22 鴉の報復

 地面に髪がつくこともいとわずに、鴉はさやに入ったままの地面に戦場の地図を描く。これから行かねばならない補給庫の場所、そこにかかるまでの時間。準備を整えるために一度天幕へ戻ってきたが、使える時間は多くない。

 日は沈んで、周囲を篝火かがりびだいだい色が照らしている。これからすぐに補給庫に夜襲をかけるとして、リノケロスが補給庫に辿たどり着いて襲撃の危険性を伝える前に動かねばならない。影の移動で先行はできると言え、やはり時間との勝負だ。

 そうして天幕の外で地面に描いた地図を眺め、鴉はしばし考え込んだ。


大鴉カビル・グラーブ

「どうした、エヴェン」


 かけられた声とふと差した影に思考を切り上げ、しゃがんだまま声の主を見上げる。

 少しばかり困ったような顔をして、エヴェンは上から鴉の描く地図を覗き込んでいた。鴉たちに与えられた天幕には先程まで彼はおらず、おそらくは他の雛鳥と共に偵察ていさつに出ていたのだろう。


「叔父上……いえ、ラヴィム侯爵がお呼びです」


 叔父上と呼んでしまったエヴェンが、ゆるくかぶりを振ってそれを取り消していた。別にそこまで気にするようなこともないと思うが、彼にとっては気にするところらしい。

 公私混同はしない。何ともエヴェンらしい思考回路である。


「ラヴィム侯爵が?」


 返答して立ち上がるのと同時に、アスワドが天幕の影から姿を見せた。

 どうやら彼はすでに来ていたようで、それは呼んでいるとは言わないなと内心で思いながら鴉はアスワドに向き直る。


「やあ、エヴェン。今日もがんばっているか?」

「もう幼い子供ではないのです、止めてください」


 アスワドは鴉よりもまずエヴェンに声をかけた。その表情も鴉に向けるものと比べれば遥かに柔らかい。

 エヴェンも背は高いが、アスワドよりは小さい。ぽんぽんとアスワドはエヴェンの頭を軽く叩き、それからでようとして嫌がられていた。


「良いだろう別に」

「今することではありません」

「明日お前が命を落とすかもしれないだろう? そうなった時に後悔したくない」


 そう告げるアスワドの声音には、どこか寂寞せきばくのようなものが滲んでいた。彼が思い出していたのは兄のことなのか、それとも失った誰かのことなのか。

 いつまでも彼らを見ているわけにもいかず、鴉は口を挟むことにした。


「侯爵、ご用件は」

「準備はどうかと思ってな」


 先程までエヴェンに対応していた声とはまるで違う、怜悧れいりな声が鴉を突き刺す。何も知らなければきっと憎まれているかとでも勘違いしてしまうことだろう。

 アスワドはどちらかと言えば、こちらが常だ。言ってしまえばエヴェンが特別なだけであり、それ以外では誰に対してでもアスワドは手厳しい。


とどこおりなく」


 冷たい弁柄色の瞳が鴉を射貫いていた。果たしてこの仮面がなかったら、鴉は彼の瞳を真っ直ぐ見ることができただろうか。

 嘘や偽りを許さぬ、ただひたすらに真っ直ぐ相手を突き刺すもの。人によってはひどく居心地の悪い視線だろう。鴉がこの視線に晒されたのは一度や二度ではない。アスワドの視線に彼に聞こえないよう小さく息を吐く。そうでもしないと息が詰まって、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。

 アスワドといいアヴレークといい、どうして鴉から酸素を奪っていくのか。


「閣下のご命令の通り、これより補給庫に夜襲をかけます」


 地面に戦場の地図は描いた。

 バシレイア方面の方が高いというのは地形の問題であり、巨大な蛇の尾で叩きつぶされたという伝説が残っている断崖絶壁だんがいぜっぺきは、到底人が登ることはできない。


「この場所が補給庫です。今から出れば、然程さほど時間はかかりません。襲撃し、火を放ちます」


 バシレイアの本陣よりも後ろ。クレプトの領内を通るように補給路の線を引き、拠点きょてんとなっている場所を丸で囲った。

 兵士は補給がなければ戦い続けられない。戦争だろうが何だろうが、人間には水と食料が必要なのだから。

 それから、武器の問題もある。剣のような刃というものは人を斬れば斬るほど切れ味は落ちて、使い物にならなくなる。竜の骨が使われているだとかそんな眉唾物まゆつばものな材料で作られていれば話は別なのだろうが、通常誰もが使っているのはそんな一点物ではない。


「……エヴェンは置いて行きます」

「何故です」

「何かオルキデ軍にあった場合に、お前が一番速く私に情報を伝えられるからだ」


 不満げな彼に、理由を述べた。他の雛鳥が成鳥に加護を借りてしなければならないことを、彼はなしで行える。

 つまり手順が一つ減るということでもあり、その速度が戦場では生死を分ける。

 勿論もちろんそれは事実であるが、口にしなかった理由もある。エヴェンに何かあれば、ラヴィム侯爵家は後継こうけいを失う。そして、大鴉の後継も。


「かしこまり、ました」

「というわけですので侯爵閣下、エヴェンを頼みます。もう何名かは伝令として残しますが、他はすべて補給路の方へ移動しますので」


 どこか釈然しゃくぜんとしない顔をしているエヴェンにそれ以上何か言うことはない。アスワドは鴉の言葉に、ほんの少しだけ片眉を上げた。

 余程何かあるということはないだろうが、伝令兵がいないのは困る。万が一があった場合は、夜襲をかけている場合ではなくなるからだ。


「騎士団長には」

「終わってから報告します」


 特段何かをバラックに伝える必要はないだろう。そもそもこれはアヴレークの命令であり、ここにバラックが口を挟むことは許されない。

 彼に伝えるのは、すべてが終わってからだ。今が好機ですと彼を煽り、そしてバシレイア軍に対して総攻撃を仕掛けさせる。


「そうか」


 アスワドは満足げに笑った。風が乾いた砂を巻き上げて、ともにくるくると踊る。

 ではな、とアスワドがひらりと手を振った。エヴェンもまた影に沈む。後に一人のこされた鴉はしゃがみ込み、もう一度だけ補給庫の位置を確認した。


  ※  ※  ※


 バシレイアの補給拠点にいる兵は、情報として得ていた数ともさして変わりはない。こんなものかと楽観視することはできないが、現状多くをいているとも言えなかった。

 補給庫にいる司令官はリノケロスを除けばあと二人。デュナミス家のカフシモ・デュナミスとリオーノ・デュナミス、この二人である。そして鴉がこの襲撃でしなければならないことは、リオーノを捕らえて敵総司令官の前に投げ出すことだ。

 影の中に沈めたものを思い出し、それから鴉は一度だけ息を吐き出す。


「五人くらいでいい。少し離れたところに火をつけて、小火ぼや騒ぎを起こせ。そちらに兵を引き付けろ」


 雛鳥のうち何名かが、それに「」と答えて姿を消した。

 補給庫の状況を確認すべきかと、雛鳥たちには待機の指示を出して鴉は一人影に沈む。影の中に身を潜めておけば気付かれることはないと判断し、身を潜め続けながら移動した。


「リオーノ、聞いているのか!」

「何だ、うるさいな!」


 すす色の癖毛の男とたんぽぽ色の髪の青年が、言い争っている声がする。

 青年は鬱陶うっとうしいという表情をありありとその顔に浮かべていた。それに対して男は眉根を寄せている。


「お前なんか兄さんに負けてしまえばいい、カフシモ!」

「俺もお前の兄だ、敬意を払え!」

「俺の兄はゼステノ兄さんだけで、お前なんか兄じゃない!」


 きゃんきゃんと子犬がえるような甲高い声が耳についた。

 たんぽぽ色の髪をした方がリオーノ、鴉が捕らえなければならない相手である。対してカフシモに用はなく、小火騒ぎでリオーノとカフシモがどちらへ行くかは見極めなければならない。

 影から合図が来る。雛鳥たちは命じた通り、少し遠くの補給路のところで小火騒ぎを起こすことに成功したようだ。

 にわかに補給庫が騒がしくなり、兵士がカフシモとリオーノのところまで駆けてくる。


「カフシモ様、リオーノ様!」

「何があった?」

「補給路の途上で小火が起きました。オルキデの鴉の仕業かもしれません!」


 兵士の見解は間違っていない。

 おそらく彼の間にはオルキデの鴉の情報も回っていることだろう。鴉という存在があることを分かっていれば、その結論に達するのはおかしなことではない。


「ここは本陣より奥なのに、そんなの有り得るわけないだろ。誰かの不始末じゃないのか」

「そんなわけがあるか」


 兵士の言葉に異を唱えたリオーノは、鴉というものがよく分かっていないのだろう。カフシモはそんな異母弟を、苦虫を何匹も噛み潰したような顔で見ていた。

 彼らはどう動くだろうか。鴉は影に潜みながら、彼らの動向をうかがい続ける。


「俺が行く」


 リオーノは異母兄をあざ笑うような顔で見ていた。彼の足元にある影に鴉が潜んでいるということにも気付かない、その愚かさに思うところがないわけではない。ただ、明確に感情にすることも言葉にすることも止めておいた。

 生き延びれば戦場の過酷さを知るのかもしれないし、逆に戦場なんてこんなものかと甘く見るのかもしれない。後者となれば今後も危うさは消えないことになるが、そもそもこれは生き延びられた場合の話だ。彼にはもう生き延びる道はない、負傷兵を虐殺した時点でその道は閉ざされた。

 カフシモの姿は遠ざかり、後にはリオーノ一人が残っている。ならばこのまま彼を襲い、そして補給庫に火をかける。

 ひらひらと黒い羽根が舞い、地面に着く前に霧散して消えた。


「いくぞ」


 影を移動し、補給拠点へと次々に鴉たちが現れる。大鴉もまた短剣を構え、目の前にいた兵士の首をかき切った。

 雛鳥たちもそれぞれに散り、途端に補給拠点は戦場へと変わる。鴉の近くにいた兵士が何事かを近くにい別の兵士に命じ、それを受けて背を向けて走り出した者がいる。


「伝令を逃がすな、討て!」


 目の前に迫った刃を弾き、鴉も命令の叫びを上げる。近くにいた雛鳥がそれを受けて影に沈もうとしたが、間近に迫った兵士が振るった槍により、小柄な体ははね飛ばされて地面に転がった。

 それでも別の雛鳥が追い付き、伝令が倒れる。誰かが舌打ちをし、今度は数名の兵士が走り出す。呼びに行くのはカフシモか、それとも総司令官のハイマに伝えるか。どちらであっても面倒なことになる。

 雛鳥が阻止に動くが、やはり別の兵士に阻まれた。何匹討たれたか、そんなものは生き残った数で考える。とにかく、とまた目の前の兵士の首に短剣を押し込んだ。べたつく血で手が滑りそうになり、短剣を捨てると同時に砂除けのマントで手についた血をぬぐう。

 数人討てば短剣はすぐに使い物にならなくなる。何本も、何本も、使い捨てのそれをどれほど使って捨てただろうか。

 鴉はあえて雛鳥たちから距離を取る。一羽だけはぐれたように見えるように、討ち取ることが好機と思われるように。


「一人だけ突出したか、馬鹿が!」


 案の定、釣れた。

 想定した通りのリオーノの動きに、鴉は仮面の下で笑みを浮かべる。岩山を崩した時にも思ったが、この男は釣り上げやすい。


「女だろうが容赦はしない! 前の怪我の借りを返してやる!」


 わざわざそんなことを口にせずとも向かってきたら良いものを、と思わないでもない。鴉は特に何を言うでもなく、無言で彼の言葉を受け取った。

 返す言葉などあるはずもない。ここは戦場であり、敵と仲良くお喋りをするようなつもりもない。

 リオーノが剣を抜き、上段から振りかぶって叩きつけてくる。力任せに叩きつけられたそれは確かに重さはあるが、ただそれだけだ。なかなかの重さではあるものの、それくらいは誰でもできる。それこそ先ほど戦ったリノケロスの剣の鋭さはけたが違った。

 鋭さはない。重さも手がびりびりと痺れるほどまではいかない。練度が足りないとしか言いようはないが、普通はそんなものだろうか。

 剣を弾き飛ばし、少し距離を取る。それを逃げと取ったかは知らないが、リオーノは踏み込んできて今度は剣を横に薙ぐ。後ろに跳んでそれを避け、今度は体勢を低くしてバランスを崩しているリオーノに肉薄した。

 狙うべきは首ではなく腕。ここで彼を鴉が殺してしまえば意味がない。よろい篭手こての隙間に短剣をねじ込もうとしたが、何とか体勢を立て直したリオーノの剣に阻まれた。再び後方に跳ぶことで距離を取り、更にもう一度肉薄し、じりじりと戦う場所は後ろへと下がっていく。

 鴉の足元で闇色の羽根が舞う。建物影の薄暗がり、ここまで誘い込んでしまえばあとは鴉の領分だ。振り下ろされた剣を避けるようにして影に沈んでやれば、勢い余ったリオーノの剣が地面を抉って砂を巻き上げる。その背後に現れて、完全にがら空きになった背後から腕を狙う。

 そうして腕に短剣を突き立てて、リオーノを地面に引き倒した。その腹の上に馬乗りになり、首元へと手をかける。


「報いを受けよ、リオーノ・デュナミス。お前の首をねられなかったバシレイアの総司令官へ、お膳立ぜんだてをしてやる」


 手早くリオーノに縄をかけた。何事かを喚き散らしている彼に「息を止めねば死ぬぞ」と耳元で脅しをかけて、その口に布を噛ませてから影の中へと突き落とす。その鴉の背後で、炎がぜる音がした。

 リオーノを掴んだまま影を移動し、目的のところで浮上する。顔色を青くして目を白黒とさせているリオーノのことなど無視をして、鴉は目的の人物の前に姿を見せた。周囲がざわつき、武器を構える音がする。


「総司令官ハイマ・エクスロス。オルキデ女王国宰相アヴレーク・イラ・アルワラよりの伝言を伝える」


 鴉の目の前には、赤い髪の男がいる。その隣には騎兵部隊の司令官の姿もあった。

 向けられた武器など気にすることもない。彼らが向かってきたところで、鴉にはここから逃げ出すすべもある。だからこそ、つかつかと彼らに近付いた。

 立っている彼らの目の前に、引きずっていたリオーノを投げ捨てる。鎧の音を立てて、リオーノが荒地に転がった。それから鴉は影の中に手を突っ込み、目的の物を取り出してそれも投げる。


「まずはリノケロス・エクスロスの左腕一本、その責を問い奪い取った。貴殿らが愚か者の首を刎ねられぬと言うのなら、お膳立てをしてやる」


 自分の真横に転がった持ち主のない腕に、リオーノが息を呑んだ音がした。補給庫が燃えていることも、リノケロスが襲撃されたことも、まだここには伝わっていないだろう。

 彼らの伝令は人の足だ。オルキデのように鴉がいるわけでも、鳥が使えるわけでもない。


「今ここで、私の目の前で、リオーノ・デュナミスの首を落とせ。その首を寄越せ。それで一旦報復の手は止めてやろう」


 これで落とせぬと言うのなら、それまでだ。

 鴉はそれきり口を閉ざし、ハイマの返答を待つことにした。

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