16 小さな鴉はさぞ美しかろう

 何度目になるかのオルキデ軍との衝突しょうとつの後である。両軍共に撤退を終えた後、ハイマは引き上げて来た兵士たちの様子を見るべく本陣の中を歩き回っていた。

 あちらこちらでから鼻につく臭いがただよってくる。びた鉄のような血の臭いと、甘いようなっぱいような不思議な芳香ほうこう。何とも形容できない芳香は、傷薬からのものなのだろう。

 いくつもの薬草を独自の配合で組み合わせてあるのか、ハイマに馴染なじみのある傷薬とは異なる匂いだ。決して嫌な臭いではないがハイマにはあまり得意ではない香りで、一度渡されたときにふたを外して鼻を近づけたところ暫く鼻が馬鹿になった。

 きつい香りなわけではなく、単純にハイマ個人と相性が悪いだけだろう。現に兵士たちはその匂いをいとう様子はない。


「傷はどうだ」

「総司令官殿! はい、問題ありません、次も出られそうです」

「そうか。まあ、無理はするなよ」


 うろうろと歩き回りながら、兵士たちに声をかけて回る。兵士たちは皆、ハイマを見て慌てて飛び起きて敬礼するような畏敬の精神は持っていない。彼らは今のそのままの姿勢のまま返事をしてくるが、それでいいとハイマは思っている。

 自分が兵士たちにかしずかれてうやまわれるような人間でないことは百も承知だ。そういう威厳いげんとか峻厳しゅんげんさは、どちらかというと異母兄のリノケロスの方があるのではないだろうか。

 そこに立っているだけで何となく空気が張りつめる、そんな存在感を示すリノケロスに憧れたことがなかったと言えば嘘になる。当主である以上リノケロスのようになるべきなのかと悩んだこともある。

 結局は逆立ちしたってああはなれないから自分は自分だという、諦観ていかんめいた結論に落ち着いたのだけれども。どう足掻あがいてもハイマがリノケロスになれるはずがないし、なる必要もない。


「総司令官殿、よろしいですか?」

「ああ。どうした」


 本陣の隅から隅まで歩いて回っていたハイマを呼び止める声がした。振り向けば見慣れた顔で、彼はエクスロスから連れてきた兵士である。

 エクスロス領での普段の訓練ではハイマも飛び込んで一緒に馬鹿騒ぎしていることもあるのだが、こと戦場に至ればその立場の違いは明確だ。


「水をもう一樽ひとたる、使ってもよろしいですか」

「手当てか」

「はい」


 戦場において、水や食料の調達は簡単ではない。近くに川が流れていたりするなど、場所によっては容易に補給できる場合もある。だがクレプト領は乾いていて、とてもではないが水の補給などすぐには望めない。

 あらかじめ運んできて補給庫に備蓄びちくしてある水や食料を計画的に使いながら戦うことになる以上、一日に開けていい水樽の数は定められている。だがこうして怪我人が出た場合、できるだけ綺麗な水で手当てすることは必要不可欠だ。傷が元で病を発し、最悪死ぬことだってある。


「わかった、いいだろう」

「ありがとうございます」


 ハイマがうなずくと、兵士は頭を下げて補給物資が置いてある場所まで走って行った。あっという間に見えなくなるその背中を見つめながら、ハイマは腕を組んで考え込む。

 思ったよりも補給物資の減りが早い。まだ補給庫には余裕があるだろうが、補充の算段をしておいた方が良いかもしれなかった。


「……いっそ、総攻撃でも仕掛けるか?」


 一番手っ取り早いのは、この戦いを終わらせることだ。終わってしまえば補給も必要ない。相手を叩き潰して、オルキデの総司令官の首を取ってしまえば終わる。

 できないことはないだろうと、ハイマは数度のぶつかりあいで確信していた。本気で終わらせるつもりがあるのならば、こちらの被害も度外視して総司令官の首一つだけを目指して敵陣に突っ込めば可能だという目算だ。


「不穏なことをおっしゃらないでください」

「なんだ、聞いてたのか」

「聞こえてしまいましたので」


 独り言のようにつぶやいた言葉に、返事があった。考え事をするときの癖でうつむいていた顔を上げると、苦笑交じりにこちらを見ている黒い瞳とぶつかる。

 エンケパロスが連れてきた、彼の副官であるカタフニアだ。

 バシレイアではあまり見ることのない黒髪が、乾いた風に揺れている。他人を信用せずそばに寄せ付けないエンケパロスにしては珍しく、カタフニアは彼の隣にいることを許されている。けれどこの男がどういう出自なのか、ハイマは一切のことを知らなかった。

 だが、別にそれを聞こうとは思わない。他人は他人、自分は自分、そういうものだ。


「差し出がましいとは存じておりますが……」

「いや、いい。言ってみろ」


 貴族の生まれではないことは明らかだった。なぜなら、彼には名字がない。

 それでも卑屈ひくつにならずに過ごしているのは生来の精神の強さなのか、エンケパロスというバシレイアでも屈指くっしの後ろ盾があるからか。権力を笠に着て何かを行うようには見えないが、人は見かけによらないということをハイマは知っている。

 躊躇ためらいがちに、しかしはっきりと意志を込めた目で見つめてくるカタフニアの視線をまっすぐ受け止めうながすと、彼は温和な笑みを浮かべた。


「相手の戦い方が少し変わってきたかと存じます。総攻撃は、時期尚早かと」

「ああ、そうだな」


 オルキデ軍の動きが変わってきたことにはハイマも気づいていた。デュナミスの重装歩兵に多大な被害をもたらした二度目の激突を除けば、オルキデ軍はただ愚直ぐちょくに突っ込んでくるお行儀のよい戦いをしていた。

 リオーノが叫んでいた、エンケパロスが対峙たいじした女も姿を見せなかったようだが、あれからしばらくしてまた動きが変わった。敵を誘導し、だまし、打ち取る。そんな戦争らしい戦い方になってきている。

 それは敵の総司令官が学習しているというよりは、策を考える頭が総司令官から変わったと考えるべきだろう。


「お前は見たか?」


 何をと問わないまでも察するのは、さすがにエンケパロスに仕えている者だからだろう。カタフニアは言葉の裏側を読み取るのがうまい。

 エンケパロスは口数も少なければ表情も変わらない。そんな彼の言葉の裏側を読み取ることと比べれば、ハイマの言葉の裏側を読み取ることは児戯じぎにも等しいだろう。


「見ました。まるで鳥のようでした」

「鳥、か……」


 黒い服を返り血で赤くよごした、小柄な女。ひらりひらりと戦場を翔び回り、あちらこちらに現れては、その女が多数の兵士を殺したという。二度目の激突でリオーノをおびき出し重装歩兵部隊を見事壊滅かいめつさせた策は、間違いなくその鳥のような女の頭から出されたものだろう。

 そちらに指揮権が移るのか、はたまた今のままなのか。それは分からないが、この戦争がハイマにとって楽しくなってきたことだけは確かだ。お行儀の良い戦いだけではつまらなくて、飽きてきたところでもあったのだ。


「黒い鳥……コローネーだな」


 黒い姿の鳥として、一番に思い浮かぶのは鴉だ。ちょっとでも人の多い街に行けばいくらでもその姿はあるが、近寄れば鴉たちはパッと飛び立ってどこかへ行ってしまう。

 決してハイマの前に姿を現すことがない、目撃はされていても捕らえられない。あの女はまさにそんな鴉だろう。


「さながら血染めの赤鴉コキノス・コローネーといったところですか」

「そうだな。可愛い名前じゃねぇか。なあ?」


 赤く染まった小さな鴉はさぞ美しかろう。

 ハイマはまだ見ぬその相手を思い浮かべて舌なめずりをした。強者との命のやり取りはいつだって至上の喜びだ。


「エンケパロスが戻ったら、俺の天幕に来るよう伝えろ」

「承知しました」


 カタフニアと話し込んでいたこの場所は騎兵部隊が待機している場所だ。ハイマが見るべき本陣は、この場所が最後になる。

 必要な指示は出したのでこれ以上留まる理由はない。身をひるがえしながら最後に命令を飛ばすと、カタフニアは頭を下げて礼の姿勢をとった。


  ※  ※  ※


 エンケパロスがハイマの天幕を訪ねてきたのは、もうとうに日が暮れた後だった。正直に言うならば今から寝ようとしていたので、今この瞬間に来るぐらいなら明日の朝の方がましだった。

 だが、自分の中のルールで生きているエンケパロスにそんなこと言えるはずもない。総司令官と司令官という立場の差があっても、言えることと言えないことがある。そもそも、彼が今帰ってきたとは思い難い。帰ってきて自分の身の回りのことをして、一服身を落ち着けてからハイマの所に来たのだ。それはある意味で、ハイマからの命令がエンケパロスの中でどういう優先順位なのかを伝えてくるものでもある。


(この野郎……。)


 ないがしろにされているなどとは思っていないが、少し恨み言を呟く程度のことは許されるだろう。そもそも口に出していない心の中の声なのだから、何を思っていても自由のはずだ。


「お呼びだとか」

「ああ、うん、そうだな……」


 夜のとばりに包まれたクレプト領は寒い。ぬくぬくとした寝床を敵襲以外で抜け出すのには躊躇いが大きいが、一人だけ寝台に横になって話すなどあまりにも無礼だ。

 ハイマは仕方なく駄々だだをこねる体をなだめすかして寝床を抜け出て床に降り、掛布かけふにしていた分厚い毛布を体に巻き付けて暖を取る。慣れているのか、エンケパロスは肩から毛皮を一枚かけているだけの軽装だ。その姿は寒々しくて、見ているだけで震えてくる気がした。


「次の戦い、こちらも少し仕掛けようと思ってんだ」

「具体的には?」

「伏兵だ」


 古典的な策だが、用いやすくかつ効果的な策でもある。幸い戦場には大きな岩場がいくつかあり、小隊であれば身を隠す場所には事欠かない。エンケパロスは相変わらず感情の読めない顔で空中を見つめていたが、ややあってわかりました、と頷いた。

 彼の中で、何らかの計算が終わったらしい。


「油が無駄になるので、詳細は明日またお聞きします」


 顔色一つ変えずにしれっと言うエンケパロスに、それなら最初から明日の朝に訪ねて来たら良かっただろうなどと言うのは自殺行為だ。

 ハイマにできるのは、ぜひそうしてくれと言いながら笑顔で彼を見送ることだけである。天幕から去る彼の背中を見送った後に溜息を一つ吐くくらいは、きっと許されるだろう。

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