5 駒

 オルキデ女王国の南方に、ベジュワ侯爵領は広がっている。その土地の下には広いアメジスト鉱床が広がっており、あちらこちらに走る鉱脈からは多種の原石が採取できた。南側は海に面して主に群島諸島連合との貿易口になっているベジュワ侯爵領は、オルキデ女王国の中でも裕福な部類に入る。

 ベジュワ侯爵領は鍛冶かじと細工の土地でもあった。領主たるバルブールの屋敷にいても、窓の外からは鍛冶仕事のかんかんと鳴り響く規則的な音が聞こえてくる。窓の外から流れ込んでくる聞き慣れたその音を聞きながら、ファラーシャ・バルブールはその銅色の瞳を閉じた。

 外には止まり木がいくつもある。鳥たちは鳴くこともなく、静かに止まり木に並んでいた。

 ばさりと翼の音がして、ファラーシャのいる窓辺に一羽のタカが姿を見せる。茶色の体に黒いまだら模様のその鷹は、足に書状をくくりつけていた。


「あら……おかえりなさい、イフィルニ」


 立てかけてあった杖を手にして、椅子から立ち上がる。

 力は入るものの動かすことがままならない左足を恨むことはないし、十五年も経っていれば慣れもする。かつりと杖をつき、左足を引きずるような不格好な歩き方でファラーシャは窓辺へと歩み寄った。

 ふるりと身震いをしたイフィルニに柔らかく微笑み、その足から書状を外してやる。杖がなければ立っていることもままならず、その場で書状を開くことはかなわない。もう一度こつこつと杖をついて、椅子に座り直した。

 開いた書状の中、嫌味なほどに整った文字がおどる。


「カリサ」


 部屋の片隅に影のように控えていた侍女の名前を呼んだ。

 彼女は足音もなく静かにファラーシャへと近付いて、何でしょう、と平坦な声で言葉を紡ぐ。別段機嫌が悪いとかそういうことではなく、カリサは常にこうなのだ。


「閣下からの書状が届いたわ」

然様さようですか。シャロシュラーサ様の件が露見ろけんしましたか」


 シャロシュラーサから行方知れずになっている人物の行方ゆくえさぐるように言われたのは、数ヶ月前のこと。そんなことはできないとファラーシャは一度突っぱねたが、相手は王族である。異母弟でありベジュワ侯爵家の後継あとつぎであるシハリアの将来のことを言われてしまえば、ファラーシャはもうそれを突っぱねられなかった。

 彼女がその情報を何に使いたかったのかは分かっている。引き受けた以上は中途半端なことができるはずもなく、ファラーシャは結局得たすべてを彼女に伝えることになったのだ。

 それが何をもたらすのか、それは分かっている。だから対抗策となるものも集めておいたのだが、それはアヴレークに渡しておくべきだろうか。


「そのようね。良いのよ、どうせ露見すると分かっていたことだもの。あの方は口を閉ざしてはいられないでしょう? 我々とは違って」


 知略と礼節のバルブール。

 歴代の宰相を多数輩出はいしゅつしてきたベジュワ侯爵家に付けられた異名は、こうした情報収集能力に支えられてきたものだ。

 杖を手にして再び立ち上がる。この書状はファラーシャのところだけで留めておいて良いものではない。


「……シィは?」

「先ほどは部屋におられたかと。お呼びしますか?」

「私が行くわ。今は勉強の時間でしょう?」


 異母弟であるシハリアは、先日十五になったところだ。姉の欲目かもしれないが、シハリアはファラーシャよりも遥かによくできた頭を持っている。それでも彼は勉強をないがしろにすることはなく、勉強の時間を一度たりとも投げ出したことがない。

 カリサが少しだけ顔を歪めたのを、ファラーシャは見逃さなかった。いつもつんとした顔をして表情の読みづらいカリサであるが、さすがに十五年も付き合えば読み取れるものがある。


「閣下からの書状の内容が気になる?」

「気にならないと言えば嘘になりますが、口にしてよろしいのですか? いつもならば燃やしてしまわれるのに」


 カリサはだいだい色の瞳をまたたかせていた。

 確かにアヴレークからファラーシャへ個人的に依頼があるときの書状は、読んだらすぐに燃やしてしまう。けれど今回のそれは、依頼などではなかった。


「これはシィにも、お父様にも見せなければならないものだから」

「珍しいですね」

「ふふ。これは多分、閣下なりのお気遣いね」


 かつりと杖をつけば、波打つ鉄の色をした髪が揺れた。結うこともなく流した腰まである髪は、そのくせ相俟あいまってふわふわとしている。

 外に出るということがあればカリサに結ってもらうが、今は家の中でのんびりしていただけだ。シハリアのところへ行くだけならば、身支度みじたくも特に必要はない。


「講和にともなう政略結婚の駒になれ、だそうよ」


 笑みを浮かべてカリサを見れば、彼女は嘆息たんそくしていた。

 ラベトゥル公爵が勝手にクレプト領主へした宣戦布告にたんを発した戦争は、一先ひとまずの停戦を迎えていた。けれどそれもいつまでも続くとは限らず、再戦を望まないリヴネリーアとアヴレークは講和を結ぶことを急いでいるのだろう。時間がかかれば、ラベトゥルを筆頭とした戦争推進派のみならず、ガドールからも面倒な口出しをされることになる。

 古今東西、国と国との約束事として婚姻こんいんが使われることは珍しくもなんともない。


「それが気遣い、ですか」

「ええ。私がオルキデにいると、色々な意味で危険だからでしょうね――シャロシュラーサ様が、排除はいじょされない限りは」


 シャロシュラーサの命令を聞いてしまったことの危険性を、ファラーシャは重々承知している。いっそ自らアヴレークに連絡を取り、保護を願おうかとも思っていたくらいだ。

 シャロシュラーサとファラーシャを天秤てんびんにかけた場合、アヴレークはどちらに天秤を傾かせるのだろうか。三人の娘を平等に可愛がっているように見えて、その実彼女たちを見る目が完全に冷え切っているアヴレークは、娘可愛さに天秤を傾けたりはしないだろう。


「あとは戦争推進派の力を少しでもいでおこうという腹積もりでしょうね。お父様はラベトゥル公爵の腰巾着こしぎんちゃくをしているでしょう? 戦争推進派の土台を固める婚姻こんいんに私を使わせないこと、それから私の加護のこと、それもふくめてのお達しね」


 女王と宰相にとって二つの公爵家が更に権勢けんせいを増すのは望むところではない。貴族にとって関係性を強固にするための手っ取り早い方法と言えば婚姻こんいんで、そのためには年頃の男女がどうしても必要になる。

 ラベトゥル公爵家には娘が二人いるが、どちらも扱いやすいとは言えない。となれば同じ派閥はばつの誰かを駒にすることが一つの方法だ。


「よろしいのですか?」

「あら、拒否権なんてないわよ、だもの」


 とは言ったものの、ファラーシャはもとより拒否するつもりはない。

 元々ろくなところにはとつげないだろうという覚悟はしていたし、いっそどこにも行かずにシハリアの手助けをして一生を過ごそうかとも思っていたくらいだ。杖さえあれば歩けると言ったところで、結局のところ片足の動かない女など価値としては下がってしまう。

 その足の傷さえなければと、ファラーシャに聞こえるように溜息ためいきいたのは義母ははだった。肉体的に健常けんじょうであることが最も価値を高めると思っているのなら、それも一つの考え方だろう。その考えは決してファラーシャとは相容あいいれないというだけで。


「それにどんな扱いであっても平気だわ。十五年前、この足が動かなくなった時の痛みと恐怖に比べたら、どんなことでも可愛いことだと思わない? この屋敷にいたってお義母かあ様からは存在を無視されて、食事すら出てこないこともしばしばでしょう? 今更どんな扱いでも構いはしないわ」


 政略結婚という名前ではあるが、こんなものはていの良い人質だ。真っ当に扱われるとも思っていないし、かしずいて丁重に扱って欲しいとも思っていない。

 ただその政略結婚の意味さえ分かっていればいい。これは完全に講和のためのものであり、別に二国間のけ橋になれだとか、家同士のつながりを強固にするために子供を産めだとか、そんなことすらも求められてはいないのだ。

 人質になれ、何かあった時は死ね。そういうことであるとファラーシャは理解した。


「お嬢様がよろしいのでしたら、私からは何も」

「ふふ、ありがとう、カリサ」


 けれど考えてみれば、このままオルキデに残っているよりはファラーシャの身の安全というのは保障ほしょうされるのだ。何かあった時に死ねというのはつまり、その何かがあるまでは生かしておく必要がある。

 となると、ファラーシャはある程度己の有用性を示しておく必要はあるだろうか。捨て置くよりは利用する方が良いとでも思わせられれば、必要最低限のものは得られるかもしれない。

 ファラーシャとしては、ただ静かに生活できればそれで良かった。ただ日々穏やかで、静かで、窓辺から降り注ぐ陽光の中で本でも読んでいられれば。

 ある意味で貴族らしい願望なのかもしれない。平民はあくせく働いているというのにのんびりしていたいなど、何と傲慢ごうまんなことかと自嘲じちょうする。


「貴女、ついてきてくれる?」

勿論もちろんです。ファラーシャ様が来るなとおっしゃられない限りは」


 忠実な侍女は、いなと言うことはない。

 カリサはファラーシャがこの家に引き取られて、初めて父親が与えたものだった。十五年前、自由に動かせる足と同時に母親を失った。そうして一人になった後、自分が父親であると名乗り出て来たのがベジュワ侯爵だった。ファラーシャの目の色は間違いなくこの家のものであり、鉄色の髪も父親と同じ。母はかつてこの家の使用人で、父親が彼女に手を付けたことでファラーシャは生まれ落ちた。

 めかけにすらもなれない使用人の娘。それでもファラーシャが引き取られたのは、十五年前の当時シハリアは生まれておらず、ベジュワ侯爵家の後継ぎがいなかったからだ。そのすぐ後にシハリアが生まれたものの放り出されなかったのは、無駄に高い父と義母ははの貴族としての矜持きょうじのおかげだ。


「それなら、ついて来て頂戴ちょうだい。貴女がいるのなら、安心だもの」


 どこに行くにも、カリサがいるのならば心強い。

 ぱらりと書状を開き、ファラーシャはもう一度内容を確認する。アヴレークの筆跡ひっせきで書かれているのは顔合わせの場所と、日時。

 それを確認し、ファラーシャは垂れ気味の目のまなじりゆるめて柔らかく微笑ほほえんだ。元々優しげで柔和にゅうわな顔立ちが、更にやわらぐ。


「顔合わせをするそうよ、珍しいこともあるものね。貴族の結婚なんて結婚当日に相手の顔を知ることだってあるのに」

「一応講和に関わることですから、破綻はたんしないようにということでは?」

「お優しいことね。でも、そうね……それなら」


 この政略結婚は講和のために。

 アヴレークの考えが読めるわけではないが、どの程度の長さになるのだろうか。けれどこうしてファラーシャを指名したということは、少なくともシャロシュラーサとガドール公爵家からは守ろうという気があるということなのだろう。

 彼らから守るために一番手っ取り早いのは、この国から出してしまうことなのだから。他国へと行ってしまえば、いくら公爵家とておいそれと手は出せない。とついだ後に何かしようものならば、あっという間に国家間の問題になる。


手土産てみやげは必要よね、カリサ。シィに会った後で、鳥を使うわ。少し情報を集めましょう」

「どちらの情報を?」


 かつりと杖をついた。窓の外には、多数の鳥。ベジュワ侯爵家の人間が調教し、あちらこちらにいる協力者へと飛ばして情報を集めるためのもの。

 情報は宝である。人が秘めているものであれば尚更なおさらに。無駄に暴き立てるようなものではないが、握っておいて損はない。

 かんかんと規則正しい音がする。聞き慣れたこの音とも、お別れか。


「――バシレイア王国、エクスロス領」


 ベジュワ領からならば、馬でも七日はかかるだろうか。

 アヴレークの指定した顔合わせの日までにどれほどのものが集まるかは分からないが、それでも鳥たちならばその距離をもっと短い時間で飛べる。

 彼らがうらやましいなどとは思わない。ファラーシャはただあるがまま、この生を享受きょうじゅするだけなのだから。

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