5 駒
オルキデ女王国の南方に、ベジュワ侯爵領は広がっている。その土地の下には広いアメジスト鉱床が広がっており、あちらこちらに走る鉱脈からは多種の原石が採取できた。南側は海に面して主に群島諸島連合との貿易口になっているベジュワ侯爵領は、オルキデ女王国の中でも裕福な部類に入る。
ベジュワ侯爵領は
外には止まり木がいくつもある。鳥たちは鳴くこともなく、静かに止まり木に並んでいた。
ばさりと翼の音がして、ファラーシャのいる窓辺に一羽の
「あら……おかえりなさい、イフィルニ」
立てかけてあった杖を手にして、椅子から立ち上がる。
力は入るものの動かすことがままならない左足を恨むことはないし、十五年も経っていれば慣れもする。かつりと杖をつき、左足を引きずるような不格好な歩き方でファラーシャは窓辺へと歩み寄った。
ふるりと身震いをしたイフィルニに柔らかく微笑み、その足から書状を外してやる。杖がなければ立っていることもままならず、その場で書状を開くことはかなわない。もう一度こつこつと杖をついて、椅子に座り直した。
開いた書状の中、嫌味なほどに整った文字が
「カリサ」
部屋の片隅に影のように控えていた侍女の名前を呼んだ。
彼女は足音もなく静かにファラーシャへと近付いて、何でしょう、と平坦な声で言葉を紡ぐ。別段機嫌が悪いとかそういうことではなく、カリサは常にこうなのだ。
「閣下からの書状が届いたわ」
「
シャロシュラーサから行方知れずになっている人物の
彼女がその情報を何に使いたかったのかは分かっている。引き受けた以上は中途半端なことができるはずもなく、ファラーシャは結局得たすべてを彼女に伝えることになったのだ。
それが何を
「そのようね。良いのよ、どうせ露見すると分かっていたことだもの。あの方は口を閉ざしてはいられないでしょう? 我々とは違って」
知略と礼節のバルブール。
歴代の宰相を多数
杖を手にして再び立ち上がる。この書状はファラーシャのところだけで留めておいて良いものではない。
「……シィは?」
「先ほどは部屋におられたかと。お呼びしますか?」
「私が行くわ。今は勉強の時間でしょう?」
異母弟であるシハリアは、先日十五になったところだ。姉の欲目かもしれないが、シハリアはファラーシャよりも遥かによくできた頭を持っている。それでも彼は勉強を
カリサが少しだけ顔を歪めたのを、ファラーシャは見逃さなかった。いつもつんとした顔をして表情の読みづらいカリサであるが、さすがに十五年も付き合えば読み取れるものがある。
「閣下からの書状の内容が気になる?」
「気にならないと言えば嘘になりますが、口にしてよろしいのですか? いつもならば燃やしてしまわれるのに」
カリサは
確かにアヴレークからファラーシャへ個人的に依頼があるときの書状は、読んだらすぐに燃やしてしまう。けれど今回のそれは、依頼などではなかった。
「これはシィにも、お父様にも見せなければならないものだから」
「珍しいですね」
「ふふ。これは多分、閣下なりのお気遣いね」
かつりと杖をつけば、波打つ鉄の色をした髪が揺れた。結うこともなく流した腰まである髪は、その
外に出るということがあればカリサに結ってもらうが、今は家の中でのんびりしていただけだ。シハリアのところへ行くだけならば、
「講和に
笑みを浮かべてカリサを見れば、彼女は
ラベトゥル公爵が勝手にクレプト領主へした宣戦布告に
古今東西、国と国との約束事として
「それが気遣い、ですか」
「ええ。私がオルキデにいると、色々な意味で危険だからでしょうね――シャロシュラーサ様が、
シャロシュラーサの命令を聞いてしまったことの危険性を、ファラーシャは重々承知している。いっそ自らアヴレークに連絡を取り、保護を願おうかとも思っていたくらいだ。
シャロシュラーサとファラーシャを
「あとは戦争推進派の力を少しでも
女王と宰相にとって二つの公爵家が更に
ラベトゥル公爵家には娘が二人いるが、どちらも扱いやすいとは言えない。となれば同じ
「よろしいのですか?」
「あら、拒否権なんてないわよ、命令だもの」
とは言ったものの、ファラーシャはもとより拒否するつもりはない。
元々ろくなところには
その足の傷さえなければと、ファラーシャに聞こえるように
「それにどんな扱いであっても平気だわ。十五年前、この足が動かなくなった時の痛みと恐怖に比べたら、どんなことでも可愛いことだと思わない? この屋敷にいたってお
政略結婚という名前ではあるが、こんなものはていの良い人質だ。真っ当に扱われるとも思っていないし、
ただその政略結婚の意味さえ分かっていればいい。これは完全に講和のためのものであり、別に二国間の
人質になれ、何かあった時は死ね。そういうことであるとファラーシャは理解した。
「お嬢様がよろしいのでしたら、私からは何も」
「ふふ、ありがとう、カリサ」
けれど考えてみれば、このままオルキデに残っているよりはファラーシャの身の安全というのは
となると、ファラーシャはある程度己の有用性を示しておく必要はあるだろうか。捨て置くよりは利用する方が良いとでも思わせられれば、必要最低限のものは得られるかもしれない。
ファラーシャとしては、ただ静かに生活できればそれで良かった。ただ日々穏やかで、静かで、窓辺から降り注ぐ陽光の中で本でも読んでいられれば。
ある意味で貴族らしい願望なのかもしれない。平民はあくせく働いているというのにのんびりしていたいなど、何と
「貴女、ついてきてくれる?」
「
忠実な侍女は、
カリサはファラーシャがこの家に引き取られて、初めて父親が与えたものだった。十五年前、自由に動かせる足と同時に母親を失った。そうして一人になった後、自分が父親であると名乗り出て来たのがベジュワ侯爵だった。ファラーシャの目の色は間違いなくこの家のものであり、鉄色の髪も父親と同じ。母はかつてこの家の使用人で、父親が彼女に手を付けたことでファラーシャは生まれ落ちた。
「それなら、ついて来て
どこに行くにも、カリサがいるのならば心強い。
ぱらりと書状を開き、ファラーシャはもう一度内容を確認する。アヴレークの
それを確認し、ファラーシャは垂れ気味の目の
「顔合わせをするそうよ、珍しいこともあるものね。貴族の結婚なんて結婚当日に相手の顔を知ることだってあるのに」
「一応講和に関わることですから、
「お優しいことね。でも、そうね……それなら」
この政略結婚は講和のために。
アヴレークの考えが読めるわけではないが、どの程度の長さになるのだろうか。けれどこうしてファラーシャを指名したということは、少なくともシャロシュラーサとガドール公爵家からは守ろうという気があるということなのだろう。
彼らから守るために一番手っ取り早いのは、この国から出してしまうことなのだから。他国へと行ってしまえば、いくら公爵家とておいそれと手は出せない。
「
「どちらの情報を?」
かつりと杖をついた。窓の外には、多数の鳥。ベジュワ侯爵家の人間が調教し、あちらこちらにいる協力者へと飛ばして情報を集めるためのもの。
情報は宝である。人が秘めているものであれば
かんかんと規則正しい音がする。聞き慣れたこの音とも、お別れか。
「――バシレイア王国、エクスロス領」
ベジュワ領からならば、馬でも七日はかかるだろうか。
アヴレークの指定した顔合わせの日までにどれほどのものが集まるかは分からないが、それでも鳥たちならばその距離をもっと短い時間で飛べる。
彼らが
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