11 鴉の爪痕
両軍が
ただの岩ならいざ知らず、崩れた岩山の破片は一つ一つが巨大であり、兵士数人がかりでさえ動かすのは容易ではない。できる限り兵士の遺体は回収して家族に返してやるのが慣わしだが、この下に埋もれた兵士たちの遺体は難しいだろう。どれほどかかるかわからないが、停戦した後に掘り起こすしかなさそうだ。
いつ襲撃を受けるともわからない場所で、悠長に岩をどかす作業を進めることは危険すぎた。胸に拳を当て、目を閉じて軽く
「総司令官殿」
仲間の遺体を運ぶ兵士たちの列を見送っていると、エンケパロスが近づいてきた。愛馬は置いてきたようで、ザクザクと砂を踏みしめている。
「どうだ、状況は」
「死者が想定の倍出ました。大損害だ」
「そうか……」
エンケパロスが
率いていたリオーノは腕を負傷したと先程他から報告を受けた。そのまま切り落とされて動けぬ怪我になってしまえば良かったものをと、ハイマはその報告を受けた時に心の中で毒を吐いた。中途半端なことをされると余計にうるさくなって
「リオーノの様子は?」
「知りませんね」
さぞかし
そもそも彼が怪我をしたことを認識しているのかいないのかすらも怪しいかもしれない。エンケパロスというのはそういう男だ。
「そもそも、何をしたやら知りませんので」
「そ、そうか……」
兵士たちの言葉からするにリオーノはエンケパロスの邪魔をしたはずだが、彼に言わせると特別なことは何もなかった、らしい。本気で
どちらにせよ、リオーノは明確にハイマの指示に背いた。
「仕掛け人と思しき相手とやり合いました」
リオーノに苛立ちを覚えていたところでエンケパロスが淡々と口にした言葉を聞き、ハイマは思わず身を乗り出した。
オルキデ軍は初戦のつまらなさから一変し、兵の動かし方も作戦の立て方も何もかもが違っていた。こちらの動きを読み、展開が完了する前に奇襲をかけ、誘導し、そして潰す。そのやり方は非常に効率的で、どんな指揮官が現れたのかとハイマはゾクゾクする心地でいた。
「どんな奴だった?」
生憎とハイマは直接
まだ見ぬその相手を脳裏に思い描こうと、ハイマはわくわくしながらエンケパロスに感想を問うた。エンケパロスは記憶を
「……小柄な、相手でした」
「ほお」
エンケパロスもハイマに負けず劣らず長身である。その彼が言う小柄が世間一般で言う小柄に相当するかどうかは一考の余地があるが、ひとまずはハイマも自分が思うぐらいの小柄な人影を頭に描く。
「全身、黒と赤で、すばしっこい」
「目立ちそうな色だな?」
赤というのは、ひょっとすると返り血で色が変わっていたのかもしれない。そう考えると、黒。全身真っ黒な衣装でも身に
ふと、ハイマは自身の足止めにやってきた少年を思い出す。彼もまた、真っ黒な衣装を身に纏っていた。彼は影からずるりと現れていたのではなかったか。
(魔術、とか言うやつか?)
過去、バシレイアにもそういった不可思議な力を扱う技術があったという。今ではもう遠い昔、
オルキデにそんなものが残っているとは聞いたことがないが、ハイマが知らないだけなのかもしれない。
「地面に沈んでたか?」
「ああ、そういえばそうでしたね」
聞かれて初めてそのことに思い至ったらしいエンケパロスに、ハイマは脱力した。明らかにバシレイアでは見たことのない技術なのだが、エンケパロスにとっては何ら心を動かすものではなかったらしい。
彼が情熱を注ぐものは一体どんなものなのだろうと、ハイマはふとそんなことを考えてしまった。だがそれを問うて答えてくれるような相手ではないので、口に出すことはしなかった。
「他には?」
「他……?」
もっと他の特徴やその腕前はどうだったかを聞きたかったのだが、エンケパロスは心底何を聞かれているのかわからないといった風情で
これ以上聞いても有益な返答は得られないと察して、ハイマはもういい、と首を横に振った。
「傷薬が一気に減って、足りなくなりそうです」
「そうか……補充はできそうか?」
「つい昨日、追加ができたと連絡を受けました。これから受け取りに行ってきますので」
「おう……は?」
いやちょっと待ってくれ、とハイマは許可をもらったと思ってさっさと立ち去ろうとしているエンケパロスを呼び止める。
「お前が行くのか? 直接?」
「何か問題でも?」
いつもの通りの無表情のせいで、エンケパロスの現在の心境がまるでわからない。ハイマは内心で頭を抱えた。エンケパロスは指揮官の一人である。それが、単騎で、ほんの少しの間とはいえ、戦場を離れるのは問題でしかない。
例えばそれをオルキデ軍に察知されて、急襲を受けたらどうするのか。騎兵部隊を率いることができるのは現状エンケパロスしかいない。総司令官であるのでハイマも一応命令権を持ってはいるが、エンケパロスのように騎兵部隊を一糸乱れぬ動きで操ることは流石に無理だ。ましてや、ハイマは歩兵部隊の指揮も取らねばならない。
それだけではない。
急襲を受ける恐れがあるのは何も本陣だけではないのだ。単騎になったエンケパロス自身に特攻をかけられる可能性もある。どういう制約があるのかは今後戦いながら
「問題しかなくねぇか?」
「総司令官殿がおられて滅多なことはないでしょう」
今のエンケパロスの表情は、流石にハイマにも読み取れた。鼻を鳴らして、薄ら笑いを浮かべている。
そんな煽りで火をつけられるほどハイマは青くないが、何を言ってもエンケパロスは行くだろうということはわかる。無理やり命令として制止すれば聞き入れるだろうが、きっとこの先何十年もこの話題で突かれるだろう。
そこまで考えれば、ハイマの答えはこの一つしかない。
「わかった……気をつけて行けよ」
その声は、
※ ※ ※
一方その頃、補給庫ではリオーノがいない穏やかな時間が流れていた。本隊とオルキデ軍衝突の一件はまだ伝わっておらず、見張りの兵士たちはゆっくりと決められたルートを
「戻ってこないな」
補給庫の真ん中で出した物資を帳簿につけて残りを計算していたリノケロスは、すべての計算があっていることを確かめてからさも今思い出したかのように
ただ補給物資を届けて戻って来る、初陣の兵士でもできる簡単なお遣いだ。だというのにリオーノは補給庫へ未だ姿を見せなかった。
「できれば二度と戻ってこなくていいんだけど」
独り言めいたリノケロスの言葉を隣にいたカフシモはきちんと拾い、そして冷たく吐き捨てる。異母兄弟でも仲の良い兄弟はいるが、デュナミス家の兄弟はとかく仲が悪い。カフシモがそもそもこうして戦場に共にいたとてリオーノの面倒を見る気もない、歩み寄る気もないというのは一因だろう。
同じ異母兄弟でも、ハイマとリノケロスは仲が良い方だ。それはひとえにそれぞれの
「あわよくば戦死してほしい、とまでは思わないか」
「いや、思うね」
リノケロスは
ただ単に、対岸の火事だと思って傍観者に
実際補給庫に布陣してからまだ数日だと言うのに、もう二回もリオーノはリノケロスに殴り飛ばされている。結果、彼なりに学習したのかリノケロスには近寄ってこなくなった。小心者は
「そんなことより。長引くと補給も考えないといけないぞ」
カフシモが、リノケロスの手の中にある物資の一覧を覗き込んで顔を曇らせる。
思っていたよりも食料と水の減りが早い。特に水は怪我人の手当てにも使うので多めに確保してあるものの、今後怪我人が増えれば使う量も増える。
この戦争が二、三ヶ月で終わるのであればいいが、それより長引くようであればどこかで補給をしなければならない。それくらいの
「そうだな……」
それもこれもリオーノが馬に無理やり多く積んで馬が怒り、馬が前足を振り上げた拍子に
これが、リノケロスがリオーノを殴り飛ばした理由の一つである。
「近くに補給に出向けそうな場所がないか、エンケパロスに聞かないとな」
頭ひとつ分低い位置にあるカフシモの頭を、ちょうど良い高さだと肘置きにする。文句は言わず、しかし鬱陶しそうに頭を振って腕を払い除けたカフシモが鼻を鳴らした。
いつものことであるので、リノケロスも特に気にしない。
「すぐ近くにはなさそうだが」
エンケパロスが嫌ったおかげで、何もない場所に陣を張ることになったのは記憶に新しい。つまり、少々離れた場所まで足を伸ばして補給しなければならないということだ。
リノケロスはそれに要する時間と兵力と労力を頭の中で計算して、げんなりとした。どう考えても割に合わない。つい二ヶ月か三ヶ月で決着つけてくれるようハイマに言うか悩み始めたてしまったその時、息を切らせて駆けてきた伝令兵が大きな声を上げる。
「本陣において敵襲!」
すっと補給庫全体の空気が変わった。
リノケロスとカフシモはすぐさま伝令兵の元へすっ飛んでいく。襲撃の規模によってはさらに物資が必要かもしれない。ちょんと脇腹を突かれてリノケロスは
にやりと
「願いが叶うかも、な?」
「悪運が強そうなやつだぞ、どうなるか」
未だ戻らないリオーノは、どう考えても迎撃に参加しているに違いない。
あわよくばを期待してかどこか嬉しそうな顔をしているカフシモの頭を、リノケロスは引っ叩いておいた。
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