15 カムラクァッダ神殿の薄紅兎

 シュティカの北門から少し離れた場所、土レンガで作られた四角い建物が立ち並ぶ中に、突如とつじょとしてその神殿は現れる。つくりはシュティカとほとんど変わらない。ただ真っ白ではなく灰色で、大きさも小さくところどころひび割れすらも入った柱が並んでいる。似たようなつくりであるからこそ、この神殿の古びた部分は目についた。

 手前にある祈りの間には目もくれず、鴉は人の立ち入らない神殿の奥へと足を進める。神殿に仕える神官の世話役である老女が隅に控えて頭を下げた。

 奥の庭、神官たちが暮らす部屋の手前にそう呼ばれている場所がある。シュティカの祈りの間のような眩しく輝く光ではなく、柔らかな光が差し込むその場所に、一つの丸いテーブルが置かれている。淡い黄色の神官服を身にまとった少女が一人、頬杖をついてテーブルに広げた地図を眺めていた。


「エデル」


 柔らかな光に照らされた髪は薄紅色。東の国で春先になると一斉に開花する花の色と同じだと、アヴレークが形容していた。名前を呼ばれて、彼女は丸い真紅の瞳を鴉に向ける。

 その顔立ちは砂糖菓子のように甘い。甘い菓子やひらひらふわふわしたリボンやレースが似合いそうな顔立ちをした彼女は、けれどその顔に似合わない不機嫌そうな表情を浮かべていた。

 エデル・イェンシュはその服装の通りにカムラクァッダ神殿の神官である。彼女は少々特殊な立ち位置にあって、こうして鴉やアヴレークと共謀きょうぼうしていた。


「大鴉、やはり無茶が過ぎると思うけど」

「そうだろうな」


 彼女の向かいにある椅子を引き、どうするか少し迷ってから腰を下ろす。彼女は表情を消し、鴉が座ったのを確認してから再び地図に視線を落とした。

 垂れた兎の耳のような、耳の上の高い位置でそれぞれ結った髪が揺れている。


「とりあえず見てよ」


 とんとんと人差し指で叩かれた場所は、国境よりも東側の開けた場所。見通しが良く敵の接近には気付けるだろうが、四方から取り囲まれる恐れのある場所でもある。


「現在のオルキデ軍の本陣はここ」


 次に指先は西側、国境を越えた反対側を示す。オルキデ女王国からバシレイアに向かってはゆるやかに高くなっていっており、クレプト領はタンフィーズ荒原よりも高いところに位置している。

 なだらかな山岳の途中、少し荒れた指先が示した場所。


「バシレイア軍の本陣はここ」


 高さを考えれば、バシレイア軍が上にあり、オルキデ軍は下にある。それだけでもオルキデ軍の方が不利である。

 ただ、こればかりはどうしようもない。元々オルキデ側の方が低くなっているのだ、ならば不利は不利なりに戦いを運ばなければならない。

 勝利を、したいのならば。


「タンフィーズ荒原は基本開けた荒地だけれども、この辺りは岩山が隆起りゅうきしていて、幅が狭くなっている。そしてここからバシレイアに向かって、徐々に標高が上がっていくんだよね」


 エデルがかたわらにあったガラスペンを手にする。

 オルキデにおいて、硝子ガラスはそこまで重要視されるものではない。貴族の中には「宝石のまがいもの」などと口にする者もある。

 硝子の産地はクエルクス地方、ラヴィム侯爵の領地である。オルキデ唯一の穀倉地帯であるクエルクス地方は、その代わりに宝石のある鉱山が存在しない。それゆえに、かの地では硝子の技術が発達した。

 エデルの手にしたガラスペンも、クエルクス地方のどこかの工房のものだろう。透明なガラスのペン先は捻じれたような形をしており、柄の先にはウサギの装飾。ぐるりとエデルが円を描けば、ウサギが揺れた。


「ここを抜けるのなら、相手を自分の側に引きこんで叩いてからだな」

「それがいいと思うんだけどね……騎士団長はそれをしないから」


 狭い場所で戦うというのは、気を付けなければ不利になる。自分たちが兵を展開できる範囲が狭く、相手の方が広いとなれば、当然それは自分たちが不利になることだ。相手にとっては単純に、出てくるものを順番に叩けば良くなる。

 どうにもバラックは「待つ」ということが苦手らしい。自分が戦う分には相手を見ることができるというのに、どうして用兵となるとそれが途端にできなくなるのか。


「いいの?」


 ふと、エデルが地図から顔を上げた。

 どこか見透かすようなその視線に、仮面をきちんと被っていただろうかと鴉は自分の顔に触れる。慣れ親しんだ硬い感触がある。そもそも視界が狭いままなのだから、確認するまでもないのだが、不安になった。


「何がだ」

「貴女が使える駒は少ない。アスワド・アルナムルがいても……あの人は一応陛下の味方だけど」


 その口ぶりには、アスワドに対しても手放しで信用しているわけではないというのが滲み出ていた。

 今この国において、『女王の味方』と呼べるものはひどく少ない。誰もが利益を求めている、自分自身というものを殺せはしない、別にそれを否定するつもりもない。ただ、リヴネリーアがそのことでこの国をうれいているというのもまた事実なのだ。


「あともう一人。護国騎士唯一の平民、リトファレル・メルナク。補給庫に配置されている彼を引っ張り出せれば、だけど」


 貴族ばかりの護国騎士にあって、最年少で騎士となり、天才とまで呼ばれた者がいる。まだ年若い彼は貴族のしがらみというものはない。

 エルエヴァットにあってもリヴネリーアがよく護衛として指名しているくらいだ。女王からの信頼がどれほどのものであるかは、そこから推して知るべしである。


「多く見積もってせいぜい千五百人程度だね。味方すらも味方じゃない状況で、戦況をひっくり返して拮抗に持ち込もうと?」

「そうだ」


 ふうん、とエデルは再び地図に視線を落とす。彼女のつむじと、綺麗に整えられた髪の分け目が見えた。

 この髪型は嫌なんだよね、などと言いながらも、彼女はそれを解こうとはしない。神官の世話をする老女がことほかエデルのこの髪型を気に入っているらしく、文句を言いながらもエデルは老女の意見を尊重している。


寡兵かへいで戦うしかない状況ともなれば、できることは限られるよ」


 相手は一万七千、それにたいして使える駒はたったの千五百。それも多く見積もってであるのだから、実際にはもっと数が減る。それだけの手駒でどう劣勢をくつがすか、となればできることは限られる。

 方法がないわけではない。ただ、壊滅かいめつする可能性も同時にはらんでいるというだけで。


「そもそも夜襲やしゅうをする気はないんだよね? 寡兵で戦うなら夜襲か遊撃戦が効果的なんだけど」


 それは鴉とて理解しているし、本来鴉たちはそちらの方が得意だ。戦況の報告からこの三ヶ月間、バラックがそれをしていないのも事実。

 相手は夜襲を仕掛けてきてはいない。夜襲に適した部隊がいないのか、そもそも仕掛けるつもりがないのか、どちらなのかは判然としない。別にそこに合わせるつもりではないが、ただこれはという鴉のちっぽけな矜持きょうじだ。


「分かっている。ただ……そこは相手も理解しているところだろう」

「警戒はしてるだろうね」


 劣勢となって夜襲をしかける、というのはよくある話だ。

 どうしても夜は暗く、兵士も疲弊ひへいしている。そこを鴉たちに襲撃されればどうなるか。この三ヶ月そういったことがなかったからといって、相手の総司令官が油断するとは思えない。


「本当は相手が備えて準備を終える前に仕掛けたいところだけど」


 本来寡兵で戦う場合、相手より先に準備を終えて仕掛けるのが定石じょうせきだ。

 ただ今回の場合、陣の位置が悪い。バシレイアの方が高い位置に陣取っており、オルキデは隠れる場所もほとんどない開けた荒原に陣がある。となればバシレイアの陣からオルキデの陣は監視しやすい位置となる。


「平地で戦うな、敵の意図にはまるな、隙がないのなら疲弊させるしかない。なかなか厳しいと思うけど」

「あの荒原で平地でないところを探す方が難しいな……兵を伏せる場所はあるが」


 タンフィーズ荒原は平地ではあるが、岩場も多い。ごろごろとした大きな岩がいくつも積み重なっているところや、土地が隆起することで岸壁となっているところもある。西側から隠れるように兵を伏せておけば、バシレイア軍が平地に降りてきてしまえば発見は容易ではない。

 かつかつとガラスペンのウサギでエデルが地図を叩く。赤い目をしたガラスのウサギの顔は、どこかエデルに似ていた。


「……大きく仕掛けるのなら、この辺り」


 彼女が示したその場所は、国境の付近。岩山そびえる狭くなった場所。

 岩壁のあるその場所は、比較的風の強い場所だ。


「この辺りは、この東側にある岩壁が暖まった瞬間に、風向きが切り替わる。そもそも風は気温が低い方から高い方に吹くからね。太陽が上りきって少ししてから一瞬風がいで、風向きが逆転する。向き的にはこうだから……うまくいけば敵を焼けるとは思う」

「数を減らすことを考えれば、やはりそれが一番良いか」


 即座にできる策ではない。火矢の準備、敵を引き込む準備、とにかく準備に時間がかかる。けれどその分の見返りは十分に期待できる策だ。

 すぐに取り掛かれるわけではないだろう。ある程度そこまでにくつがえしておいて、仕掛けるのならばそれからか。

 ただ留意りゅういすべきは、味方も無傷というわけにはいかない策というところだ。敵だけを狙って火を放つというのはなかなかの難題で、それならある程度交戦してから退く指示を出し、撤退てったいしきるのを待たずに放つ方が手間はない。

 撤退が遅れた味方は当然焼かれる。けれど大局を見るのならば、その犠牲にも目をつむるしかないのだ。


「敵がせいぜい千か二千なら五百でも勝つ術はあるよ。せいぜい四倍程度だから。ただこれがもっと差があると、どれだけ策をろうしても無意味になる」


 果たしてその場に一万七千のうち、どれだけが出てくるか。戦場というのは一つではなく、後方で補給路を確保することも必要だ。となれば一万七千すべてがその場に集結するということはない。

 鴉が千五百をそこに集結させることはできる。ただその千五百に対して相手の実数がどれだけになるか、というのが未知数だ。


「戦争を終わらせるだけなら、最も手っ取り早いのは敵将の首をること。総司令官の首を獲ればいい。でもそれは陛下の本意じゃないからね、その方法は使えない。使えるのなら鴉たちが全力で獲りに行けば獲れるかもしれないけど」


 鴉にはズィラジャナーフの加護がある。影から影へと移動して、相手の背後を取って奇襲をかける、それは鴉にとっては得意とするところだ。断じて『女王の鴉』というのは暗殺者の集団ではないが、そう言われてしまうのはこの辺りが理由だ。

 夜になれば、鴉たちは翔びやすい。宵闇よいやみに紛れ、どこからでも現れる。


「ただそれも、分の悪い賭けだね」


 かつかつと再びエデルはウサギで地図を叩く。なんだかガラスのウサギが困った顔をしているように見えた。

 しばし二人で無言のまま地図を眺める。

 女王の望まぬ宣戦布告だったとて、バシレイアにはそんなものは関係ない。彼らにとっては等しく「オルキデが仕掛けてきた戦争」であり、誰の思惑か、ということなど知る由もない。それを言ったところで言い訳にしかならないものだ、何の意味もない。

 柔らかな光は奥庭を照らしている。カムラクァッダ神殿の薄暗い祈りの間よりも明るいこの場所には緑があり、小さな白い花も咲いている。熱砂の国にあまりにも似合わないこの庭の様子には、頭の中が麻痺まひしてしまう。


「二人とも、お悩みかな?」


 間延びしたアヴレークの声に、鴉とエデルはそろって顔を上げた。足音を立てて奥庭に入ってきたアヴレークは席を譲ろうと立ち上がりかけた鴉を片手で制し、テーブルに近寄ってきてそこに腰を下ろす。

 行儀が良いとは言えないその行為に、鴉は思わず仮面の下で眉をひそめた。


「閣下、そこは椅子ではありません」

「いいのいいの、細かいことは気にしない」

「気にしてください」


 テーブルに腰かけたまま、アヴレークは地図を眺めている。彼は鴉の言うことなど右から左で、まるで気にした様子はなかった。

 気にしてくれと鴉が言ったところで、彼はそれを聞き入れることはない。のんびりとした口調のまま自分の意見を通すのは日頃と何も変わりはない。


「それで? 君たちの結論はどうなったかな?」


 エデルがまた、ガラスのウサギで地図を叩く。

 丸をつけた国境付近の岸壁、風向きが変わるところ。有効な策としてはやはり火を放つことだろう。ここが荒地であり、焼いても後々影響が出ないというのも一つの理由だ。


「ある程度大鴉とラヴィム侯爵で敵を引き出してから、この辺り――この岩壁の風を利用として火を放つのが現実的ですね」

「ああ……ここか」


 ふむ、とアヴレークが顎に手を当てて考えるようなしぐさをする。彼はひょいとテーブルから飛び降りて、今度はテーブルに手をついた。


「何ヶ月でにその場を整える?」


 アヴレークが試すように鴉を見ていた。迂闊うかつなことが言えるはずもなく、鴉は少しばかり考える。

 時間はそれほどない。けれど短すぎても失敗する。


「……三ヶ月。三ヶ月で、整えます」


 無責任なことが言えるはずもなく、長めの期間を口にした。三ヶ月、今こうして劣勢になるまでと同じ時間でもある。同じだけの時間をかけて、劣勢から拮抗まで状況を立て直す。


「良いだろう。ラヴィム侯爵とはきちんと共有しておくようにね。あとは、こちらとの連絡はいつも通りかな」

「はい。陛下と閣下には雛鳥を。エデルとはいつも通り鳥を」


 そう告げれば、エデルは指笛を一つ鳴らした。甲高い音が響き渡り、しばらくしてから彼女の側にシロオオタカが一羽舞い降りてくる。

 このシロオオタカが、エデルと鴉の連絡手段だ。神殿内にいるエデルに対して影での伝達は使えないこともあり、こうして彼に頼っている。


「さて、大鴉カビル・グラーブ


 深緑の目が鴉を射貫く。アヴレークは柔和な笑みを浮かべているのに、その眼光だけは射貫くように鋭い。

 そこにやさしさなど微塵もなかった。


「敵を殺すことに、加護を使うことを許可しよう」

「……本気ですか」

「それで虐殺ぎゃくさつしたりはしないだろう?」


 加護というものは、バシレイアにはない。魔術などというものはバシレイアでもオルキデでも一部を除いて遠い昔に廃れて消えて、今は泥臭く戦うことしかない。

 その中にあって、加護というものは異質だ。だからこそいましめのために、鴉たちは攻撃に加護を使うことをしない。情報伝達のためだけに影から影へと移動して、戦うとなれば逃げる時に使うくらいのものだ。


「かしこまりました」


 鴉は否を口にしない。

 虐殺などしない。ただこの劣勢を覆すのみ。そのために使えとアヴレークが言うのならば、その意向には従うまでだ。

 許可があるのならばできることの範囲は広がる。遊撃とて使わないよりも効果的に行えることだろう。


「閣下、他にご命令は」

「そうだねえ、もう一つ」


 アヴレークの顔から柔和な笑みが消える。

 そして浮かべた薄い笑みは、どこまでも冷徹れいてつ冷酷れいこくだった。


「護国騎士団長バラック・ジャザラを、バシレイアに討たせるように。ラベトゥルに従い陛下の意向に従わないような者は、必要ない」


 見捨てろ、殺させろ。あんなものは要らない。

 彼らがそう決めたのならば、それでいい。国を護れない護国騎士団長など不要なのは事実なのだから。


「……仰せのままに」


 立ち上がり、頭を下げる。

 柔らかで穏やかすぎる庭の中、頭がくらくらする。テーブルの上に転がったガラスのウサギだけが、その柔らかな光を見つめていた。

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