5 彼にとってはつまらぬ激突
その日は珍しくクレプト領は
開戦前の肌が泡立つような、あるいは触れれば切れるようなひりついた空気がハイマは好きだった。大きく深呼吸すると肺が切り刻まれそうなほどの
「あちらも出てきたな」
馬上からの
ハイマが指示したバシレイア軍の布陣は
戦いに作戦はつきものだが、何もいきなり奇を
ハイマの手の中にあるのは敵兵の命だけではない。自国の兵士の命も乗っている。それはひいては、自身が治める領地の民の命だ。犠牲は最小限にしたい、と思うのは理想論だろうか。
「総司令官殿」
「エンケパロスか」
砂を踏みしめながらやってきたエンケパロスは、鋭い目つきで敵兵を
若い馬ではなく、人間で言うところの壮年ぐらいになるらしい。エンケパロスによく従い、あまり
「
「ああ。あちらさんも、それほど訳のわからん布陣じゃねぇしな」
二人が会話をしている間にも、オルキデ軍は展開を続けている。ハイマらにすべて見られていることは気づいていないのだろうか。
「では、そのように」
エンケパロスに敬語を使われると言うのはなんとなくむずむずして尻の座りが悪い。一刻も早くこの状況から脱したいものだと、ハイマは心の底から願った。
馬上で突撃の機を伺っていると、何を思ったかオルキデ軍から一騎進み出てきた。大声を張り上げたその騎兵はどうやらオルキデ軍の指揮官であるらしいが、その名乗りを聞き流してハイマは鼻を鳴らす。
戦いの始まりに古式ゆかしく名乗り合いから始まるなど笑わせる。思っていたよりもずっと、オルキデ軍はお行儀が良いようだ。
「行くぞお前ら!」
今しかない、とハイマは大音声を響かせた。
あちらも何やら手を振り上げて騎兵が合図をする。すると、オルキデ軍の兵士もこちらへ向かって突撃を始めた。
(ふぅん……。)
ハイマの出番はもう少し後だ。
早くも最前線ではぶつかり合っていて、激しい
重装歩兵部隊はその大半を補給庫の防衛に回しているので、最前線に布陣しているのは少数だ。オルキデ軍から見れば酷く手薄に見えることだろう。勢いづいたのか、どんどん敵兵が押し寄せてくる。重装歩兵たちが飲み込まれていくのを見ながら、ハイマは歩兵部隊に突撃を命じるため、一度腕をあげ、振り下ろす。
わっと声を上げながら歩兵部隊が突撃し、オルキデ軍とぶつかった。今度はもっと近くで、武器と鎧がぶつかる重い音が響く。ハイマも、自身の武器である大槍を握り直した。
エクスロスに先祖代々伝わる大槍は、家宝と言っても差し支えないかもしれない。長身のハイマと同じぐらいか、それより大きいぐらいの巨大な槍だ。
ハイマが槍を振り上げると、槍の穂と
「さあ、楽しませてくれよ」
騎兵の指揮はエンケパロスの担当なので、ここから先はハイマも存分に暴れることができる。にんまりと笑いながら、馬の腹を蹴った。一声嘶いて走り出した愛馬の上で両手で槍を握り、器用に下半身でバランスを取る。砂に足を取られることなくぐんぐん速度を上げた愛馬は、敵兵のど真ん中にハイマを運んでくれた。
「おらぁああ!」
槍が一回転する鈍い音が、荒地に響く。同時に、ぱっと鮮血が舞った。
何が起こったかもわからないまま、オルキデ軍の兵士数名の首が地面に転がる。怯んだ
「う、うわああああ!」
「逃げてんじゃねえよ! ここは戦場だ!」
悲鳴をあげて及び腰になった敵兵を
「覚悟!」
「生ぬるいんだよ!」
視界の端に、馬に乗って走ってくる一人の男が見えた。
怒号一発、ハイマは腹から声を出して気合いを入れると、振り上げた槍を力一杯振り下ろす。鈍く光る刃は
混乱した馬は悲鳴のように嘶いて走り去る。ハイマも流石に動物まで追う気にはならなかった。
「チッ、つまんねぇな……」
一度も刃を交わすことなく倒れてしまったことに
追って殺そうかとも思ったが、そこまでするとただの
槍をくるりと回して、血と脂で汚れた刃を服の
「俺はハイマ・エクスロスだ! 誰か相手になるやつはいねぇのか!」
後方から地響きと共に砂煙がやってくる。エンケパロスが騎兵で突撃してきたのだ、このままではエンケパロスに獲物を取られかねない。苛立ちを怒声に変えて、ハイマは
一番の手柄になる首はここだぞと叫べば、命知らずたちが次々剣を向けてくる。遠くから放たれてきた矢を避けつつ槍で叩き折り、飛びかかってきた敵兵の剣を弾いて逆に手を叩いて剣を落とさせた。ひ、と喉の奥から悲鳴を漏らした気がしたが、
ぐしゃり、と愛馬の足の下で何かが潰れた音がした。
「ったく、つまんねえなあおい!」
あまりにも
もっと、もっと血湧き肉躍る戦いがしたい。こんなのは生ぬるい。用兵の駆け引き、強い相手との
「
愛馬が前足を振り上げて嘶く。重装歩兵部隊が固まっている場所まで一気に駆け抜けた。
槍をぶん回しながら、左右に散らばる敵兵を突き払い、血飛沫をあげて敵陣の奥深くへ突っ込んでいく。どれほど激してもハイマは総司令官である。周囲の様子が見えなくなることはない。
騎兵部隊が両翼を蹂躙しているのをみながら敵に囲まれていた重装歩兵部隊に後ろへ下がるよう合図を送る。ハイマが駆け抜けてきた後ろは文字通り死体の山ができていて、敵兵たちは恐れているのか近づいてこようともしなかった。
焦れたハイマがいっそこのまま本陣まで単騎で突入しようかと思い始めた時、オルキデ軍が
「どう、どう……俺たちもここまでだ、いいよ、追わなくて」
前のめりに追おうとする愛馬の手綱を引いて制止をする。ハイマが追わずとも、エンケパロス率いる騎兵部隊が逃げ遅れた敵兵をしらみ潰しにしている。
上手く退かないと後方にいる兵士は全滅するのだが、オルキデ軍はまさにそうなりそうだった。
「エンケパロス! 多少は
放っておくと全て殺しそうな勢いのエンケパロスに声をかけ、ハイマも自軍に撤退を命じた。
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