19 決してあってはならぬこと

 シュリシハミン侯爵領はオルキデ女王国において最も貧しい土地と言っても過言ではない。鉱床も鉱脈もないこの土地は、せいぜい南にあるラベトゥル公爵領へ入る商人たちの宿泊場所となる、あるいは別の領地にて労働力になるくらいしか稼ぐ手段がない。

 あとは動物に関わるものくらいで、馬の調教やオルキデの砂漠固有の爬虫類はちゅうるいであるサンドリザードの調教、あとはジャコウジカの解体と生殖腺せいしょくせんの採取だった。

 そんなシュリシハミン侯爵家の嫡男に、ぜひにと結婚を迫ったのが第一王女ジェラサローナだった。普通ならば渡りに船と飛びつくかもしれないその話に、シュリシハミン侯爵家の誰もが渋い顔をした。

 結果的にはケヴェスの兄は婿入りすることになり、ケヴェスに次期侯爵の地位が転がり込んできた。けれどそれも当然手放しで喜べるものではない。ましてこんなことになるのならと、シュリシハミン侯爵であるケヴェスの父親は重苦しい息をいていた。


「ケヴェス様、負傷兵全員集まりました。自分で動けない者は先に運び始めております」

「ありがとう」


 ほんの少しの怪我であれば負傷兵扱いはされないし、本軍と共に撤退てったいもできる。負傷兵の扱いをされるのは、武器を握ったりが難しいほどの怪我を負った兵士たちのことだ。命に関わるほどの重傷者は先に送っているが、そうでない者はここから集まって衛生兵のところへ移動することになる。

 担架たんかを担いだ兵士が先行して移動を始める。それに続いてケヴェスもまた馬の首を本陣から少し離れた衛生兵の天幕へと向けた。


「では、行こう。無理はせず、ゆっくりと」


 タンフィーズ荒原の岩壁における衝突しょうとつ以降、戦いは激化げきかしている。オルキデ側が劣勢となっていた戦況は徐々に押し返しはじめ、兵士たちはこのまま引っくり返せるのではないかと士気を上げていた。

 援軍として現れた大鴉とラヴィム侯爵アスワド・アルナムルが、実際に女王からどのような命令を受けているのかケヴェスには分からない。けれどリトファレルは「目的は勝利じゃないだろうね」と口にしていた。彼らはバラックの指揮下に入ることもなく戦場を駆け回り、バラックがしないような計略を用いてバシレイア軍を追い込んでいる。

 こんな戦争など早く終われば良いとケヴェスは思っていた。それは決して口に出してはならないことだが、もうかれこれ戦争が始まって半年になろうとしており、兵士たちは疲弊ひへいしている。食糧と水の補給が十分と言えないオルキデ女王国軍は当然長期の戦争には向かず、ラベトゥル公爵からの援助えんじょはあれどもそれはすべてをまかなうことにはならない。

 押し返しつつはある。けれどそれは見かけ上のことかもしれない。兵士の心が離れつつあることも、傭兵たちが契約けいやく反故ほごにしようとしていることも、素人のケヴェスから見て分かってしまった。むしろケヴェスはこの戦争を冷めた目で見ているから気付いたことなのだろうか。


「傷に砂が入らないように、包帯が緩んだりするようであればすぐに言ってくれ。衛生兵の天幕までは少し距離があるが、この荒原で焦るのも危険だから」


 ケヴェスがこうして負傷兵護送の任に当たっているのはバラックの命令ではあるが、あながちおかしな配置とも言えないのだ。タンフィーズ荒原はシュリシハミン侯爵領であり、おそらくケヴェスはこの戦場にいる誰よりもこの荒原についてを熟知じゅくちしている。

 さすがに古い遺跡のところを大鴉が知っていたのには驚いた。そこに開いた大穴に敵兵を落としたというのにも、そこまで知っていたのかと驚愕きょうがくしたものだ。

 太陽は沈みかかっていて、荒原をく。長く影が伸びる中を、少し遅い足並みで馬を歩かせた。

 けれどあまりのんびりと移動しているわけにもいかない。太陽が完全に落ちてしまえば荒原の気温は一気に下がり、体温を奪う。無傷であっても体温を奪われれば命の危険性がある。負傷兵ならば尚更なおさらだ。


「……え?」


 ふと、影が伸びた。

 逆光になっていて影の先がケヴェスからはよく見えない。味方の迎えかとも思うが、バラックは負傷兵の迎えになど人は出さないはずだ。別にないがしろろにするとかそういうわけではなく、単純に自分で移動すると言うのだから必要ないだろうという判断にるものである。

 太陽の光が防具に反射している。オルキデでは見ることのない重装備はつまり、バシレイア軍の人間ということだ。

 負傷兵は兵士ではない。民間人と同じ扱いである。ケヴェスはリトファレルにそう聞かされたし、バラックもそうであると言っていた。

 ならば攻撃されることもないかと、ケヴェスはそのまま馬を進めた。太陽はまだ沈み切らないが、完全に夜になってしまう前に彼らを天幕へ送り届けたい。


「お前ら! 敵だ、かかれ! 殺せば手柄だ!」


 成人男性にしては甲高い声が耳に届いた。

 ケヴェスが声を上げるよりも前に、がしゃがしゃという重装歩兵のよろいが音を立てる。どこか耳に響く音を立てて、ただ走るよりは遅い速度で号令に従った重装歩兵たちが駆けてくる。

 常であれば逃げることは容易たやすいだろう。重装歩兵の動きは遅く、歩兵が逃げきれないはずがない。けれどそれは通常であればの話であり、ここにいるのはゆっくりと動くしかない負傷兵たちだ。ケヴェスや担架を運ぶ兵士は負傷兵を見捨てれば逃げられるかもしれないが、それを選ぶことはケヴェスにはできない。


「待ってくれ、我々は負傷兵だ! 衛生兵のところに撤退するところで……」

「だからどうした!」


 また響いた甲高い声に、馬がいななく。

 重装歩兵たちが次々と武器を抜く。負傷兵だろうと何だろうか関係なく、彼らは命を奪おうとしている。ふと太陽がかげって、司令官を思しき男のたんぽぽ色の髪が見えた。

 リトファレルが誤ったことを言ったとは思わない。そもそも騎士団長や騎士たちも同じ認識であったのだから、やはり負傷兵は民間人と同じ扱いであるというは正しいはずだ。ならば彼らが今からしようとしていることは戦いではなく、ただの虐殺ぎゃくさつでしかない。

 これはバシレイアの総司令官が命じたことなのか。そうであるのなら、ケヴェスは個人としてもシュリシハミン侯爵家の人間としても、隣接するバシレイアへの認識を改めなければならない。

 眼前に司令官を思しき男の槍が迫る。ぐ、と奥歯を噛み締めて、ケヴェスは己の腰にあった剣を抜いた。

 彼らを守らなければ。それが、ケヴェスが命じられていることなのだから。


  ※  ※  ※


 すっかり太陽が沈み切ったタンフィーズ荒原は、静まり返って黒々としていた。そんな中、ふわりと白い姿が影より現れる。

 白の雛鳥はただ駆けた。鳥の目も使って戦場を監視している中で、とんでもない情報が飛び込んできたせいだ。負傷兵の護送部隊が急襲を受けて壊滅かいめつ、生存者はいない、と。


「そんな……」


 辿り着いたその場所の惨状さんじょうに、ラアナは思わず顔をゆがめる。顔の右半分がそうすると引きった痛みをうったえたが、今はそんなものを気にしている暇はない。

 荒原の冷たい風がラアナの顔の右半分を隠す布を揺らして駆けていく。その風が届けたのはひどい血の臭いだった。


「こんな、酷い……カムラクァッダ、どうか、彼らに導きを……」


 死屍累々ししるいるいという言葉が一番相応ふさわしいだろうか。けれどそんな言葉が相応しくあってはならないはずなのだ。

 彼らは戦う術を最早持たず、武器すら持つことができない負傷兵だった。中には腕や足を失っていた兵士もいたはずで、けれどそんなものは関係ないとばかりに命を奪われている。

 息絶えた馬のかたわらに、他の兵士よりも少しだけつくりの良い鎧を纏ったむくろがあった。負傷兵を守ろうとしたのか折り重なるようにして倒れたその骸は首より上が存在せず、首を落とされて持ち去られたことは明白だった。

 情報だけでは信じられずにこの場所まで来てみたが、ラアナが来たところで何が変わるということもない。既に発生した『虐殺』という情報が間違っていたのならばどれほど良かったか。


「すぐに、大鴉カビル・グラーブに、報告、しなければ」


 彼女はこの状況をどう判断するだろう。どのような決断を下すだろう。

 この虐殺を黙って見ているだけというのは赦されない。これを黙って見ていれば、オルキデは負傷兵の虐殺を不問にするという意思表示になってしまう。バシレイアからの謝罪があろうがなかろうが、これについてはバシレイアに責任を取らせねばならないことだ。

 責任を取らせるとして、ではオルキデは何を求めるのか。それを考えるのはラアナの仕事ではないが、想像できることは虐殺を行った司令官の首か。それだけで収まらなければ、その上官かあるいは家の上位者まで連座となるのかもしれない。

 ラアナ一人では彼らを弔ってやることもできない。彼らの遺体は無惨むざんな有様ではあるが、それでも家族のところへ返してやらねばならないのだ。何も返らないよりはその方が良いのか、むしろ見せない方が良いのか、家族のいないラアナには分からないけれど。

 影に沈み、大鴉がいるであろう本陣へと移動していく。一度では移動することができないが、それでもただ馬で駆けるよりは早くに辿り着く。

 衝突を終えて未だ手当てや事後処理でざわつく本陣の中を、ラアナは人を避けるようにして進んでいった。


「おい、聞いているのかそこの傭兵! 今から単独行動の許可が欲しいとか何のつもりだ!」


 もうじき大鴉の天幕というところで、騎士の怒鳴どなり声がした。その声に、ひ、と思わずラアナは身をすくめさせてしまう。

 大きな声というのは、どうにも苦手だ。大きな音だけなら慣れたものだが、怒鳴る声というのはどうしても慣れない。


「何、と、言われましても。お伝えしたままですが」


 天幕のすぐ近くで、一人の騎士が銀雪色の髪をした背の高い青年に対してつばが飛びそうなほどの声でがなり立てている。

 けれど青年はそんなものどこ吹く風で、黒曜石のような真っ黒の瞳はいでいた。


「私用で離れる者があるか、この異国の傭兵風情が!」

「はあ、そういうものですか」


 すらりと背の高い体躯をした彼は、表情一つ変えることなく騎士の怒鳴り声を聞いている。いや、聞いているように見えるだけで、実際には右から左へと聞き流しているのかもしれない。

 まだ騎士は何かをわめいているが、彼はやはり聞いているようで聞いていない顔をしている。そうして空を見上げた彼は急にけわしい顔になり、弓を手にして背負っていた矢筒から矢を一本引き抜いてつがえた。

 騎士がその様子に、慌てたように血相を変える。


「は? おい、何を考えて……」


 彼は眉間にしわを寄せ、そのまま空に向かって矢を放つ。まっすぐに飛んで行った矢は、寸分違わず上空を飛んでいた鳥を貫いた。

 夜空にあってやけに目立つ白い鳥だった。オルキデが伝達に使う猛禽もうきんとは異なる種類だが、そもそも夜に飛ぶ鳥などほとんどいない。群れからはぐれでもしたのだろうか。

 貫かれた鳥が落ちていく。落ちる鳥を見ていられなくて、ラアナは思わず目を逸らした。


「契約上、単独行動を禁止する項目はありませんでしたが」


 何事もなかったかのように、彼は淡々と騎士へと問いかける。弓を背負い直してことりと首を傾げるその姿は、今しがた容赦なく鳥を射抜いたとは思えない。

 傭兵の契約というのはそれぞれだが、基本的には自由行動をそこまで制限するものはない。特にオルキデやバシレイアから見て南東方向に位置している群島諸島連合ぐんとうしょとうれんごうは傭兵が多いということもあり、その契約内容は明確にされている。


「今の行動の説明をしろ!」

「何故です? 別に誰かを害したわけでもありませんで……変態クソ野郎の監視を射抜いただけです」


 またも彼はことりを首を傾げた。さらりと顎の形に沿って切られた銀雪色の髪が揺れている。

 彼の言っている内容の後半は、ラアナにも分からなかった。騎士にもやはり分からなかったようで、彼はぽかんとした顔をした後、徐々に顔を赤くしていく。


「うるさい、上官の指示には従え!」

「……横暴」


 静かに言われたその言葉に、騎士は更に激昂する。火に油を注ぐような返答ではあるが、彼は一切気にする様子がない。

 そろそろ手が出ないかとはらはらしながらラアナは見守っていたが、騎士は怒鳴るだけでその手が腰の剣にかかることはなかった。さすがに剣を抜くのがまずい行為であるということは自覚があるのか、それとも怒りによってそれすらも忘れてしまっているのか、どちらだろう。


「なんだと!」

「人間とはこうも理由なくがなり立てるものでしたか。それとも私のよく知る人間とは、違いますか?」

「このっ……もういい、とにかく単独行動は許可しない、おとなしくしてろ!」


 騎士は自分を落ち着けるためか、途中で深呼吸をはさんでいた。

 これ以上何を言っても無駄であると思ったのか、騎士はそう吐き捨てて足音を立てて去っていく。その背中を見送って、彼は意味が分からないというような顔をしていた。


「はあ」


 やはり分からないというような顔をしていた彼が、ラアナの方に視線を投げた。特に驚いたような様子はなく、またも彼はことりと首を傾げる。

 どこか中性的な顔立ちに、何にも興味がなさそうな瞳。覗き込まれると呑まれそうな黒曜石の瞳は、ある意味でうすら寒いものすら感じた。


「何か、用事で?」

「あ、いえ……大丈夫、ですか?」

「はあ、まあ、大丈夫、です。うるさかっただけでして」


 けれども彼は困っているのではないだろうか。

 何かしら理由があって単独行動を申し出たのだろうし、それを頭ごなしに否定するのも違う気がした。裏切る可能性や敵と通じていて単独行動をしたい可能性はあるが、そこはラアナが責任を持って監視をすれば済むことかもしれない。


「あの、ええと……もし、よろしければ、これから私の上司に、許可を、取りましょうか」

「君が、です?」

「はい」


 あの騎士よりも大鴉の方が権限は上だ。

 まして現状では大鴉とアスワドはバラックの指揮下からも外れており、女王の命令も受けていることから、大鴉が出した許可にはバラックも口を出しづらい。


「お願いできるなら、お願いしたいです。たくさん人が死んだから、行かないと」

「かしこまりました」


 やはり彼の言うことの半分は分からなかったが、ラアナは追求することはしなかった。

 考えることはラアナのすることではない、と言うと無責任なことに聞こえるかもしれないが、白い鴉の本分は『情報の収集』なのである。その情報を精査して検討するのはまた別の人の役割だ。


「では、お名前を、お伺いしても?」

「名前は、ナハト。これだけよろしいですか?」

「はい。少しだけ、お待ちくださいね」


 ナハトと名乗った彼に一礼して、ラアナは彼に背を向ける。

 乾いた風が顔の半分を隠す布を揺らしていく。決してその下が見えないように手でそっと布を押さえてから、ラアナはそっと大鴉のいる天幕の入口を揺らして声をかけた。

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