17 血塗れ鴉は荒野を翔ぶ
タンフィーズ荒原はいつでも乾いた風が吹いている。ここから繋がるバシレイアのクレプト領も決して肥えた土地ではないが、それでも
それすらもないオルキデにとって、確かにバシレイアの領地というのは喉から手が出るほど欲しいものではあるのだ。けれど建国から七百年、ついぞ土地を奪えたことはない。
「……聞きたいことがあります、騎士団長」
「なんだ
鴉とアスワドが戦場にやって来て、二ヶ月。劣勢であった状況は少しずつであるが拮抗へと向かおうとしていた。
そんな中、
彼は護国騎士団長である。国を護るものである。それが何故このように国を危険に
鴉は女王のものである。女王を護るものである。では、国を護る護国騎士は。女王を護ることが国を護ることとまったくの同義ではないのは事実だが、決して女王を
「なぜ、陛下の許可を待たず勝手な布陣を?」
「勝手? そうか、勝手と見るか大鴉」
バラックは鴉の問いに
彼が嘲ったのは、鴉か、あるいは別の何かなのか。
ただその笑みから読み取れたのは、決して何も思っていないわけではないと、ただそれだけのことである。
「戦争し勝利することこそ陛下の、ひいてはオルキデのためであろう?」
その戦争を女王が望んでいないとしてもですか。
鴉はバラックにそう問いたかったが、その言葉は呑み込んだ。
これがオルキデのためである。バラックのその言葉に嘘はない。彼は心底そう信じていて、信じているからこそ戦争を始めた。それが正しいとも間違っているとも、誰にどちらと断じられようとも、おそらく彼はそれを曲げることはない。
「この乾いた国で、飢えて死ぬ人間がどれだけおる。それを救おうと思うのなら、バシレイアの土地を手に入れる他ないではないか」
富めども飢える国。
鴉とてお腹いっぱい食べた、と言えたことは一度もない。もっともそこまで食べることに執着してはいないが、オルキデにはそういう人間の方が多い。石を投げて当たった人間にお腹いっぱい食べたことがありますかと聞いてみれば、おそらく誰もが「否」と返事をする。
オルキデというのはそういう国だ。人は乾き、飢え、身分が下の者から死んでいく。
「ラベトゥル公爵が言ったのよ、陛下もそれをお望みですと。だから仕掛けたまで」
バラックの言うラベトゥル公爵を思い描く。オルキデにありながら、肥えた人間。太鼓腹を揺らして薄気味悪い笑みを浮かべる男。
一体いつからラベトゥル公爵は女王の代弁ができるほど偉くなったのだろう。まして国を支える柱の一本である護国騎士団長を動かせるほど。
確かにバラックはラベトゥルの派閥であるラマーディ侯爵家の人間ではある。ただ、だからといって、たかが公爵でしかない男が身勝手に動かし、そして戦争を始めさせて良いはずがない。
「陛下の望み、ですか」
こんなものをリヴネリーアは望んでいない。ただそれを鴉が言ったとて、一笑に付されるだけだろう。
もう後戻りはできない。神が
「そうよ。だから我々には勝利する他ない。自ら仕掛けた戦争なのだからな」
やっぱり止めますと言って止められるものではない。兵士は死んだ、敵も殺した。立ち止まって
本当は分かっているのではないですかと、バラックに鴉が聞くことすらも許されはしないのだ。女王が「止めよ」と命じることができないのもまた当然のこと。たとえこれが間違いであったと気付いたところで、バラックはもうその足を止められない。
ラベトゥル公爵に踊らされたのだとしても、戦場においてその責を負うのは総司令官であるバラックだ。
「そうでしたか」
「ああ。何か異論が?」
「いいえ」
誰の思惑が絡んでいようと、鴉が何を思おうと、既に道は定まった。女王の望みは戦争を終えることである。
仮面の下で目を閉じる。鴉は人間であることを捨ててはならないが、感情というものはどうにも邪魔だ。
「
落ちていった言葉は、誰にも聞き咎められることはなかった。
今すぐではないのだとしても、彼とはさよならだ。アヴレークが彼を、要らぬと断じたのだから。
※ ※ ※
ちょうど南の一番高いところに太陽は昇り、ぎらぎらと輝いている。足元の影は短くなり、鴉にとってはあまり望ましくない時間帯だ。けれどエデルの言った時間帯までは近く、彼女が提案した策を用いるのならば今しかない。
岩壁を見上げ、それから近くにいた雛鳥を伝令に出す。頃合いを見計らって火を放ち、敵を焼く。
結局
「討て! 一人でも多く敵を討て!」
バラックの叫ぶ声が響き、兵士たちがそれに応じる。オルキデもバシレイアもぶつかりあった部隊は歩兵が主であり、大地を踏みしめて武器を振るうものたちが互いに刃をぶつけ合う。
鴉もまた目の前に現れた白刃を避けて、
バラックを狙った敵兵が数人まとめて薙ぎ払われ、地面に落ちて荒原に赤が吸い込まれていく。乾いた大地は水でもない血を、それでもと吸収しているようでもあった。
一人、二人、三人、途中で数えることは止めた。血と
今のところ、敵の総司令官の姿はない。徐々に徐々にオルキデ側が押しているような状況ではあるものの、ほんの少し違和感がある。
敵の戦法が、あまりにも単純だ。そして、重装歩兵も騎兵もいない。
調子を上げて敵兵を
また一人
兵を伏せておくのならばどこに伏せる。岩場はある、もう少し先に行けば兵士が隠れられそうな大きな岩場。
嫌な感覚が過ぎり、近くにいたエヴェンに合図をしてから影へと沈んだ。そのまま影を繋げて抜けた先は岩山の上。同じように移動してきたエヴェンが、エヴェンからさらに合図を受けた雛鳥たちが、次々に岩山の上に姿を見せる。
平原の戦場からは見えない高い岩山の上に、鴉たちが並んで戦場を観察する形になった。
「別部隊の状況はどうだ。敵の総司令官は」
「西はおりませんでした」
「東もおりません」
別の戦場においても、総司令官の姿はない。これが後方で指揮を執るのを常としているのであれば何も違和感はないが、相手は前線で戦い雛鳥も屠ってきている。となればおとなしく後方に引っ込んでいるとも思えない。
バラックたちは更に敵を追っている。少しずつ後ろへと下がるようにしている敵の動きに誘われるように、敵陣深くへ。
「……まさか」
バラックたちに前に出すぎていると言う者はいない。
騎士団長のいる部隊だけが敵陣の中に突っ込む形となった。上から見ていなければ気付かないだろうが、徐々に包囲をされる形になっている。地上で気付かないのは敵を押していると、好機であるという思い込みのせいだ。
兵士を犠牲にしてでも、バラックを誘い出す。そうして誘い出された後に何が起きるのかと言えば。
「かかれ!」
鋭い命令の言葉と共に、大きな岩の影から次々とバシレイアの兵士が飛び出してきた。その数は決して多くはなく、数にして四十程度といったところか。けれどそれは一つの岩陰から出てくる数というだけで、別の岩陰からもまた同じように兵が現れる。
平原にごろごろと転がる、人が数十人隠れられる大きな岩は七つほどある。
そして最も大きな岩の影から最後に現れた中に、槍を手にした上から見ていても目立つ姿が一つ。髪と同じような赤い色のマントをはためかせた、鴉のところから見ていても一際大きいと分かる存在。
「総司令官自ら、か」
一直線に男はバラックたちのところへと向かう。それに続くようにして、伏せられていた兵士たちも向かっていく。
薙ぎ払い、突き刺し、振り下ろす。その基本的な動作すらも一つ一つが鋭く
精鋭ではないものを前に出し、深いところまで誘い込む。そうして誘い込まれて孤立した敵を精鋭で取り囲み、
蟻地獄の罠に自ら飛び込んだ愚かな蟻の如く、引きずり込まれて後は喰われる瞬間を待つばかり。
戦場は鴉たちが
「これより、
数名が影へと沈んだ。鴉は短剣を持ち、そのまま岩山を岩から岩へ跳ぶようにして駆け下りていく。同じように雛鳥たちも後に続き、黒い影が岩山を飛び交う。
そして中腹から、戦場へと飛び降りた。
「この戦場を喰い荒らせ、
次々と黒い影が翔ぶ。鴉たちが陽光を遮るように翔び、黒い羽根が舞い上がる。短剣を構えて、落ちる勢いに任せて一人の首を狙う。
戦場は赤い。黒い鴉が赤く染まる。一人を討ち、返す刃でもう一人。バラックの場所を確認するように周囲を確認し、そちらへと駆け出した。
バシレイアの総司令官は兜に
そこらの雑兵など相手になるはずもない。
「かかれ! かかれ! そこから
怖気づいて逃げ出そうと武器を放り出して敵の総司令官に背を向けた兵士を、騎士の一人が斬り捨てた。血飛沫を上げて地面に倒れ伏して動かなくなった味方を見て兵士たちが恐怖に顔を引きつらせる。
前に行けば
「雛鳥!」
あちこちで声が上がる。武器のぶつかり合う音がする。ここにいるのは何人で、何人が死んでいて何人が生きている。そんなものの確認は後でいい。
バラックのところまで駆ければ、彼はちょうど二人を切り伏せたところだった。彼の背後から迫った刃を弾いて退け、その兵士の首へと短剣を突き立てる。ふわりふわりと鴉は身軽に舞い踊り、そして血を浴びる。
血に塗れ、砂埃に塗れ、それでも鴉は翔ぶしかない。足を止めれば死ぬだけだ。
「まもなく頃合いだ、撤退しろ! 息を止めろ、騎士団長!」
文句はあるかもしれないが、そんなものは後で聞く。
敵の総司令官の兜の下から覗いた鋭い眼光が、鴉をその視界に捉えた。彼がこちらに駆けてくるよりも前に、バラックを待機していた雛鳥と共に影へ沈ませる。
「焼け死にたくなければ、撤退しろ!」
矢が飛来する音が鴉の耳に届いた。バラックに策は伝えてあったが、彼はどこまで兵士たちにそれを
そうして、風向きが変わる。暖まった岩壁が、風向きを変える。
ごうと燃え上がった炎は戦場を焼き、辺り一面が火の海へと変わった。鴉はそれを眺め、そして自らも本陣へ撤退しようとする。
バシレイア軍総司令官ハイマ・エクスロスが炎を踏み越え、そして鴉に迫り来るのは、この直後のことであった。
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