1章 停戦成れども講和は成らず

0 落ちる鴉

 悲鳴が上がる。耳をつんざくような悲鳴が響き、怒号が聞こえた。

 息をしろ。血を回せ。考えるよりも前に身体は動き、命令違反とは分かっていても自分を盾にするように飛来する矢の前へとその身をさらす。


「閣下!」


 その声は絶叫ぜっきょうにも似ていた。

 飛来した矢が突き刺さる。引き抜けば間違いなく血が溢れ出るということが分かっていながら、それでも突き刺さった矢に手を伸ばす。


「守るなと言った!」


 分かっている。これが命令違反であるということくらい。

 それでもこの足は留まっていてはくれなかった。命令を遂行すいこうするよりも前に足は動き、かばうように前に立ってしまった。

 僕を守るな。

 昨晩それを告げた彼は、どんな気持ちでそれを命じたのだろう。僕を生かせと言うことだってできたはずなのに、彼はそれを選ばなかった。

 オルキデのために死ねるかと、太陽と正義の神は問うという。オルキデの王族に神が求めることは、第一にオルキデに命をささげられるかということだ。


「生きて己の役目を果たせ、大鴉カビル・グラーブ!」


 ぎりと奥歯をめた。痛みも熱も、何もかも気付かないふりをする。

 翔べ、役目を果たせ。ざわりと鴉の内側で何かがうごめいている。とがめるかのように、迷うかのように、それでも精霊ズィラジャナーフからの言葉はない。

 前を見据える。そこにいた女の赤い唇が弧を描くのが見えた。

 この絵を描いたのは誰だ。この半年をすべて無に帰すような真似をしたのは誰だ。再び二つの国を戦争へと駆り立てようとしているのは誰だ。

 突如として現れた賊が、誰の手引きもなしに此処ここへ入り込めたはずがない。誰かが裏で糸を引き、そして彼らを伏せたのだ。警備の手配をした者がその責を負うのだとしたら、あの女は同じ国内の人間すらも潰そうとしているということか。


「私の命令を違えるな!」


 すべては我らが太陽のために。

 賊が再び矢をつがえるのが見えた。武器など何も持たない鴉に、できることは何もない。爪先つまさきが、かかとが、影へと沈む。

 空を切って飛ぶ矢の音が、聞こえた気がした。


  ※  ※  ※


 沈んでいく。落ちていく。


「親を取られて鳴く雛鳥の、憐れ哀しき叫び声」


 ふいに聞こえたのは、うたう声。

 朦朧もうろうとする意識の向こう側で、聞いたことのない誰かの声がする。


「よみするちどり、唄う声。叫びの声は、うとふやすかた」


 空を切り裂きりんと響き、けれどふいに消えてしまう。今にも沈んで落ちてしまいそうな己をすくい上げようとする声は、やはり誰のものか分からない。

 その歌も何も、聞いたことはなかった。もっとずっと東の国、あちらには異なる文化があるのだと教えてくれた人の言葉を思い出す。


「うとふ、善知鳥うとう


 どうしようもなく物悲しい響きは、誰が紡いだものなのか。

 その声の主を確認しようとして、最早持ち上がらなくなりそうなまぶたを押し上げる。かすんだ景色の向こう側、誰かが立っているのは分かった。

 風に乗って届いたのは、花の香り。しゅるりと音を立てたのは、伸びあがろうとする植物のつたか。


「これ、いかなる罪のなれる果てぞや――」


 ひるがえったのは薄青のマフラー、黒い髪。ようやく霞んだ景色が像を結んでいく。

 子犬とも子狼ともつかぬ灰色の獣が、一声鳴いた。そうして再び、意識は闇の中へと引きずり込まれていく。

 いかなる罪のなれる果てぞや。

 まだ死ねない。命を使うのだとしても、此処ここではない。だって生きろと命じられた。生きて己の役目を果たせと命じられた。その命令を反故ほごにすることなど、鴉にできるはずもない。

 貴方を喪いたくなかった。貴方がいたからに成り下がらずに踏み止まれた。ただ、貴方にめて欲しかった。


  ※  ※  ※


 二度目の浮上は、それからどれだけ経ってからなのかは分からない。

 一瞬戻った意識が目を開かせ、そして目の前にいた男の姿を伝えてくる。赤銅しゃくどう色の髪は、この半年で何度となく顔を合わせて見慣れたものだ。

 手を伸ばす。すがり付くためではなく、その襟首を掴むために。


「われ、ら、を」


 言葉が落ちる。

 裏で糸を引いたのは誰だ。女王の願いを踏みにじり、再び戦争に駆り立てようとするのは誰だ。そんなことは赦さない、何があろうとも。

 そのために、誰にも知られないように宰相と鴉とで最後に一つ付け加えた。誰に何があろうとも、この停戦がくつがえることがないように。


「我ら、を、たばかった、か……バシレイア!」


 目の前の男の顔が、ゆがんだ気がした。

 落ちる、落ちる。もう意識を保っていることはできず、襟首を掴んだ手からも力が抜けていく。そうして憐れな鴉はずるりと力を失って、あえなく地面に落ちていく。

 射抜かれ、落ちて、沈むのみ。それを抱きとめて支えた手が誰のものかなど、鴉は知る由もなかった。

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