7 熱砂の国の大鴉

 バシレイア王国の東に隣接するオルキデ女王国の王都は、エルエヴァットという。エルエヴァットはオルキデ女王国の中に地理で言えば東の端の方に位置しており、バシレイアの国境からは遠く、むしろ東の国境の方が近い場所にある。

 その王城の名前は、シュティカといった。まっすぐな柱が何本も立ち並び、精緻せいち彫刻ちょうこくの施されたその建物は、オルキデ女王国中を探してもそれ以上に荘厳そうごんなものはない。


「やあ、大鴉カビル・グラーブ


 シュティカの奥まったところは、女王の内廷ないていである。ここは女王と王配が私的な生活をする場であり、謁見えっけんの間などがある外朝がいちょう部分の絢爛けんらんさはなく、どこかひっそりと静まり返っていた。

 その内廷の一番手前に、『鴉の巣グラーブ・ウッシュ』はあった。その扉を叩くこともなく開けた臙脂えんじ色の髪をした男を見て、鴉は即座に立ち上がる。


「閣下」


 臙脂色の髪を後ろに撫で付けた男は、その名をアヴレーク・イラ・アルワラといった。目尻には笑顔によってできたしわ。重ねた年月を感じさせる容貌ようぼうは、人に柔和な印象を与えている。裾の長い服は一見暑そうに見えるかもしれないが、風通しの良い素材で作られているため見た目ほどではない。

 アヴレークは机の上にあった書類をざっと見て、鴉が何をしていたのか把握したらしい。


「陛下のところへ?」

「はい。愚か者がバシレイアに宣戦布告をしたという情報が入りました。撤回てっかいして軍を退かせるには……」

「それね、しなくていいよ」


 思いも寄らないアヴレークの言葉に、鴉は一瞬動きを止めた。

 現状まで軍が展開しているだけで、両軍の衝突しょうとつは発生していない。宣戦布告の書状には当然ながら女王の印も国印もなく、今ならばまだ展開している軍を演習の手違いでしたとでも理由を付けて退かせることはできる――当然、対価の支払いは必要になるが。

 ただそれでも、戦争に敗北した時に支払う対価よりは安いものになる。未だ誰の犠牲も払っていないのであれば今ここで兵を退くのが最善、というのは鴉の浅慮せんりょだろうか。


「この情報をにぎつぶせと……この状況を利用するおつもりで?」

「話が早くて助かるねぇ、大鴉カビル・グラーブ


 鴉の仮面に触れて、きちんと仮面があることを確認する。確認するまでもないのかもしれないが、これに触れていると自分が大鴉であることが実感できて己を立て直せる気がするのだ。

 アヴレークはこの宣戦布告の情報を、大鴉のところで握り潰せと告げていた。今この状況で女王に伝えれば戦争を回避できると知りながらその道を選ばず、バシレイアすらも利用して目的を果たそうとしている。


「愚か者共をあぶり出して一掃するのに、絶好の機会だろう?」


 その顔には相変わらず、柔和そうな笑みが浮かんでいた。

 巻き込まれる兵士のことであるとか、バシレイアのことであるとか、もちろん考えないわけではないのだろう。けれども彼は宰相だ、この国において唯一女王と対等な立場にある者だ。

 ならば彼が見ているものは一個人とは違う。鴉とてそれは理解していて、そんなことを口にするつもりもなかった。口にしたところで意味はない、そんなものが赦されるのは大局を見なくて良い者だけだろう。


「ラベトゥル以下、戦争推進派の力をぐおつもりですか」

「大正解!」


 芝居がかった動作で両手を広げたアヴレークは、手を下ろしてから足音を立てて部屋の中へと足を進める。かつかつとかかとを鳴らして歩くのも、また芝居のようである。

 アヴレークのすその長い服が揺れていた。ここは鴉の巣で、その主は大鴉であるはずなのに、まるでアブレークがここの主人であるかのように椅子に腰かけて足を組む。


「ガドールが喜ぶだけでは」

諸共もろともに削ぐに決まっているだろう? どうせガドールだってラベトゥルの力が増すのは避けたいんだ、せいぜいお互いに足を引っ張り合って貰おうじゃないかぁ!」


 オルキデ女王国には、爵位しゃくいがある。それすなわち、貴族の中にも階級があるということである。

 この熱砂と荒地と大河の国において、王家の直轄ちょっかつ領以外の場所を任されている、所謂いわゆる領地を持つ貴族の家は七つある。その中でも爵位が高いのがラベトゥル公爵家とガドール公爵家であり、公爵位というのはこの二つの家にしか与えられていない。

 王族と彼らが手を取り合って国を治める、というのは理想論でしかない。実体は己が権勢を強めるために互いにいがみ合い、そのためには女王とその娘たちすらも利用する。

 そうしてこの国は、斜陽しゃようとなるのだ。腐敗し、傾き、太陽を戴きながら沈んでいく。


「さて、大鴉カビル・グラーブ

「は」

「これからのことを君としようと思ってね」


 アヴレークは相談と言うものの、その声には含みがあるように聞こえた。おそらく彼の中では既にがある。それでも彼は鴉に「どうするか」を問うつもりだろう。

 笑みを浮かべているアヴレークを、鴉はただ仮面の下からつくづくと見た。

 すべては我らが太陽のために。すべてはオルキデ女王国のために。この戦争の勝利など要らないのだ、実際のところは。本来ならば引き起こしてはならなかった事態ではあるが、引き起こされてしまったのならば利用する。彼はそういう腹積もりだろう。


「……かしこまりました」


 少しの間を開けて、鴉は返答をする。その間で鴉が考えたことなど、きっとアヴレークは分かっているのだ。

 それでも彼は何も言わず、おどけたように両手を広げて首を横に振った。さながら道化師のようではあるが、それに惑わされてはならないと鴉はよく知っている。


「さて、どうしようね?」

「閣下の中で既に決定事項があるかと推察すいさつしますが」

「最初から答えを言っていては、君が考える機会もないだろう?」


 返答からしてやはり、彼の中には既に決まったものがある。どうせ最後にはそうするだろうに、どうして鴉に問おうとするのか。

 国というのはたった一人で成り立つものではない。女王さえいればというのは詭弁きべんであって、貴族から平民に至るまで、そのすべてで国というものは成り立っている。

 けれど、その国のかじを取れる人間というのは少ないのだ。勿論もちろん何人もで舵取りをしていてはあらぬ方向へ進んでしまうか、あるいはまったく進まなくなってしまうか、そのどちらかだ。

 現状オルキデの舵取りができるのは女王リヴネリーア・ハカム・ルフェソークと、宰相アヴレーク・イラ・アルワラの二人だけである。けれど公爵家の人間は、自分たちもまたそこに名前を連ねようと画策している。


「そうですか」


 回避できるはずのものを利用して、己が目的を果たす。そこにどのような犠牲を払ったとしても、すべてはこの国のために。

 その言葉を振りかざすつもりはないし、そんな言葉一つですべてゆるされるなどきれいごとでしかない。

 まして、これは他国までも利用するのだ。実際に利用されたということをバシレイアの人間が知った場合、どう思うことだろう。けれどそんな迷いのようなものを鴉は頭の片隅へと追いやって、この戦争で得られる最大限のことを考える。

 この戦争に勝利は必要ない。けれど、敗北してはならない。


「バシレイアも軍を展開すれば、近々一度目の衝突があるでしょう。しかしながらこちらは力押しのきらいがある騎士団長バラック・ジャザラの指揮。あちらの総司令官次第ですが、単調ゆえにその戦力が低く見積もられる可能性は高いかと」

「うん、それで?」

「戦力が拮抗きっこうすれば、被害は増えます。相手がそれを嫌うのであれば、停戦に持ち込みやすくなる。ある程度拮抗の期間を形成し、被害が看過かんかできなくなったところで停戦を持ち掛ける、というところでしょうか」


 泥沼の様相となれば、当然戦地での犠牲は増えていく。決着がつくことはなくずるずると続けば、その期間の分だけ犠牲者は増える。

 当然ながら、それはバシレイアとていとうところだろう。そうなれば相手も停戦を持ち掛ければ「」と言うはずである。そう思っての言葉であったが、アヴレークはゆるく首を横に振った。


「うーん、悪くはないけれど、正解ではないね。だってそれじゃ、愚か者共を炙り出せないじゃないか」

「……長引かせるおつもりですか?」

「まさか! そんなことはしないよ、一年も戦争をするつもりはないしねぇ」


 がたんと音を立ててアヴレークが椅子から立ち上がる。

 戦争には何かと金がかかる。ましてこの食糧も水も満足には得られないオルキデが戦争しようと思えば、その食糧と水を得るために莫大ばくだいな金がかかるのだ。

 長引けば長引くほどに、犠牲と出費がふくれ上がる。炙り出したは良いがこちらも痛手を受けた、となっては意味がない。


「一度こちらを劣勢れっせいにするんだよ。そうすればガドールがしゃしゃり出てくるさ」

「放置しておけば勝手に劣勢にはなるでしょうが、あちらが総力戦にして潰しにかかったらどうするおつもりですか」


 バシレイアに宣戦布告をしたのは、騎士団長であるバラック・ジャザラである。

 本人の武力的には何も問題はなく、国一番と言われても鴉は否定しない。けれども個人の武力と戦争における指揮の得手不得手はまた別の話だ。すべてが己と同じように戦えるわけではなく、実際に兵士を扱うというのは自分が戦う場合とはまた違う。


「だからそうならないように、ともすれば引っくり返される可能性があると相手に思わせるのさ」

「バラック・ジャザラにそれができると?」

「いいや、できないね」


 至極あっさりとアヴレークは否定する。

 窓の外、乾いた風が吹いていた。粒の細かい砂が巻き上げられて、窓の外でうずを巻いている。

 オルキデ女王国は熱砂と荒野と大河の国である。領土の大半は砂漠さばくと荒地であり、植物が育つところはほとんどない。

 広大な二本の大河にはテフィラー祈りネス奇跡と名前が付けられているものの、決してそれは恵みとならない。人々がつけたその名前は、ただ奇跡を祈るためのものでしかなかった。何せその大河にはほとんどの生物が住むことができず、流れるのは到底とうてい飲み水にもならない『死の水』だ。

 上流にある岩石は水と反応して変質すると同時に大河へと溶け、本来恵みであるはずの水を『死の水』に変える。河が運ぶはずの肥沃ひよくな土は、決してオルキデ国内には積もらず海へと流れて消えてしまう。

 穀倉こくそう地帯は北方の高地にあるクエルクス地方のみ。砂漠の中に点在するオアシスか、あるいは荒地の中に人々は都市を築き、そこに集まるようにして住んでいる。オアシスだけは水が湧き、少しばかりの植物は育つものの、満足に食べるほどのものでもない。

 ただ、鉱石と金属だけはいくらでも採れた。大地が作り上げる鉱石を宝石として磨き上げて売り、それを元手にして他国から食糧を得る。それでも十分に食糧を得られるのかと言われればそうではないこともまた事実。

 富めども飢える国、まさにその通りだ。


「一度目の衝突の後、こちらを低く見積もってくれるのならばそれでいい。二度目は君が戦場へ行け、大鴉カビル・グラーブ

「ご命令とあらば否とは申しませんが、名目は『伝令兵として雛鳥を貸すため』とでもしておけばよろしいですか」

「いいよ。そこで二度目の衝突があれば、出ざるを得ないからねぇ」


 一度目は相手にあなどられる可能性が高い。おそらくバラックの作戦は、力押しになるだろうことが分かっている。ならば二度目で、相手に多くの犠牲を払わせる。そのためならば鴉は最前線に出て、血と砂埃にまみれることも厭わない。

 参戦するわけではない。伝令と偵察として鴉の雛鳥を貸し出すだけ。けれどその場で戦闘が起きれば、知らぬ存ぜぬと鴉が帰るようなこともない、という表向きの理由だ。


「策は」

「任せる」

「かしこまりました」


 ぐしゃぐしゃとアヴレークが撫でつけていた臙脂色の髪を掻き回した。折角綺麗に撫で付けられていた髪が崩れて、あちらこちらにはねている。

 そうするとぼさぼさの頭になって、なんともみっともない姿になった。先ほどまで真っ直ぐに伸びていた背筋も、猫のように丸くなる。


「あーあ。リヴは怒るかなあ、どう思う?」

「事が露見ろけんした場合は、お怒りになられるかと」


 やだぁ、などと情けない声を上げる男は、先ほどまでの宰相然とした男と同じ人間である。けれどもだらりとすっかりだらけたその姿は、宰相という立場を投げ捨てた姿だ。

 公的な姿ではなく私的な姿になったことを、鴉は特にとがめようとは思っていない。アヴレーク自身が今は『アヴレーク』という個人になると、そう決めて投げ捨てたのだから。


「そうだよねぇ……あー、やだやだ。愛しき我が太陽に叱られるだなんて」

「心にもないことを言わないでください」


 女王と宰相、それ以前にアヴレークは王配である。オルキデの女王にとっての唯一であり、女王の個人としての部分を見ることを唯一赦された人間でもある。

 つまり宰相という役職を放り投げた彼は、ただリヴネリーアという女性の夫なのだ。


「何を言う! いや怒ったリヴの顔も美しいんだけれどね? やはり彼女は笑っているのが一番であって……」

「閣下」


 滔々とうとうと語り始めようとしたアヴレークの言葉を遮って、鴉は彼に呼びかける。これが宰相であるのならば赦されることではないが、彼が『アヴレーク』という個人であるのならば不敬でも何でもない。

 彼にリヴネリーアのことを語らせると長くなる。鴉はそれをよく知っていて、だからこそこうしてアヴレークの言葉を叩き切ったのだ。まだまだ鴉はやるべきことがたくさんあって、長々と聞いている暇はない。


「それ、長くなりますか」

「うん」

惚気のろけ話は壁に向かってどうぞ。私は今から戦地へ向かう準備をします」


 一度目の衝突は恐らく、そう遠くない。そこについては介入するつもりはないが、二度目の衝突がいつ発生するかは分からない。一度目であまりにも骨がなければ、二度目の衝突が早まる可能性もある。

 女王に宣戦布告の情報を上げるために急いでいた時とはまた準備も異なるのだ、今すぐに動き出さねばならない。鴉の雛鳥に召集をかけ、戦地に送る者と女王の護衛に残す者とを選別し、それぞれに命令を下す。のんびりしている時間はなかった。


「えー、僕の可愛いが冷たぁい」

「……閣下」

「はいはい、名前で呼ぶなって言うんだろう?」


 大鴉とは記号である。

 その顔は仮面によって隠されて、名前を呼ばれることもない。こうするしか鴉は逃げることができなかった、こうする他に自分を隠す場所はなかった。

 アヴレークが笑みを浮かべて、前髪をかき上げた。ぼさぼさになっていた髪が少しだけ整って、後ろに撫でつけられた形に近くなる。


「役目を果たせよ、大鴉カビル・グラーブ。お前の失敗は、国を危険にさらすと知れ」

「承知しております」


 失敗は赦されない。

 オルキデは勝利してはならない、敗北をしてもならない。危うい均衡きんこうの上で戦争を続け、そうして欲する結末を掴み取る。

 宣戦布告の情報はこの場で握り潰された。ならばもう後には戻れない。


「ですが閣下がそう言われるのであれば、今一度、きもめいじましょう。失敗はいたしません、たとえこの命が失われようと。この国のために死ねと言われれば、喜んで」


 鴉はぶ。仮面の下で目を伏せて、けれど一瞬迷うような気持ちを抱いた己をいましめる。

 すべては我らが太陽のため。すべてはこの腐敗して沈みかける斜陽の国を、沈ませないために。

 この国のために死ねるかと問われれば、鴉は「是」と答えよう。いつ死んだって構わない、それがオルキデという国のいしずえとなるのなら。女王や宰相がそう命じるのなら、鴉はいつだって喜んで死んでみせるのだ。

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