4 一度目の話し合い
王都エクスーシアから文字通り
「はー……戻ってきた……」
どっと疲労感が押し寄せてくる。長距離を馬で駆けたせいなのか、それとも何度訪れても慣れないエクスーシア領に気疲れしたのか。
これで皇太后に
「総司令官殿。手紙が届いています」
ハイマの帰還に気付いて駆け寄ってきた兵士が知らせを伝える。手紙が来るようなことがあったかと一瞬考えこんだが、おそらくオルキデからのものだ。講和の条件を話し合うため、またバシレイア王国が講和に応じるか確認するために場を
その話し合いのことを考えれば、疲労で沈んでいた気持ちが少し浮上する。
「わかった。三人を集めてくれ。話がある」
「はっ」
頑張ってエクスーシアとの往復を走ってくれた愛馬を馬小屋に戻し、軽く手入れをしながら告げる。それを受けた兵士は、頭を下げて走っていった。
バシレイア軍では、戦時には自分の馬は自分で世話をするのが
自らの足であり、時には身を守る
「よしよし、
本当はもっとしっかり手入れをしてやりたいのだが、
元気そうな様子を見て満足そうに笑ったハイマは、ようやく自分の天幕へと戻る。総司令官の居場所を表す一番大きな天幕は陣地のど真ん中に建てられていて、おかげで馬小屋から天幕までが少し遠い。
「遅かったな」
「馬の手入れをしていた」
当然のように椅子は四つだ。一つ空けておくこともしていないので、そこに座るべきリオーノがいない事実は全員が完全に忘れることにしたらしい。
(もうちょっとゆっくりでもよかったんだが……。)
エクスーシアから帰陣して少し息をつきたかった、というのがハイマの本音ではある。だが今更解散は告げられないので、仕方なく用意されていた椅子に腰を下ろした。
置くべき場所がなかったのだろう、寝台の上に兵士が言っていた手紙が乗っている。手を伸ばしてそれを取ると、開封するよりも前に王都から持ち帰った紙をひらりと三人に見せた。
「王の許可は貰った。この講和、俺たちで全て
「ほお」
手を伸ばしてくるリノケロスに紙を手渡す。じっと空中に透かして眺めているあたり、
まったくもって心外である。
「あの女が良く許可したな」
皇太后のことをあの女などと言い放つのはエンケパロスくらいのものだ。カフシモが思わず天幕の外を
誰かに聞かれでもして、それが広まると面倒なことになるのだ。エンケパロスは一向に気にしていないようだが。
「皇太后には会ってねぇからな。俺が会いに行ったのは王だ」
王の許可をもらったというだけで皇太后の名前が出る。それが今のこの国の現状をよく示していた。
王は国の最高権力者であるが、彼に意思はほとんどない。彼の意思はいつだって皇太后の意見に左右される。ハイマが貰って来た全権委任の許可とて、皇太后の耳に入ればすぐに
「さっさと話を
「それがいい」
ようやくリノケロスが納得したらしく、ハイマに紙を返してきた。その紙は大事に保管しておくことにして、ハイマは次に届いていた手紙の封を切った。
案の定、中身はオルキデからだ。上にバシレイアの文字を、下にオルキデの文字を連ねて書かれた手紙は、
「向こうもそのつもりだそうだ。早いうちに講和の条件を詰める」
「用意があるのなら、明日にでもやったらどうです」
「そうだな、そうしよう」
ハイマはカフシモの提案に
さて、何から決めるべきか。ハイマはぐるりと三人の顔を見渡して、ゆっくり口を開いた。
※ ※ ※
鴉の術は影を伝う。はっきりそうだと聞いたわけではないが、実際に使っているところを何度も見ればおよそ察しがつくというものだ。彼女がどういう手段で来るのか不明だったため、ハイマは陣地にほど近い岩場の影の手前でぼんやりと
早々に連絡を取り、翌日でという早急さで話し合いを決めたため、ハイマは少々寝不足だった。バシレイア側が提示したい講和条件が少し
それでも寝ぼけ
「ひゃ……」
「お。来たな」
どれぐらい
びくりと跳ねた姿が鳥の雛がひょこりと歩く姿を思わせて、少し面白かった。彼女は
「急な日程で呼び立てて悪かったな」
「いや。こちらもその方がありがたい」
バシレイア式の
ハイマは普通に歩いているつもりだったが、足音でルシェが小走りなことに途中で気付いて少し速度を落とす。
「話をするのは俺一人だ。構わねぇな?」
「ああ」
ふと、ハイマは陣地を見回した。誰かに顔を見られたくないがための仮面だとしたら、今こうして
ハイマが来たことで気を
中には椅子が向かい合わせに二つ、そして飲み物とちょっとした食べ物。
「オルキデ側の要望は?」
お互いが席に着くと、面倒な前口上なしにハイマは話題を切り出した。時間が惜しいのはどちらも同じだ。ぐだぐだと実のない世間話に
「こちらからは、講和の証としての
「なるほどな」
おおよそ想定の範囲内の要望であったことに、ハイマは
言ってきたということは、オルキデ側はある程度人選はしているのだろう。ならば、その相手の年齢に合わせてこちらの人間を選定してもいい。
望ましいのはこの戦争にかかわった四人のうちの誰かだ。その中で
「食料供給に関しては、減らすつもりはない。こちらとしても大事な取引だ」
長くなりそうな結婚の話を
オルキデ女王国と国境を近くするクレプトやデュナミスは、その領地で生産した食料の一部をキャラバン伝いに隣国へ流している。特にクレプトではそれは大事な資金源であり、この程度の戦争で減らすことは逆にクレプトの首を
エンケパロスはそれをよくわかっていて、昨夜の話し合いでも供給量は変えないと断言していた。
「だが、戦争で流石に
「それはわかっている。今まで通り、
バシレイアの補給庫が焼け落ちている以上、その代わりになる
賢い相手と話しているのは楽しいもので、ハイマは鼻歌でも歌いそうな気分だった。一方で、ルシェは当たり前だが固い顔をしている。もう少し和らげばもっと可愛らしい顔になると思うのだが、戦争の講和でにこにこと話し合っているのも場違いか。
不利な条件を飲むなよ、という昨夜の
飲まねぇよとハイマは即答したのだが、お気に入りだか知らんが妙な情に流されるなとエンケパロスには
ハイマがルシェを交渉相手に指名したことをどう受け取ったのか、エンケパロスからは酷く冷たい
「お前の言う通り、代わりの要求は値段だ」
「そうだろうな。どれくらいだ」
エンケパロスは、供給量を下げない代わりにこの戦争における被害を
領地の民が
「とりあえず、二割ほど。それを向こう一年間。どうだ」
「持ち帰らせてもらっても?」
「構わねぇよ」
永遠に値上げするとはさすがに言えない。それは当然、こちらだけが一方的に被害を受けたのではないからだ。バシレイア軍もオルキデ軍にそれなりの被害を与えており、更には負傷兵の
関係者と話すというルシェにハイマも
「それで、結婚の話だが。相手はお前じゃねぇんだよな?」
「違う」
そうだろうとは思っていたが、念のためにルシェではないことを確認をしておく。
「年齢や特徴は?」
「ああ……」
こういう相手だという釣り書きは持ってきていないらしい。どこかから
「年齢は二十五。足が悪いが、賢い女性だ」
「ほお。二十五か」
若いなとハイマは頭を
年齢的に一番近いのはおそらくカフシモだろう。だが、彼は
残っているのはリノケロスとエンケパロスの二人である、が。
「ううん……」
どちらも
バシレイアでは複数人の妻を持つことが当たり前なので、すでに妻がいるカフシモと結婚させても構わないのは構わない。だがしかし、仮にも講和のための政略結婚だ。それで嫁いでくる相手を二番手の扱いにするのは見栄えも聞こえも悪い。
「貴殿が結婚したらどうだ?」
「はあ? 俺が?」
「未婚だろう」
「そうだが、なんで俺が?」
きょとんとした二つの顔が見つめ合う。お互いに相手が何を言っているのかわかっていない顔だった。
微妙な沈黙ののち、ハイマが腹を抱えて笑う。
「ふっ、はははは!」
「な、なんだ?」
「お前も冗談が言えるんだな」
「冗談ではなかったんだが……」
はあ笑ったと、変な引きつり方をしている腹を
そんなハイマには、幸か不幸かルシェの
「どっちかを選ぶなら、リノケロス、かな……」
苦し気に名前を絞り出した。エンケパロスとリノケロスのどちらを選んでも少々人格に難があるが、まだましな方と言われたらリノケロスだろう。年齢的には十以上開きはあるが、貴族の結婚ならば珍しいことではない。
ハイマの異母兄でありエクスロス家の縁者となるため、人質同然となる女性を守ることも
「エクスロス領は岩場が多い。足が悪いと動きにくいかもしれねぇが、大丈夫か」
そういう意味では、平地の多いクレプト領に
だが、エンケパロスに丁重な扱いは期待できそうにもなかった。
「馬には乗れたはずだが、一度下見に行っても?」
「ああ、いいだろう」
軽く
「リノケロスには話しておこう。一度、顔見せの機会を」
「こちらも話しておく」
グラスに注がれていた水に口をつける。ふと、ルシェが全く手を出していないことに気が付いた。
彼女は警戒心が強そうだ。毒殺の危険性でも考えているのかもしれないが、こちらとて講和は望むところなのである。まして自分が指名して交渉している相手をどうして殺すことがあるだろう。
「毒はないぞ?」
そう言って
食べ物には手を伸ばそうとしないので、果物でも口に入れてやろうかとハイマは思う。だが昨夜のエンケパロスの冷たい視線を思い出して、背筋が冷えた。
「何か?」
「いいや」
知らない間にじっと見つめていたらしい。居心地悪そうにルシェが身動ぎした。
なんでもないと首を振って、視線を彼女から
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