13 もう一度だけの機会
天幕の中、ハイマはリオーノと二人きりで向かい合っていた。何も彼と内密に話そうと思って二人きりなわけではない。この場に本来在籍すべきエンケパロスが、自ら薬の買い付けに出かけてしまっていて不在なだけだ。
必要最低限の報告をハイマにした後引き留めるのも聞かずにさっさと陣を離れたエンケパロスは、ひょっとするとこの場にいたくないから理由をつけて出て行ったのかもしれない。そうハイマは
いつまでも押し黙って時間を
率いていた兵士の大半を岩山の下敷きにしておいて自分は腕を少々傷つけられただけで済むとは、大したものだ。ついついハイマは皮肉げに
惜しむ暇もなくあっさりと奪われる命もあれば、首を傾げたくなるぐらいしぶとく繋がれる命もある。戦場の死神は空気を読んで欲しいものだと、ハイマは信じてもいない神様に
「何を言われるかは分かってるな?」
次々に浮かんでは消える
「申し訳ありません。敵の首さえ取れていれば……!」
悔しそうに顔を
重々しい
「お前じゃ相手にもならねぇだろうさ」
果たして何から言うべきか悩んだ挙句、ハイマは手始めにどうでもいい話題から手を付けることにした。
まだハイマはこの作戦を立てた指揮官と遭遇していない。もう少し早くあの少年を振り切れれば出会えたかもしれないが、あの少年もまた中々に手ごたえがあった。楽しかったので、それはそれでよしとする。
「どうしてですか! あれはただの小さな女でした! あんな相手に負けはしません!」
女だったのか、と、ハイマは初めて指揮官の性別を誤解していたことに気づいた。エンケパロスから先んじて受けた報告では、小柄であることしか外見の特徴は伝えられていない。だから深く考えず脳内に男の姿を描いてしまっていた。
リオーノが性別を勘違いしているとは思いにくいので、女性の姿になるよう頭の中に浮かべた姿を修正する。
「エンケパロスが殺せなかった相手だ、お前にできるわけねぇだろ」
例え相手から
だが当人はそうは思っていないのか、ハイマの言葉を聞いて胸を張った。
「俺ならできます! 次に会ったらこの傷の恨みをぶつけてやる!」
「はあ……」
エンケパロスがこの場にいなくて何よりだったと、ハイマは心底思う。
これではまるで、リオーノがエンケパロスを下に見ているようではないか。エンケパロスは当主であり、リオーノよりも一回り以上年上である。戦場で普段の上下関係がそのまま適応はされないのは総司令官だけだ。
淡々として何も気にしていないように見えて、エンケパロスはそういった上下関係には厳しい。誰かに心を傾けることをしないので、よく言えば
「まあそんなことはどうでもいい。お前、どうして俺の命令を無視した? 俺は
「追撃の機と見ましたので」
「その判断をするのはお前じゃねぇ、って言ってんだ」
怒りが相手に伝わらないことへの苛立ちは計り知れないのだと、ハイマはこの戦争で痛感した。何を言ってもひらりとかわして別の論点にすり替えられる。リオーノにすり替えている自覚がないのが厄介だ。
彼は自分はこう思って行動したのだ、それは間違っていない。彼はそう胸を張っているだけなのだから。どこからその自信が湧いてくるのか、ハイマは心から理解できないでいた。
「その勝手な行動で多くの兵士が死んだ。お前を前線にはおいておけねぇ。本来なら責任取らせて首切るとこだが、戦争はまだ始まったばかりだ。士気を下げても仕方ねぇ。補給庫にいろ。物資の輸送も許さねぇ。いいな」
何が間違っていたのか
本来戦場での命令違反は、その程度にもよるが
補給庫に缶詰めにしてリノケロスに
リオーノが不服そうな顔をしていることには気づいていたが、知らない振りをする。ハイマは席を立ち、完全に彼から背を向けた。何か抗議したそうに彼は
「めんどくせぇ……」
ハイマは地の底にまで響きそうなくらいに重い独り言を漏らした。折角面白くなってきたというのに、身内に敵がいるのでは気分も上がらない。命令違反者など味方ではない、敵と同じだ。
何となく先ほどより重くなった気がする体を引きずるように持ち上げて、ハイマは兵士たちの様子を見るために天幕を出た。
※ ※ ※
本陣から馬を飛ばして数時間。エンケパロスの姿はクレプト領の中で最も戦地に近い街にあった。
戦場は常に死と血の臭いが
返事を待たずに扉を開けるとカロンと涼やかな鐘の音が鳴る。
「いらっしゃいま……え、あ……ご当主様?」
まさかエンケパロスが直接来るとは思っていなかったのか、笑顔で客人を出迎えたカナンの表情が驚きに彩られていく。片手をあげて彼女に
ぱたぱたと軽い音を立ててカナンがカウンターから出て駆け寄ってくる。いつもと変わらない花緑青色の髪が揺れていて、どこか
「ご無事ですか? どこか、お怪我は……?」
「問題ない」
心配そうなカナンにそっと首を振る。
残念なのか幸いなのか、エンケパロスに手傷を負わせられそうな相手とはまだ出会っていない。先んじて現れたあの黒い女だけは
誰もがエンケパロスの強さを知っているからか、そうそう心配などされない。けれどもカナンは
「追加ができたと聞いた」
「はい。今お持ちしますね。少しだけお待ちください」
世間話の一つでもすれば、心配そうなカナンの気も
だがカナンは気にした様子もなく、店主としての顔をしてカウンターの奥にある部屋へと戻っていった。あの向こうに何があるのかを聞いた時、カナンは「
「こちらです」
「ああ」
ぼんやりと待つほどの時間もなく、カナンが袋を抱えて戻ってきた。袋に入った傷薬は受け取るとずっしりとしていて、かなりの量を作ってくれたことが伝わってくる。
材料などを新たに買い付けたり、採取しに行ったりしたのだろうか。そういえば服の
「料金は請求を送ってくれ。後で払う」
「わかりました。ご当主様宛でよろしいのですか?」
「ああ。
今回の分も前回の分も、エンケパロスはクレプト家として払う気は
国全体の危機なのだから他の領地も負担すべきというのがエンケパロスの意見で、内部で割れるならまずは国庫から出せばいいと思っている。その後、その
王が出し渋るなら、勝手に金庫を開く心づもりだ。
「まだ戦争は、続くのですか……?」
「多分、な」
不安そうなカナンの頭を撫でようとして、エンケパロスは己の手が色々なもので汚れていることに思い至る。結局その手を止めて、代わりにこわばった表情筋を少し
カナンの瞳は、やはり不安そうに揺れていた。
「大丈夫だ、ここまでは来ない」
エンケパロスは口が上手くない上に、察することも得意ではない。どうしたらカナンの不安を取り除いてやれるかも分からない。
彼女の様子に心を痛めつつも、エンケパロスは立ち上がる。あまり長く戦場を空けてもいられなかった。
「あの、ご当主様……少しだけ、お待ちいただいてもよろしいですか?」
「ああ」
カナンが再びカウンター奥の部屋へと戻っていく。そうしてまた姿を見せた彼女の手には、その白い手に似つかわしくないものが握られていた。
その武器の名前をエンケパロスは知らない。その
「その、差し出がましいようですが、こちらを」
「これは?」
「その……私の
小刀を差し出す彼女の手は震えていた。その手を取って安心させてやれば良かったのかもしれないが、やはり己の手では
それほど重いものではない。これはきっと彼女のために作られたものなのだろう。
「きちんと、返しに来る」
「お待ちしております……どうぞ、ご無事で」
今度こそエンケパロスは薬屋を出るべくカナンに背を向けた。傷薬の入ったずしりとした袋と、それほど重みのない小刀とを手にして、扉を開く。カロンと涼やかな鐘の音が、今度はエンケパロスを見送るために鳴った。
一度だけ、カナンの方を振り返る。彼女は両手を口の前で組んで、少しだけ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます