4 この戦争は誰が為か
オルキデ女王国とバシレイア王国の国境は、バシレイア側はクレプト領、エクスロス領、デュナミス領の三領が接し、オルキデ側はシュリシハミン侯爵領とラベトゥル公爵領、そしてラマーディ侯爵領が接している。ただしこの中で実際にバシレイア王国へと攻め込める場所というのは、最も北に位置するシュリシハミン侯爵領だけである。
オルキデ女王国はその
荒地と熱砂と大河の国は、その大河が一切の恵みを
それにしても愚かな話であると、リトファレル・メルナクは風に
この宣戦布告はラベトゥル公爵が勝手にしたものであり、その宣戦布告先もクレプト領主へのものであって、バシレイアの王へのものではない。女王が許可したどころか、女王が認識していたかどうかも分からない宣戦布告と軍の展開ではあるが、おそらく
がしがしと薄紅色の髪を片手で掻いて、その毛先を
「何か考え事ですか、リトファレル殿」
乾いた砂を踏みしめる音と共に、声が届いた。軍の中にあってどうにも似合わぬと言うか、穏やかすぎる声である。
風は止まず、旗は音を立てて
「ケヴェス・イェシム様。おれに何か用ですか」
ケヴェスは真っ白な髪を風に揺らして、声に似たやはり穏やかすぎる笑みを浮かべていた。空の色をした目を細めて立つ
「騎士団長殿のところは、息が詰まってね」
「ああ、おれが呼ばれもしない軍議という名のご意見
オルキデ女王国軍の総司令官は、武官すべてを束ねる立場にある
リトファレルは深紅の瞳を
それからまた、ケヴェスに視線を戻した。やはり鎧に着られていると言うべきか、似合わない。
そもそも彼は宣戦布告をして軍が展開し、その後にここへやって来た。居辛い、というのはあるかもしれない。
「貴方も災難ですね。領地は戦場にされる上に、第一王女殿下に軍へねじ込まれるとは」
クレプト領と接する領地はシュリシハミン侯爵領、イェシム家の土地である。
ケヴェスはシュリシハミン侯爵の次男であり、そしていずれはシュリシハミン侯爵を継ぐ立場にあった。長男がいるにも関わらず彼が後継者であるのは第一王女が関わるちょっとした事情によるもので、特に何かいざこざがあるとかそういう話ではない。
彼が災難であるというのは、リトファレルが心の底から思っていることだ。このただただ広いばかりの荒野はいずれ彼の持ち物になるわけだが、争いになればこの大地には血が染み込む。どうせ作物など育たぬ土地ではあるが、気分の良いものではないだろう。
そして鎧の件からも分かる通り、彼はそもそも武官ではない。それでもこうして、軍の中へと放り込まれた。
「はは、天才にそう言われてしまうと耳が痛い」
「貴方に言われる分には、許容しておくことにしましょう。おれは別にそんな評価は望んじゃいないし、護国騎士になったのも何か高尚な思想があったわけじゃないですがね。平民なんで、扱いはこの通り。話しかけてくる貴方のような貴族の方が珍しい」
最年少で護国騎士になった平民の天才と、人はリトファレルを称した。確かにリトファレル・メルナクというそういうもので、身分としては平民である。護国騎士となったのは若干十四歳の時であり、それから四年、ようやく今年になって成人したところだ。
他の国ではどうか知らないが、オルキデ女王国において貴族と平民の立場の
平民とは存在しなければ国が成り立たないものであるが、かといって一人欠けたところで国にとって大きな損害になるわけではない。まさしくその通りであるし事実であるとリトファレルも思っているので、特段それについては何か言うつもりはない。ただどうしても貴族にしてみれば「平民は自分たちとは異なる者」であり、貴族ばかりの護国騎士の中にあってやはりリトファレルは異質なのだ。
「そこはほら、お恥ずかしながらシュリシハミンは、その……貧しいだろう?」
「言葉を選ばず言うのであれば、オルキデ一貧乏な領地ですね」
富めども飢える国にあって、唯一富すらもないと言えるのがこのシュリシハミン侯爵領であった。この土地には他の領地にある鉱脈や鉱床がなく、ただ細々と南にあるラベトゥル公爵領に入る商人たちの宿泊場所となることで食いつないでいる土地である。
特に包み隠すこともなく事実をリトファレルが述べれば、ケヴェスは乾いた笑みを
「その通りだから反論も何もないよ。だからかな、あまり平民だ貴族だという意識が我が家はなくて」
護国騎士の制服である白い
更にその上から砂避けのマントを着ているのはいつも通りと言えばその通りなのだが、ぎらつく太陽の下でずっと立っているのに
「兄君が第一王女殿下の伴侶だというのに?」
「別にそれで恩恵を受けようとも思っていないからね、私も父も。第一王女殿下がどうしてもと
これが、ケヴェスが後継者となっている事情だ。彼の兄は第一王女の伴侶であり、それは第一王女がどうしてもと言うから
リトファレルに言わせてみれば、そんなものは勝手にすればいい、というものでしかない。第一王女の結婚相手が誰であろうとも、平民の腹が
とはいえその現実が直撃しているケヴェスは、どうでもいいとは言えないことである。これで彼の父である侯爵が権力を手にしたいと
「その結果、貴方はここにいらっしゃるのでしょう」
「そうだね」
「……第二王女の陣営にも第三王女の陣営にも、己の存在を知らせるため。そんなものに使われて、やはり災難ですよ、ケヴェス様」
結果として第一王女は、強い後ろ盾を結婚では得られなかった。そもそも女王になりたいのならば、そこで
けれど、そうではない。そうではないから、ケヴェスがここにいる。この戦争の勝利は間違いなく第三王女が王位継承に一歩近づくものであると判断し、第一王女は自分の義弟にあたるケヴェスをねじ込んだ。彼が武功を立てることがあればその手柄を自分のものとできる、そういう目算だろう。
「第一王女という最も有利な立場にいるのだから、おとなしくしておけば良いものを。誰も彼も、戦争を何だと思っているのか」
「実際に戦場に立たない、戦地にもならない彼らにしてみれば、継承権争いの一要因でしかないのだよ」
それこそまるで、
彼らにとって犠牲者など、本当にただの『数』でしかないのだろう。死にました、そうですか、
「はー……くっだらない。これだから人間は救いようがないな」
「おや、まるで自分が人間ではないかのようなことを言う」
思わず漏らしたリトファレルの言葉を、ケヴェスが苦笑する。きっと彼は冗談のつもりだったのだろう、だからこそリトファレルも冗談めかして肩を
救いようがない、本当に。貴族も平民も同じ人間ではないか、などというきれいごとを言うつもりはないが、かといって
「騎士団長殿は勝つつもりでいるようだけれども、君の見解を聞いてみたいな」
「おれの見解ですか? どうせあの人、
話の方向性を変えたケヴェスに、リトファレルは思うところを正直に述べる。するとケヴェスは体をくの字に折り曲げるようにして、腹を抱えて笑い出した。
リトファレルは何もおかしなことは言っていない。軍は展開していて、その布陣は
「ば、馬鹿みたい……く、はは、あはは」
「何ですか」
「いや、私も思ったものだから。私は戦いは不得手なのでね、
逆に言えば、素人でも分かることなのだ。これは一対一の戦いではなく、多対多の戦いである。何としても勝利をと思うのならば、策を
誇り高き騎士として。そんな誇りなど戦場には必要ない。名乗ることすらリトファレルは必要性を感じない。くだらない誇りなんてものは、戦場においては地に転がって踏み付けられて、そうして砂に
「……あの人は確かに、個人としては強いでしょうね。オルキデ
「君すらも騎士団長殿にしてみたら守るべきものなのだね」
「あの人にとっては平民は
嫌味で言っているわけではないのだから、余計に
けれどバラックはそうではなく、心の底からそう思っている。貴族とは平民を守るもの、自分は護国騎士団長であるのだから
ケヴェスがまた腹を抱えるようにして笑っている。まったく、よく笑う男だ。シュリシハミン侯爵家は貧しいはずだが、だからといって
「なんだか
「おれにとっては不愉快ですが、それは良いです。別に悪い人ではないですからね、あの人。クソなのは周囲にいる貴族出身の護国騎士の方ですから」
リトファレルはバラック自身は嫌いではない。彼の取り巻きのようにいる貴族出身の護国騎士は大嫌いだが、それは彼らの問題であって、彼らを
とはいえ、別に彼を肯定する気はない。馬鹿は馬鹿、そういう評価だ。
「それはさておき、お手本のような布陣で突撃しかできないだなんて、馬鹿としか言いようがないんですよ。
「鴉は来るのかな」
「さあ、どうでしょう」
女王の鴉はここに現れるのか。その問いに対する答えをリトファレルは持っていない。
彼らが現れれば、偵察も伝令も楽にはなる。バラックがそれを選ぶかどうかはさておいて、どうしても勝利したい場合の遊撃や夜襲という選択肢も増える。
だが彼らは、女王の直属だ。女王が命じなければここに現れることもない。
「そもそも、この宣戦布告は陛下の
「今ならまだ兵は
「退けますよ。勿論騒がせた対価は必要ですが、戦争をするよりは遥かに安く済みます」
王都エルエヴァットから連絡が来る気配はない。鴉の黒い羽の一枚すらも、ここにはない。今ならばまだ間に合うのに、女王が望んでいない戦争のはずなのに、唯一止められるはずの命令が来ない。
ケヴェスが少しだけ考え込むような顔をした。もうじき一度目の
「となるとこれは……陛下に情報が上がっていない可能性があるのかな」
「そうとしか考えられませんね」
もう一度、ケヴェスは考え込んでいる。彼は一度目を伏せて、空を
多分彼も、リトファレルと同じ結論に
「……
「はい」
唯一女王と対等な者。女王の伴侶にして、この国の宰相。
詳しいことなど口にはしなかったが、きっとそうだと思う答えがある。鴉は情報を掴んだだろう。けれど女王のところには上がっていない。その答えは、
「おれも、そう思います」
その情報を、握り潰した。ひとえにこの状況を利用するためだけに。そして衝突の時を待っている。
彼がそういうことをする男であると、リトファレルはよく知っていた。
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