1 招かれざる客

 戦地からの撤収の指揮をアスワドとリトファレルにたくし、鴉は早々にシュティカへと帰還していた。取り急ぎリヴネリーアとアヴレークには、ハイマが停戦を呑んだということを報告しなければならない。顔に触れて仮面がかかっていることを確認して、出された条件を思い返して溜息ためいきいた。

 尤もらしい理由は述べられて呑みはしたが、やはり鴉の中で渦を巻くのは「何故」という疑問である。顔も名前も知らない相手と交渉できないというのならば、相手に鴉など指名しなければいい。

 そうは思えども、呑んだものは呑んだのだ。最優先は停戦協議であり、鴉の個人的な疑問も釈然しゃくぜんとしない感情も表に出すようなものではない。

 ただそのルシェルリーオというというのが慣れないだけだ。大鴉というになって久しく、仮面を外すことすらも滅多にないのだから当然だろう。


「あ、ルシェおかえり」


 もう一度深々と溜息を吐いて鴉の巣の扉を開いた。そんなところへ飛び込んできたのは、間延びした声と執務用の机にぐたりと頬をつけている姿。

 一人で考え事をしようと思っていたというのに、完全にそれは不可能になった。


「……閣下、何故ここに」

「疲れただろうから、出迎えてあげようと思って」


 べたりと机につけていた頬を離して、アヴレークが立ち上がる。ぼさぼさの頭にぶかぶかの服、どう見てもだらしのないその姿はとても宰相には見えないものだ。完全に彼が私の状態であると察して、鴉は少しだけ呼吸が楽になったような気がした。

 ふと、鴉も口元に笑みを浮かべる。公でないのならば、そこまで気を張る必要もない。机の正面に立ち、アヴレークに向き直った。


「余計に疲れた気がします」

「まあそうつれないこと言わないでよ」


 立ち上がったアヴレークは当然鴉よりも背が高い。日頃からあまり体格の分からない服を着ているせいで分かりにくいが、その体付きはしっかりとしている。宰相ではなく騎士団長であると言われても、納得ができてしまうくらいには。

 そうして彼はぐるりと机の横を回り込み、執務用の机の上に今度は腰かける。そこは椅子ではありませんと言うべきか迷ったが、言ったところで意味はないかと鴉はその言葉を呑み込んだ。


「どうだった?」


 その問いの主語が何かは、分かっている。

 そもそも鴉が戻ってきたのも、どうなったかを伝えるためである。バラックが死んだという情報はすぐに雛鳥に届けさせたためとっくに知っているだろうが、その先はまだだ。


「停戦は呑んでいただけました。ただ、その」


 一番の目的であった停戦というものにはぎ着けた。細かい話はこれからだが、少なくとも今すぐに再戦ということはない。双方ともに兵を退き、ここからは武力ではなく話し合いで衝突しょうとつすることになるのだろう。

 鴉が言いよどんだのは、停戦協議に不安があるからではない。ハイマが出してきた条件が、どうにも伝え辛いものなせいだ。


「お前が交渉の席にけと、そう言われましたので」

「へえ?」


 アヴレークの口が弧を描く。ぼさぼさの前髪の下、にんまりと彼が目を細めているのも見えた。

 だから言いたくなかったのだ。どうせ後々には言わなければならないものだと分かっていても、この奇妙な条件をアヴレークが面白がるのは目に見えている。


「他には?」

「他、ですか」


 またも、言い辛いことを聞く。

 ハイマが鴉に言い渡した条件は三つあった。そのうちの一つが鴉が交渉の席に就くこと。それからあと二つ、どちらも鴉には理解し難い条件である。


「顔と名前を、さらせと。おそらく交渉の席では顔を晒していることになりそうで」


 本来大鴉には顔も名前もない。他の雛鳥や成鳥も、外から見れば皆同じ鴉だろう。女王の鴉というものはそういうものであり、そうなった時点で最早人間ですらないとも言える。

 影に沈み、夜に翔ぶ。ただひたすらに、女王のためだけに。

 だというのにハイマは鴉の顔と名前を必要とした。久方ぶりに紡いだ己の名は、自分のものであるはずなのにどこか他人のようでもあった。


「あ、はは、あはははは!」


 鴉の言葉に、アヴレークは体をくの字に折り曲げるようにして笑っている。何をそんなに笑うことがあるのかは知らないが、そのまなじりには最終的に涙まで浮かんでいた。

 鴉は冷めた目で、そんなアヴレークを見守っていることにする。どうせ今声をかけたところでまともな返答がないことは分かっているし、ならば落ち着くまで待っている方が良い。結果ひいひいとアヴレークが声を上げるまで待つことになってしまった。


「随分と気に入られたじゃないか、ルシェ」


 笑いすぎて腹が痛いとばかりにアヴレークは己の腹をさすっている。眦の涙をぐいと手の甲で握り、それでもまだ彼は笑いがこぼれて来ていた。

 何をしたせいで気に入られる結果になったのか、鴉には分からない。彼と互角に戦ってみせたせいか、それとも戦場で用いた計略か。


「笑い事ではありませんよ、閣下……どうするんです。当初の予定では閣下が交渉する予定だったでしょうに」

「いいよいいよ、そんなの。あちらがご指名ならば応えておくべきだろう?」


 アヴレークは笑って何でもないことのように言うが、鴉としては気が重い。そもそも鴉は情報収集が専門であり、表立って何かをすることの方が少ない。まして顔を晒しての交渉事など、これまでに一度もしたことがない。

 せめて仮面があればとは思うが、それをハイマは赦さないだろう。失望させるなと彼は言ったが、その線引きはどこなのか。


粗相そそうがあったらどう責任を取れば良いのかと、気が気ではありませんが」

「その時はその時だよ」


 アヴレークの返答がどこまでも軽くて、鴉はつい本人を前にして溜息を吐いてしまった。

 宰相然としている時とはあまりにもかけ離れた返答である。おそらくそうなった場合はアヴレークが出てきて何とかする腹積もりである、と信じたい。

 ぐるりと考え込んだ鴉を見てか、アヴレークがにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ついでに色仕掛けでもして、交渉を有利に運んでみるかい?」

「閣下、笑えない冗談はやめていただけますか」


 帰還して何度目になるか分からない溜息をまたも吐き出した。

 特段珍しい話でもないが、それを鴉に求めるのは間違っている。色仕掛けなど、鴉から最も縁遠いものではないか。それをさせたいのならば、ハイマが好みそうな女性を別で用意すればいい。鴉がしたところで一笑されて終わるだけだろう。


「私は鴉ですよ。誰が女扱いをすると言うんです」

「分からないだろう?」


 にやにやとアヴレークは笑っていて、揶揄からかわれているのだということを即座に察した。そもそも本気であるのなら、アヴレークは「やれ」と鴉に命じる。

 もっともそんな命令は無駄であるので、するはずもないのだが。鴉にそんなことができないのは彼も分かっていて、分かった上で口にしたのだ。


「閣下」


 心持ち冷えた声で呼べば、アヴレークは「冗談だよ」と肩をすくめた。そもそも言っても良い冗談と悪い冗談というものがあって、これは後者だ。鴉にと言うよりも、あまりにハイマに失礼ではないか。

 じとりと仮面の下からアヴレークを見ていると、彼は「ごめんってば」と苦笑していた。


「残念だなあ、ルシェはこんなに可愛いのにね」

「そうですか」


 当然ながら、アヴレークは鴉の顔も知っている。リヴネリーアに良く似た顔立ちはつまり、鴉の血縁関係を示すものである。

 けれどそんな血縁関係は、とうの昔にほうむられた。鴉が鴉となった瞬間に、鴉からその権利は取り上げられた。

 そうするしかなかった、というのもまた事実なのだ。そうでなければ鴉はきっと今頃、おりの中にいただろう。

 ふと、アヴレークがその顔から笑みを消した。鴉もまた口を閉ざす。誰かが扉の前に立った気配に息を殺し、その向こう側を二人してうかがう。

 こつこつと、扉を叩く音がした。


大鴉カビル・グラーブ、いらっしゃるかしら?」


 その声に、アヴレークが眉根を寄せた。彼は即座に机の上から降り、どうしますかと問うように彼の顔を見た鴉に対して首を横に振る。そして彼は口の前で人差し指を一本立て、机の後ろへと回り込んだ。

 するりと机の下へアヴレークが姿を消す。なんともお粗末な隠れ方であるし、そもそも宰相がそんなことをすべきではないのだろうが、彼は何も構わないらしい。

 自分はいないものとせよ、そういうことだ。鴉は呼吸を整えて、そして扉の方を見る。


「はい」

「入っても?」

「どうぞ」


 鴉が扉を開いてやるようなことはしない。どうせ声をかけてきた本人ではなく、連れているであろう侍女か護衛が扉を開けることだろう。

 待っていれば案の定、扉は開いた。その向こうにいた女性は扉に手をかけておらず、やはり誰か別の人間が扉を開けたらしい。

 吊り気味のまなじりに細い眉、その髪の色は赤茶色。きょろりとへき色の目が注意深く室内を見回した。かつりかつりと足音がするのは、かかとが高い靴をいているせいだろう。


「わたくし、貴女に聞きたいことがあって来たのよ、大鴉カビル・グラーブ

「何でしょう、シャロシュラーサ第二王女殿下」


 女王リヴネリーアにも、宰相アヴレークにも、どちらにも似ない顔。それでも彼女は王女、つまり彼らの娘である。第二王女シャロシュラーサは、どうしてだかつくづくと鴉を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。

 彼女の後ろには侍女が二人、護衛が三人。ぞろぞろと五人も引き連れて来たのかと、鴉は内心で呆れてしまう。これでは鴉と敵対しているようなものではないか。


大鴉カビル・グラーブ、いえ……ルシェルリーオ」


 鴉は思わず仮面の下で眉をひそめた。

 いくら彼女が王女であるとて、その名前の人間が大鴉であるということは知るはずもない。それを知っているのはリヴネリーアとアヴレークと、そしてアスワドだけなのだから。

 だというのに、彼女はどこか確信のある顔をしてその名を呼んだ。


「何の話でしょう」

「とぼけなくて良いわ、調べさせたもの」


 誰に。その問いをしそうになって、鴉は己のくちばしを閉ざす。

 鴉の来歴を調べることができる人間など、そう多くはいない。いくつか浮かび上がった候補の中、一体誰を使ったのかと考える。


「とぼけるも何も」


 そもそも、何のために此処ここに来た。何のためにその話をしに来た。

 ともかく鴉はそれを認める言葉を口にするわけにはいかない。ハイマの前で顔と名前を晒したのは、そうしなければ停戦を呑んでもらえなかったからだ。そうでなければ、鴉は顔も名前も晒さない。


「そのような名前のは、


 シャロシュラーサが憐れむような顔をした。そのような顔をされるようないわれはなくて、どうにも鴉は不愉快ふゆかいな気持ちになる。

 鴉になることは、己が選んだ。他に提示された道が絶望的だったからとか、そんなことを言うつもりもない。だからこそ、彼女に憐れまれるようなこともない。


「とぼけて貰っては困るのよ」


 アヴレークは机の下でこの会話を聞いている。

 シャロシュラーサの護衛は、彼の気配にも気付かないものなのか。アヴレークの気配の消し方が見事というのも確かにあるが、こんな体たらくで刺客が潜んでいた場合に仕事はできるのか。

 そんなどうでも良いことを考えていた鴉の意識は、彼女の次の言葉で一気に現実へと引き戻される。


「貴女のその髪は、何? 貴女、でしょう?」


 仮面の下で、己の表情が消えた自覚はある。

 名前に確証を持つのなら、当然それは言われてもおかしくはない。けれど言われたいものでもない。何を言うべきか一瞬迷い、それでも鴉は口を開いた。

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