3 『幸福』の城エフティフィア
戦場を馬で離れたハイマは、ようやくエクスーシアへと到達しようとしていた。
バシレイア王国の首都エクスーシアは華やかな街だ。かつてエクスーシアとして一つの国だった頃の名残をふんだんに残しているのは、それだけ争いが少なかったことの証明である。街のどこからでも見える巨大な城が、王とその一族が住む王城エフティフィアだ。
白い壁は塗られているのか、それとも白い石で作られているのか、どちらであるのかをハイマは知らない。言い伝えによれば、あの城は魔法で建てられたものだという。外観のわりに中に入れば奥行きがあり、見た目以上に広く感じるのも魔法でそういう仕掛けが
(どこまで本当なんだか。)
王城へと続く大きな橋を馬に
大体の物事には不思議はなく、理由がある。ハイマはそう思っている。
大勢の人が行き交ってもなお余裕がある大きな橋の両脇には、日銭稼ぎの大道芸人や物売りが声を張り上げて人々を呼び止めていた。ガタゴトと音を立てながら荷物を運ぶ馬車がハイマとすれ違う。ここしばらく戦場で過ごしていたせいで、どうにも自分が浮いているような気がした。
クレプト領の
争いごとから遠ざかって久しいエクスーシア領の住民には、血と砂に塗れたハイマはさぞ恐ろしく見えることだろう。
(こっからが長ぇんだ……。)
エクスーシア領内ならいざ知らず、王城の膝元の街では馬を走らせることは禁じられている。人が多いため、事故のおそれがあるからだ。
ここに至るまで全力で飛ばしてきたハイマには、かっぽかっぽと一歩ずつ進む歩みがもどかしくて仕方ない。苛立たし気に
『幸福』の城エフティフィア。遅々として一向に近付かない城の内情を裏切るその名は、一体誰が名付けたのか。まったく似つかわしくないその名前が、ハイマにとっては
「ハイマ・エクスロスだ。火急の用につき、陛下にお目通りを」
ようやくたどり着いた王城の門の前には、当然ながら兵士が立っている。普段は閉ざされている扉の前で
巨象でも通れそうな大きさの門が開くのは、エクスーシア一族が外出する時だけだ。それ以外の時には、こうして小さく開けやすい扉から出入りする。いっそ全員ここでいいではないかなどと思うのだが、そうはいかないらしい。まったく、くだらない。
「今、陛下はどちらに?」
「自分たちにはわかりかねます。執務室におられる時間ではありますが……」
「わかった」
王城の内部は広いが、普段ハイマら貴族が行くことのある場所は決まっている。会議を行う大広間、儀式や行事で使われる
執務室にいなければ、奥の方で母親と蜜月を過ごしているに違いなく、そうなると呼びだすのは非常に手間だ。まともに仕事をしてくれていることを願いながら、ハイマは執務室の扉を叩いた。
「誰だ?」
「ハイマ・エクスロスが参りました」
「入れ」
幸いなことに、部屋からは王の声がした。凛としてよく通る、聞こえのいい声だ。
この声だけを聞いていると有能な人物だという印象を受けるのだけれど。
「久しぶりだな。元気そうだ」
「おかげさまで」
内側から開かれた扉の中へ入ると、馬鹿みたいに大きな机を前にした王が穏やかに笑っていた。バシレイア王国は王国とは言えども王が絶対の存在ではない。各領地に自治権が与えられているので、王家への忠誠心などこれっぽっちも抱いていない家がほとんどだ。
ハイマとて敬うべき相手として認識はしていても、何が何でも王のために力を尽くさねばなどとは
「戦況はどうだ」
「そのことで、許可を得に来ました」
王にとって、クレプトの地での戦争はきっと遠い場所から聞こえてくる物語のようなものなのだろう。どこか楽し気に浅黄色の瞳を揺らす王に、ハイマは
そう愉快そうな顔をされるような実情ではないのだが、それを訴えても始まらない。
「許可?」
きょとんと首を傾ける王の仕草は、年齢よりも随分と幼い。母である皇太后に
「この戦争に関する全ての決定権を頂きたい」
ぱちくりと王がまた
このままそれが意味するところに何も気づかず
普段なら悪癖であるそれを、ハイマは今こそ
「それは構わんが、今更どうした?」
ハイマの思惑通りあっさり頷いた王に内心拳を突き上げる。
当然、表向きには平然とした顔だ。
「いえ。念のため、確認をと思いまして」
「そうか」
にっこりと笑う王は人好きのする顔をしている。民衆にも人気がある。
その外見のせいなのか、何もしないからなのかはハイマの知るところではないが。
「陛下、一筆
「ああ、いいぞ」
口約束だけでは、そそんなことは言っていないなどと
万が一、ハイマがよからぬことを考えていたらどうする気なのだろうか。あらゆることを排除され、母から慈しみだけを与えて育てられるとこうなるのかと、ハイマは我が身を戒めた。
「さあ、これでいい」
「ありがとうございます」
皇太后への口止めをしようかと一瞬思ったハイマだったが、どうせ無駄なことだと口を
王直筆の命令書は、たとえ皇太后でもそう簡単には
「では、これで」
そう思うと、時間が惜しい。
早々に部屋を辞すと、変わらずにこやかな顔で王はひらりと手を振った。
「ハイマ? お前、ここで何を?」
足早に王城を後にしようとしていたハイマの背中を、聞きなれた声が叩いた。
振り向いてもそこには誰もいない、ことはなく。
「よお、サラッサ」
視線を下に向けると、
丸みを帯びた
「お前、今下向いただろ」
「仕方ねぇだろ、小せぇんだ」
「平均! だから!」
きゃんきゃんと
「悪いが、急ぐんだ」
「少し耳を貸せ」
「は?」
そういえば、戻ってきたら話があるとかなんとか言われていた。命の削り合いのなかですっかり
上半身を曲げないと耳と口が近づかないことに対してサラッサが口をへの字に曲げたのが見えたが、無視して話を促すと彼は低い声でこう耳打ちした。
「皇太后が邪魔だと思わないか」
こんな、王城のど真ん中で話すようなことではない。思わずハイマは周囲を
確かに急いでいるからと部屋に腰を落ち着けなかったのはハイマだが、こんな場所で何を言うのか。黙って目線だけでサラッサを
よしんば誰かに聞かれていたところで気にならないのだろう。皇太后の悪口一つで飛ばせる首ではないと、自分の価値をよく知っている。
「今は、思わねぇな」
「そうか。残念だ」
サラッサの言葉に込められた誘いを正しく受け取って、それでもハイマは首を横に振った。
実害がない分にはどうあってくれていてもかまわないというのが、この国に生きている貴族の大半の意見だ。サラッサのように、積極的に目の上のたん
「気が変わったら教えてくれ」
サラッサが笑う。
王の笑みよりも、どうしてか冷めたものを感じる笑みだった。
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