25 お前が交渉の席に就け

 本陣に戻った大鴉を待ち構えていたのは、アスワドとリトファレルだった。アスワドの副官であるファジュルやエヴェンの姿はなかったが、討たれたとは聞いていない。おそらくはどこか別の場所にいるのだろう。

 脇腹の傷の応急処置だけさせてくれと告げ、先に鴉に与えられている天幕へと入る。傷薬と清潔な布とを取り出して、応急処置をした。そしてはたと気付いて、棚に置いていた書状をふところに入れる。

 そこまでしてから、外にいたアスワドとリトファレルを天幕の中へ招き入れた。服はあちらこちら破れ、血と砂埃に塗れて酷い有様だ。けれどまだ鴉にはやることがあり、そのままの姿で動くしかない。


「生きて戻ったようで何よりだ、大鴉カビル・グラーブ

「ラヴィム侯爵もご無事で何よりです」


 天幕の中、椅子は二つ。鴉は立っていることを選択し、アスワドとリトファレルに椅子を明け渡した。

 座ってしまえば動けなくなりそうで、立っている方が都合がいい。身体は間違いなく疲弊ひへいしていて、血もかなり流してしまった。いくら増血剤があったからといって、過信はできない。


「うちの団長は討たれたけど、君にとってはむしろ好機なんだろうね。これも宰相閣下の策の内かな?」

如何様いかようにも思っていただいて結構です、リトファレル殿」


 ふうん、とリトファレルが笑っていた。その顔が誰かに似ているような気がしたが、明確に誰というのが分からない。確かに見たことのある顔のはずなのに、思考にもやでもかかったかのようだ。

 さすがに総攻撃となったこともあり、リトファレルも補給庫ではなくあの戦場にいたのだろう。細かな傷と服の破れが見て取れた。


「それで、我らが太陽の願いは叶えられそうか」

「叶えねば鴉の存在意義はありません」


 鴉のふところには、リヴネリーアからの書状がある。

 これはバシレイアの総司令官であるハイマに渡すべきものであり、オルキデからの停戦協議を求めるものである。オルキデから宣戦布告をしておいて何を言っているのかと思われればそこまでかもしれないが、果たしてこれはどう転がるものだろう。


「果たしてあの総司令官は、停戦を呑むか?」

「分かりません」


 腰を据えて会話をしたこともない、ただ戦場で刃を交えただけの相手である。けれどその戦いこそが、ある意味で彼のことを雄弁に語った。

 あれは虐殺ぎゃくさつをするような人間ではない。負傷兵を殺したのはリオーノの暴走であり、それについては既にリオーノの首とリノケロスの左腕で決着がついた。

 いつまでも戦争をし続けよう、などと思うようには見えないのだ。これは鴉の勝手な願望なのかもしれないが。


「あちらの総司令官に、これから会いに行きます」

「単騎でか」

「ぞろぞろと行くものでもないですし、私一人ならば確実に入り込めますので」


 アスワドがその弁柄べんがら色の瞳を細める。

 また、酸素が足りなくなって息ができなくなった気がした。はく、と一度口を動かして、何とか空気を吸い込んだ。どうしても、呼吸がうまくいかない。


「まずは停戦を持ちかけます。講和はその協議が成ってからです」

「どうするにせよ問題は山積みだろうが。その辺りは宰相閣下の采配さいはいにお任せするか」


 リトファレルはただ、黙って見ている様子だった。彼が停戦を持ち掛けることについてどう思っているかは分からないが、リヴネリーアとアヴレークが決めたことに異を唱えることもないだろう。

 アスワドがするりと立ち上がる。それはまるでひょうか何か、猫科の獣を思わせる動きだ。


「失敗は許されない、分かっているな」

「承知の上です」


 ああ、また息ができない。

 こうしてアヴレークやアスワドに重いものを乗せられるたび、鴉の呼吸は止まりそうになる。陸上にいるのにおぼれそうになり、息もできないままに沈んでいく。

 アスワドとリトファレルに一礼をして、天幕を出た。空には月と星、昼間とは打って変わってタンフィーズ荒原は寒い。影の中から取り出した砂避けのマントを防寒着代わりに身にまとい、鴉は空を見上げた。


「……ズィラジャナーフ、私にご加護を。カムラクァッダ、私に守護を」


 祈り、そして奥歯を噛みしめる。

 昼間殺し合いをしていた相手のところに夜入り込むなど、ある種の自殺願望のようだ。けれどそれが今鴉のすべきことであるし、ハイマに接触するにはそうするしかない。

 殺されるならば、それまでだ。寧ろこの首一つで事足りるというのならば、鴉は首を喜んで差し出そう。

 どぷんと影に沈めば、羽根が舞う。ズィラジャナーフの力の破片が零れ、羽根になって消えていく。沈んで、浮かんで、それを何度か繰り返す。そして最後にずるりと出た先、目の前には赤銅しゃくどう色の髪をした大きな男。

 昼間、ひりつくような空気の中で戦った相手だ。


「ようコローネー、また俺に会いたくなったのか?」


 即座に鴉に気付いた男が、昼間と同じような声をかけてくる。ただ昼間と異なり、暗殺への警戒か気安さはない。

 にわかに外が騒がしくなったのは、張り詰めた空気に気づいた誰かがいたからだろう。目の前で椅子に座り足を組んでいる男の黄金色の瞳を見ながらも、外を警戒する。


「腹の傷はどうだ?」

「問題なく。ご心配感謝する」


 ハイマが緩慢かんまんな動作で立ち上がる。警戒はしているが敵対はしていない、鴉に殺意がないことには気付いたのだろう。

 彼を殺すつもりはない。彼に危害を加えるつもりもない。だから鴉は武器をすべて己の天幕に置いてきた。いつもならば影の中に入れている予備の短剣も含め、本当に何もかもすべて持っていない。


「危害を加えるつもりはない、武器もない。何なら確認して貰っても構わない」


 天幕の外からは、警戒するような気配がある。ただ彼らはハイマからの指示がないから雪崩なだれ込んでこないだけのこと。

 もしこれで彼が入れと命令を出せば即座に鴉は取り囲まれ、逃げの一手しかなくなる。


「いいぜ、その言葉を信じてやるよ。たった一人で俺の前に現れたことに免じてな」


 ハイマが笑う。張り詰めていた空気は少しばかり緩み、声には若干の気安さが乗った。

 鴉はこの男に気に入られているのか、どうなのか。獲物として見られているのだろうとは思えども、それが彼の中でどのような扱いなのかはまったく読めなかった。


「それで、何の用だ?」

「オルキデの女王、リヴネリーア・ハカム・ルフェソークより貴公に提案がある」


 男が眉を上げたのが見えた。彼らにとって誰が戦端を開いていようとオルキデ国内の事情など知ったことではないだろうし、女王など攻め込んできたくせに今更何を、といったところだろうか。実際にはこの戦争がまったく女王の意思など介在せずに始まっていたとしても、彼らには関係ない。

 はじまりにまったく関与していなくても、終わりに関与することはできる。いくら戦争推進派とて、女王の意思をすべて無視することはできない。なぜならオルキデは『女王国』なのだから。女王に知らせないままに戦争を始めることはできても、女王が終わらせようとしている戦争を勝手に続けることはできない。


だと?」

「ああ、だ」


 どうしても、と頭を下げることはしない。

 ハイマは眉間にしわを寄せてはいるものの、声を荒げたりすることもないし、大鴉の言い分をさえぎることもない。


「女王は停戦、そして講和、つまり戦争の終わりを望んでいる」


 戦端を開いたのはオルキデだ。これがどこまでも身勝手で、そして愚かな提案なのかは理解している。女王も、宰相も、それから大鴉も。

 それでも恥を忍んでこちらから持ち掛けるのは、これ以上の犠牲ぎせいいとうからだ。そしてどう思われているにせよ、女王は真実戦争を望んでいないからだ。

 ただそれを口外することははばかられる。それはつまり、女王が貴族たちに軽んじられていることを喧伝することになるからだ。いざ停戦協議となれば知られることもあるかもしれないが、それはその時に必要だから伝えることだ。


「こちらが始めた戦争ということは重々承知している。恥じるべき提案ということも理解している」


 それでも、バシレイアに完膚かんぷなきまでに叩きのめされてから同じ提案をされるよりは、まだオルキデ女王国の立場も残る。劣勢から拮抗きっこう状態に持ち込んだとは言え、こんなものは薄氷のようなもので、何かあればすぐに崩れ去る。

 今しかないのだ。バシレイアの補給庫が機能していない今、彼らが体勢を立て直していない今しか。

 嘘偽りは何一つとしてない。男はじっと鴉を見ながらも、思案をしているようだった。そもそもバシレイアも『王国』であるのだし、ただ総司令官であるだけの目の前の男にどこまで決定権があるかも分からない。


「我らが太陽と正義の神の名と、女王陛下の誇りにかけて、協議に入ってもらえるのならこれ以降貴殿らに戦闘行為をしかけないと誓おう」


 国が異なれば奉じる神も異なって当然だ。彼らバシレイアの人間とは異なる誓い方かもしれないが、これはオルキデでは最上級の宣誓だ。

 これを違えれば神に心臓を奪われる、とまで言われるほどの。


「陛下から、書状も預かっている」


 どうせ戦争を続けろと怒鳴り続けている戦争推進派の貴族は、首都エルエヴァットから動きもしない。そんな風だから総司令官の死という重大な情報を受け取るのが遅くなって、先手を打たれるのだ。

 ただし、その先手のためにはここでハイマに停戦協議をすることを呑ませる必要がある。もしも彼に断られれば女王の願いは叶わない。


「もし責を負えと言うのなら、私の首を差し出す。私の首一つで停戦が成るのなら、喜んで差し出そう」


 死ぬのならば、オルキデのために。そのためならば死ぬことすらも厭うことはない。

 ハイマはつくづくと鴉を見て、それから大きな手を鴉の前に差し出した。


「お前の首はいらねぇよ。書状を寄越せ。話はそれからだ」

「感謝する」


 懐に入れていた書状をハイマの手の上に乗せる。彼はそれを受け取って、何の躊躇もなく開いて目を通した。

 書状は上段がバシレイア語、下段がオルキデ語になっている。隣でありしゃべる言葉はほぼ同じだというのに、書くとなると似ない言葉を使う二つの国の言葉で書かれた書状だった。上段にバシレイアの言葉がきているのは、女王なりの誠意ということだ。


「お前のところの女王はこれを呑めと?」

「そうだ」


 読み終えたハイマが、書状を机の上に放り投げた。直接的な謝罪の言葉など書けない女王からの、どこまでも遠回しな謝罪と要求。

 ふん、と鼻を鳴らしたハイマが書状に一瞥いちべつを投げている。彼はまたどかりと椅子に腰を下ろして、足を組んだ。


「顔も名前も知らない女王とかいう人間の頼みを聞く義理はない」

「分かっている」


 対等な条件での停戦協議。

 それを戦争を仕掛けた側であるオルキデが言い出すなど、どこまでも虫のいい話であることは鴉とて理解している。

 やはり交渉は決裂するか。鴉はどうしたものかと考え始めるが、その思考はハイマの言葉で断ち切られた。


「だが」


 黄金色の瞳をすがめて、彼は笑う。

 ぞわりと背筋が粟立つほどの鋭さで以て、その瞳は鴉を仮面ごと射抜く。


「お前に免じて呑んでやってもいい。ただし、条件はあるが」


 は、と声を上げてしまった。

 女王の頼みを聞く義理はないと言った口で、ハイマはなどと口にする。その理由が分からず、鴉は仮面の下から彼の顔をじっと見てしまった。


「協議の相手は誰だ。お前か?」

「いや……オルキデの宰相閣下が」

「それは断る」


 間髪入れずにハイマに拒否をされてしまった。

 これで女王を出せと言われても困るが、それならばそれで呑むしかないだろう。そう思っていたというのに、ハイマの次の言葉は真逆の理由であった。


「そんな身分の高いヤツを相手にする必要性もねぇな。どうせこちらも王が出てくることはない」


 座れと彼の正面の椅子を指し示され、鴉はおとなしくそれに従った。

 なんとなく、落ち着かない。鴉の仮面は表情を覆い隠してくれているが、どうにも見透かされているような気分になる。


「条件は三つ。その総てを呑むのなら、対等な停戦協議をしてやるよ」

「……その、条件は」

「まず条件一つ目。お前が交渉の席に就け。そうすれば俺も譲歩じょうほしてやる。実際に俺と刃を交えたのはお前だ。それである程度の人となりは知れる」


 ハイマはまず、鴉に見えるよう人差し指を一本立てた。

 その気持ちは分からないでもない。ハイマにとっては女王リヴネリーアも宰相であるアヴレークも、名前は知っていたとしても人となりなど知らない人間でしかない。

 ましてラベトゥル公爵が勝手に宣戦布告をして吹っ掛けた戦争とはいえ、彼にとってはそんなもの関係なく、オルキデの頂点に立つ二人というのは戦争を始めた相手という認識でしかないだろう。となれば、信用ならないのも当然か。それよりはと鴉を指名してきても不思議なことではない。

 もう一本、今度は中指が立つ。


「二つ目。仮面を外せ。表情の分からないヤツを相手に、はいそうですかと条件を呑む馬鹿はいない。腹の中で何を考えてるか分からねぇからな」


 大鴉には顔がない。名前もない。ただそこにあるのは『大鴉カビル・グラーブ』という役割を背負った記号だけ。

 そしてまた、今度は薬指が立つ。これで三本、次が最後の条件だ。


「三つ目。名乗れ。役割や立場ではなく、お前の本当の名前だ」


 つまり彼は鴉にこう言っているのだ。仮面を外し、名前を名乗り、『個』としてお前が交渉の席にけ。それで自分も晴れて交渉の席に就いてやると。

 以上、と彼が指を握りこんだ。


「……顔も名前も分からない相手と交渉はできない、と」

「当然だろ?」


 鴉の仮面に右手をかける。もう一方の手で結んでいた紐を解けば、かすかな重みが手の中に増える。

 その瞳の色は赤ともピンクとも紫ともつかない、不可思議な色合いをしたルベライトトルマリンの色。まだ幼さを残したような顔立ちは繊細せんさい硝子ガラス細工にも似て、見る者が見れば女王に似ているのだということにすぐ気付くだろう。

 顔を隠し、名前もなく、ただ女王のためだけに。そこにあった血縁関係など何もなかったかのように。


「その条件を、呑む。私はルシェルリーオ・エレヴ、オルキデの大鴉、だ」


 もう何年もリヴネリーアとアヴレーク以外に呼ばれることのなかった名前を、自ら口にした。あまりにも慣れなくて、本当にそれは自分の名前であるのかも疑わしくなる。エレヴの後、最も重要な部分だけは隠したけれど、それはハイマには分からないことだ。

 鴉になったのは何年前だったか。大鴉になって何年なのか。思い出そうとするとそこに付随するものまで思い出されて、何もかも忘れたふりをする。


「良いだろう、お前のことは何と呼べば良い。ルシェルリーオか?」

「いや……で、いい」

「そうか。なら、ルシェ。俺を失望させるなよ?」


 彼に失望されたとしたら、一体何を言われるのだろう。

 お前は鴉だと、頭のどこかで声がする。そんなことは分かっている。知っている。それでもそんな声を一蹴いっしゅうするように、ハイマが鴉の名前を呼んだ。


「ルシェ、返答は」

「……善処は、する」


 何を望む、何を以て失望とする。

 目の前の男が何を考えているのか分からないまま、鴉は他に答える言葉があるはずもなく、ただそれだけを口にした。

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