16 小さな鴉はさぞ美しかろう
何度目になるかのオルキデ軍との
あちらこちらでから鼻につく臭いが
いくつもの薬草を独自の配合で組み合わせてあるのか、ハイマに
きつい香りなわけではなく、単純にハイマ個人と相性が悪いだけだろう。現に兵士たちはその匂いを
「傷はどうだ」
「総司令官殿! はい、問題ありません、次も出られそうです」
「そうか。まあ、無理はするなよ」
うろうろと歩き回りながら、兵士たちに声をかけて回る。兵士たちは皆、ハイマを見て慌てて飛び起きて敬礼するような畏敬の精神は持っていない。彼らは今のそのままの姿勢のまま返事をしてくるが、それでいいとハイマは思っている。
自分が兵士たちに
そこに立っているだけで何となく空気が張りつめる、そんな存在感を示すリノケロスに憧れたことがなかったと言えば嘘になる。当主である以上リノケロスのようになるべきなのかと悩んだこともある。
結局は逆立ちしたってああはなれないから自分は自分だという、
「総司令官殿、よろしいですか?」
「ああ。どうした」
本陣の隅から隅まで歩いて回っていたハイマを呼び止める声がした。振り向けば見慣れた顔で、彼はエクスロスから連れてきた兵士である。
エクスロス領での普段の訓練ではハイマも飛び込んで一緒に馬鹿騒ぎしていることもあるのだが、こと戦場に至ればその立場の違いは明確だ。
「水をもう
「手当てか」
「はい」
戦場において、水や食料の調達は簡単ではない。近くに川が流れていたりするなど、場所によっては容易に補給できる場合もある。だがクレプト領は乾いていて、とてもではないが水の補給などすぐには望めない。
「わかった、いいだろう」
「ありがとうございます」
ハイマが
思ったよりも補給物資の減りが早い。まだ補給庫には余裕があるだろうが、補充の算段をしておいた方が良いかもしれなかった。
「……いっそ、総攻撃でも仕掛けるか?」
一番手っ取り早いのは、この戦いを終わらせることだ。終わってしまえば補給も必要ない。相手を叩き潰して、オルキデの総司令官の首を取ってしまえば終わる。
できないことはないだろうと、ハイマは数度のぶつかりあいで確信していた。本気で終わらせるつもりがあるのならば、こちらの被害も度外視して総司令官の首一つだけを目指して敵陣に突っ込めば可能だという目算だ。
「不穏なことを
「なんだ、聞いてたのか」
「聞こえてしまいましたので」
独り言のように
エンケパロスが連れてきた、彼の副官であるカタフニアだ。
バシレイアではあまり見ることのない黒髪が、乾いた風に揺れている。他人を信用せずそばに寄せ付けないエンケパロスにしては珍しく、カタフニアは彼の隣にいることを許されている。けれどこの男がどういう出自なのか、ハイマは一切のことを知らなかった。
だが、別にそれを聞こうとは思わない。他人は他人、自分は自分、そういうものだ。
「差し出がましいとは存じておりますが……」
「いや、いい。言ってみろ」
貴族の生まれではないことは明らかだった。なぜなら、彼には名字がない。
それでも
「相手の戦い方が少し変わってきたかと存じます。総攻撃は、時期尚早かと」
「ああ、そうだな」
オルキデ軍の動きが変わってきたことにはハイマも気づいていた。デュナミスの重装歩兵に多大な被害を
リオーノが叫んでいた、エンケパロスが
それは敵の総司令官が学習しているというよりは、策を考える頭が総司令官から変わったと考えるべきだろう。
「お前は見たか?」
何をと問わないまでも察するのは、さすがにエンケパロスに仕えている者だからだろう。カタフニアは言葉の裏側を読み取るのがうまい。
エンケパロスは口数も少なければ表情も変わらない。そんな彼の言葉の裏側を読み取ることと比べれば、ハイマの言葉の裏側を読み取ることは
「見ました。まるで鳥のようでした」
「鳥、か……」
黒い服を返り血で赤く
そちらに指揮権が移るのか、はたまた今のままなのか。それは分からないが、この戦争がハイマにとって楽しくなってきたことだけは確かだ。お行儀の良い戦いだけではつまらなくて、飽きてきたところでもあったのだ。
「黒い鳥……
黒い姿の鳥として、一番に思い浮かぶのは鴉だ。ちょっとでも人の多い街に行けばいくらでもその姿はあるが、近寄れば鴉たちはパッと飛び立ってどこかへ行ってしまう。
決してハイマの前に姿を現すことがない、目撃はされていても捕らえられない。あの女はまさにそんな鴉だろう。
「さながら
「そうだな。可愛い名前じゃねぇか。なあ?」
赤く染まった小さな鴉はさぞ美しかろう。
ハイマはまだ見ぬその相手を思い浮かべて舌なめずりをした。強者との命のやり取りはいつだって至上の喜びだ。
「エンケパロスが戻ったら、俺の天幕に来るよう伝えろ」
「承知しました」
カタフニアと話し込んでいたこの場所は騎兵部隊が待機している場所だ。ハイマが見るべき本陣は、この場所が最後になる。
必要な指示は出したのでこれ以上留まる理由はない。身を
※ ※ ※
エンケパロスがハイマの天幕を訪ねてきたのは、もうとうに日が暮れた後だった。正直に言うならば今から寝ようとしていたので、今この瞬間に来るぐらいなら明日の朝の方がましだった。
だが、自分の中のルールで生きているエンケパロスにそんなこと言えるはずもない。総司令官と司令官という立場の差があっても、言えることと言えないことがある。そもそも、彼が今帰ってきたとは思い難い。帰ってきて自分の身の回りのことをして、一服身を落ち着けてからハイマの所に来たのだ。それはある意味で、ハイマからの命令がエンケパロスの中でどういう優先順位なのかを伝えてくるものでもある。
(この野郎……。)
「お呼びだとか」
「ああ、うん、そうだな……」
夜の
ハイマは仕方なく
「次の戦い、こちらも少し仕掛けようと思ってんだ」
「具体的には?」
「伏兵だ」
古典的な策だが、用いやすくかつ効果的な策でもある。幸い戦場には大きな岩場がいくつかあり、小隊であれば身を隠す場所には事欠かない。エンケパロスは相変わらず感情の読めない顔で空中を見つめていたが、ややあってわかりました、と頷いた。
彼の中で、何らかの計算が終わったらしい。
「油が無駄になるので、詳細は明日またお聞きします」
顔色一つ変えずにしれっと言うエンケパロスに、それなら最初から明日の朝に訪ねて来たら良かっただろうなどと言うのは自殺行為だ。
ハイマにできるのは、ぜひそうしてくれと言いながら笑顔で彼を見送ることだけである。天幕から去る彼の背中を見送った後に溜息を一つ吐くくらいは、きっと許されるだろう。
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