4 この戦争は誰が為か

 オルキデ女王国とバシレイア王国の国境は、バシレイア側はクレプト領、エクスロス領、デュナミス領の三領が接し、オルキデ側はシュリシハミン侯爵領とラベトゥル公爵領、そしてラマーディ侯爵領が接している。ただしこの中で実際にバシレイア王国へと攻め込める場所というのは、最も北に位置するシュリシハミン侯爵領だけである。

 オルキデ女王国はその蔑称べっしょうを、『富めども飢える国』といった。

 荒地と熱砂と大河の国は、その大河が一切の恵みをもたらさない。上流の岩石が水と反応することで生物には飲めぬ『死の水マウト・マー』となり、植物すらも育たない。本来ならば大河が運んでくるはずの肥沃ひよくな土もそれによって汚染されるが、それすらも大半が堆積たいせきすることなく海へと押し流されていく。ただそうして植物すら育たぬ緑少ない土地であっても、その地を掘れば磨けば光る原石がいくらでも採れた。ゆえに富む、ゆえに飢える、そういうことである。

 すなわち、オルキデにおいては黄金よりも一握りの麦の方が価値がある。と、ここまで言うのは過言であるのかもしれないが、大きく外れてもいない。食糧生産ができるのは北方にあるクエルクス地方のみで、それ以外は諸外国からの輸入に頼るしかない以上、農作業ができる土地の確保というのはオルキデ女王国では永遠の課題だった。つまりバシレイア王国のクレプト領は、ただの足掛かりなのである。本当に手にしたいのはその向こうにあるアグロス領やディアノイア領といった肥沃な土地だ。

 それにしても愚かな話であると、リトファレル・メルナクは風になびく旗を見上げながら眉間みけんしわを寄せる。

 この宣戦布告はラベトゥル公爵が勝手にしたものであり、その宣戦布告先もクレプト領主へのものであって、バシレイアの王へのものではない。女王が許可したどころか、女王が認識していたかどうかも分からない宣戦布告と軍の展開ではあるが、おそらく虎視眈々こしたんたんとラベトゥル公爵は宣戦布告の機会を狙っていたのだろう。何せ、宣戦布告から軍の展開までが早すぎる。

 がしがしと薄紅色の髪を片手で掻いて、その毛先をもてあそぼうとして――はたと、気付いた。今の自分は。そういえば短いのであったと思い直して、ただその手をだらりと下げた。


「何か考え事ですか、リトファレル殿」


 乾いた砂を踏みしめる音と共に、声が届いた。軍の中にあってどうにも似合わぬと言うか、穏やかすぎる声である。

 風は止まず、旗は音を立ててひるがえる。女王の許可も得ていないくせに女王を示す太陽の旗を掲げて、正当性でも主張したいのか。


「ケヴェス・イェシム様。おれに何か用ですか」


 砂塵さじんが巻き上がり、ぎらつく太陽が砂を焼く。上からも下からも熱されて、まるで鉄の板の上で焼かれるかのようだ。

 ケヴェスは真っ白な髪を風に揺らして、声に似たやはり穏やかすぎる笑みを浮かべていた。空の色をした目を細めて立つ体躯たいく到底とうてい恵まれたものとは言えず、ひょろりと背だけが高い印象を相手に与えている。身に着けたよろいはどうにも不格好で、似合っていない。


「騎士団長殿のところは、息が詰まってね」

「ああ、おれが呼ばれもしない軍議という名のご意見披露ひろうの会ですか。ご苦労様です」


 オルキデ女王国軍の総司令官は、武官すべてを束ねる立場にある護国騎士ごこくきし団長バラック・ジャザラである。護国騎士団長以下、彼に追従ついじゅうする護国騎士は軍議の真っ最中だが、リトファレルはそこに呼ばれてもいなかった。

 リトファレルは深紅の瞳をすがめて、雲一つない空にたなびく太陽の旗をまた見上げる。太陽の黄色、それから青と銀、王家の色をした旗である。

 それからまた、ケヴェスに視線を戻した。やはり鎧に着られていると言うべきか、似合わない。褐色かっしょくの肌を覆うその鎧は護国騎士たちと比べても遜色そんしょくないものではあるが、そうだとしても慣れない者が着るようなものではないのだ。きっと彼にとって、その鎧は不釣り合いで、重くて仕方のないものだろう。

 そもそも彼は宣戦布告をして軍が展開し、その後にここへやって来た。居辛い、というのはあるかもしれない。


「貴方も災難ですね。領地は戦場にされる上に、第一王女殿下に軍へねじ込まれるとは」


 クレプト領と接する領地はシュリシハミン侯爵領、イェシム家の土地である。

 ケヴェスはシュリシハミン侯爵の次男であり、そしていずれはシュリシハミン侯爵を継ぐ立場にあった。長男がいるにも関わらず彼が後継者であるのは第一王女が関わるちょっとした事情によるもので、特に何かいざこざがあるとかそういう話ではない。

 彼が災難であるというのは、リトファレルが心の底から思っていることだ。このただただ広いばかりの荒野はいずれ彼の持ち物になるわけだが、争いになればこの大地には血が染み込む。どうせ作物など育たぬ土地ではあるが、気分の良いものではないだろう。

 そして鎧の件からも分かる通り、彼はそもそも武官ではない。それでもこうして、軍の中へと放り込まれた。


「はは、天才にそう言われてしまうと耳が痛い」

「貴方に言われる分には、許容しておくことにしましょう。おれは別にそんな評価は望んじゃいないし、護国騎士になったのも何か高尚な思想があったわけじゃないですがね。平民なんで、扱いはこの通り。話しかけてくる貴方のような貴族の方が珍しい」


 最年少で護国騎士になった平民の天才と、人はリトファレルを称した。確かにリトファレル・メルナクというそういうもので、身分としては平民である。護国騎士となったのは若干十四歳の時であり、それから四年、ようやく今年になって成人したところだ。

 他の国ではどうか知らないが、オルキデ女王国において貴族と平民の立場の隔絶かくぜつというものは大きい。別に平民がしいたげられているというというわけではないが、そこには明確な身分差というものが確かに存在している。

 平民とは存在しなければ国が成り立たないものであるが、かといって一人欠けたところで国にとって大きな損害になるわけではない。まさしくその通りであるし事実であるとリトファレルも思っているので、特段それについては何か言うつもりはない。ただどうしても貴族にしてみれば「平民は自分たちとは異なる者」であり、貴族ばかりの護国騎士の中にあってやはりリトファレルは異質なのだ。


「そこはほら、お恥ずかしながらシュリシハミンは、その……貧しいだろう?」

「言葉を選ばず言うのであれば、オルキデ一貧乏な領地ですね」


 富めども飢える国にあって、唯一富すらもないと言えるのがこのシュリシハミン侯爵領であった。この土地には他の領地にある鉱脈や鉱床がなく、ただ細々と南にあるラベトゥル公爵領に入る商人たちの宿泊場所となることで食いつないでいる土地である。

 特に包み隠すこともなく事実をリトファレルが述べれば、ケヴェスは乾いた笑みをこぼした。


「その通りだから反論も何もないよ。だからかな、あまり平民だ貴族だという意識が我が家はなくて」


 護国騎士の制服である白い詰襟つめえりが何とも窮屈きゅうくつで、リトファレルは首のところに人差し指を引っかけた。首元をゆるめても良いのだが、それをすると砂が中に入る。その上にある白銀の胴鎧は、炎天下で太陽の光を反射して輝いていた。

 更にその上から砂避けのマントを着ているのはいつも通りと言えばその通りなのだが、ぎらつく太陽の下でずっと立っているのに相応ふさわしい姿かと言えばそうではない。バシレイア軍とぶつかるよりも前に、この暑さでやられる兵士が出るのではないかと思っているのは、リトファレルだけなのだろうか。


「兄君が第一王女殿下の伴侶だというのに?」

「別にそれで恩恵を受けようとも思っていないからね、私も父も。第一王女殿下がどうしてもとおっしゃるから、父も兄も渋々話を受けただけなのだし」


 これが、ケヴェスが後継者となっている事情だ。彼の兄は第一王女の伴侶であり、それは第一王女がどうしてもと言うからまとまった婚姻こんいんであった。自分の恋を貫いたなどと評価する声がある一方で、色恋というものに捕われて愚かなことをしたという声もある。

 リトファレルに言わせてみれば、そんなものは勝手にすればいい、というものでしかない。第一王女の結婚相手が誰であろうとも、平民の腹がふくれるわけではない。結局のところそれは貴族の権力争いの材料でしかなく、今日を生きるのに手一杯な平民にしてみればどうでもいいものなのだ。

 とはいえその現実が直撃しているケヴェスは、どうでもいいとは言えないことである。これで彼の父である侯爵が権力を手にしたいと渇望かつぼうするのならば話は違っただろうが、シュリシハミン侯爵家はそうではなかった。そもそも第一王女との結婚で得るものはほとんどなく、むしろここまで育ててきた後継者を侯爵を失った形でもある。結果としてケヴェスが後継者になったわけだが、だからといって彼もそれを大喜びで受け入れたというわけでもないのは、ここまでの彼の言動を見れば明白だ。


「その結果、貴方はここにいらっしゃるのでしょう」

「そうだね」

「……第二王女の陣営にも第三王女の陣営にも、己の存在を知らせるため。そんなものに使われて、やはり災難ですよ、ケヴェス様」


 結果として第一王女は、強い後ろ盾を結婚では得られなかった。そもそも女王になりたいのならば、そこで我儘わがままを通すべきではなかったのだ。何なら女王になりたくないから選んだ伴侶であると言われた方が納得できてしまう。

 けれど、そうではない。そうではないから、ケヴェスがここにいる。この戦争の勝利は間違いなく第三王女が王位継承に一歩近づくものであると判断し、第一王女は自分の義弟にあたるケヴェスをねじ込んだ。彼が武功を立てることがあればその手柄を自分のものとできる、そういう目算だろう。


「第一王女という最も有利な立場にいるのだから、おとなしくしておけば良いものを。誰も彼も、戦争を何だと思っているのか」

「実際に戦場に立たない、戦地にもならない彼らにしてみれば、継承権争いの一要因でしかないのだよ」


 それこそまるで、盤上遊戯ばんじょうゆうぎに興じるかの如く。そこで人が死ぬことなど考えることもなく、ただ己の権勢を強めるための材料としてしか見ない。

 彼らにとって犠牲者など、本当にただの『数』でしかないのだろう。死にました、そうですか、見舞金みまいきんだけでも渡しておけ、そんな風に終わるもの。そもそも兵士はその大多数が平民であり、確かに稼ぎにはなる。ただしそれは「生き延びられれば」という条件が付いているものだ。


「はー……くっだらない。これだから人間は救いようがないな」

「おや、まるで自分が人間ではないかのようなことを言う」


 思わず漏らしたリトファレルの言葉を、ケヴェスが苦笑する。きっと彼は冗談のつもりだったのだろう、だからこそリトファレルも冗談めかして肩をすくめた。

 救いようがない、本当に。貴族も平民も同じ人間ではないか、などというきれいごとを言うつもりはないが、かといってこまのように扱って良いものではないはずだ。


「騎士団長殿は勝つつもりでいるようだけれども、君の見解を聞いてみたいな」

「おれの見解ですか? どうせあの人、突撃とつげきして敵を倒すっていう馬鹿みたいな作戦しか立ててないんでしょう」


 話の方向性を変えたケヴェスに、リトファレルは思うところを正直に述べる。するとケヴェスは体をくの字に折り曲げるようにして、腹を抱えて笑い出した。

 リトファレルは何もおかしなことは言っていない。軍は展開していて、その布陣は定石じょうせき通り。軍議に参加していなくても、バラックの言いそうなことは分かっている。そしてそれは、絶対に間違っていない。


「ば、馬鹿みたい……く、はは、あはは」

「何ですか」

「いや、私も思ったものだから。私は戦いは不得手なのでね、素人しろうと目線だとそう思えるのかと思っていたのだけれども、リトファレル殿と同じで安心している」


 逆に言えば、素人でも分かることなのだ。これは一対一の戦いではなく、多対多の戦いである。何としても勝利をと思うのならば、策をろうすることも必要だ。

 誇り高き騎士として。そんな誇りなど戦場には必要ない。名乗ることすらリトファレルは必要性を感じない。くだらない誇りなんてものは、戦場においては地に転がって踏み付けられて、そうして砂にまみれてくだけるものだ。


「……あの人は確かに、個人としては強いでしょうね。オルキデ随一ずいいちというのも間違ってはいないですから。渡り合えるのはラヴィム侯爵と大鴉カビル・グラーブ、それから、おれ。だからこそ、あの人はおれが気に入らないんでしょうけど。平民は守るべきものなのだからおとなしくしておれと言われたことがありますし」

「君すらも騎士団長殿にしてみたら守るべきものなのだね」

「あの人にとっては平民は十把一絡じっぱひとからげでそうなんですよ。平民は力を持たないのだから守らねばならない、ある意味でお貴族様のかがみですね」


 嫌味で言っているわけではないのだから、余計にたちが悪いのだ。これがリトファレルをあなどって言う嫌味であるのなら、その方が対応も楽だ。

 けれどバラックはそうではなく、心の底からそう思っている。貴族とは平民を守るもの、自分は護国騎士団長であるのだから尚更なおさらに。リトファレルには全く理解のできない話であるが、バラックの中ではそういうものらしかった。

 ケヴェスがまた腹を抱えるようにして笑っている。まったく、よく笑う男だ。シュリシハミン侯爵家は貧しいはずだが、だからといってひねくれたようなところは感じない。


「なんだか愉快ゆかいな話だね」

「おれにとっては不愉快ですが、それは良いです。別に悪い人ではないですからね、あの人。クソなのは周囲にいる貴族出身の護国騎士の方ですから」


 リトファレルはバラック自身は嫌いではない。彼の取り巻きのようにいる貴族出身の護国騎士は大嫌いだが、それは彼らの問題であって、彼らをひきいるバラックにとかく言うつもりもなかった。そもそもバラックは彼らがリトファレルをさげすむようなことを言えば、とがめるくらいである。

 とはいえ、別に彼を肯定する気はない。馬鹿は馬鹿、そういう評価だ。


「それはさておき、お手本のような布陣で突撃しかできないだなんて、馬鹿としか言いようがないんですよ。偵察ていさつ部隊すらもろくにいないこの状況、どうして勝てると思っているのかおれには疑問しかありません」

「鴉は来るのかな」

「さあ、どうでしょう」


 女王の鴉はここに現れるのか。その問いに対する答えをリトファレルは持っていない。

 彼らが現れれば、偵察も伝令も楽にはなる。バラックがそれを選ぶかどうかはさておいて、どうしても勝利したい場合の遊撃や夜襲という選択肢も増える。

 だが彼らは、女王の直属だ。女王が命じなければここに現れることもない。


「そもそも、この宣戦布告は陛下のあずかり知らぬことですが、鴉がこの情報を掴んでいないはずはないんです。けれど未だ撤退てったいの命令がエルエヴァットから来ることはない。本来ならば鴉が飛んできてしかるべき状況であるにも関わらず」

「今ならまだ兵は退けると?」

「退けますよ。勿論騒がせた対価は必要ですが、戦争をするよりは遥かに安く済みます」


 王都エルエヴァットから連絡が来る気配はない。鴉の黒い羽の一枚すらも、ここにはない。今ならばまだ間に合うのに、女王が望んでいない戦争のはずなのに、唯一止められるはずの命令が来ない。

 ケヴェスが少しだけ考え込むような顔をした。もうじき一度目の衝突しょうとつがあるだろうこの状況、衝突してしまえばもう戻れない。


「となるとこれは……陛下に情報が上がっていない可能性があるのかな」

「そうとしか考えられませんね」


 もう一度、ケヴェスは考え込んでいる。彼は一度目を伏せて、空をあおいで、それからリトファレルを見て口を開いた。白い歯が、くちびる隙間すきまから見えている。

 多分彼も、リトファレルと同じ結論に辿たどり着いた。


「……閣下かっか

「はい」


 唯一女王と対等な者。女王の伴侶にして、この国の宰相。

 詳しいことなど口にはしなかったが、きっとそうだと思う答えがある。鴉は情報を掴んだだろう。けれど女王のところには上がっていない。その答えは、ただ一つ。


「おれも、そう思います」


 その情報を、握り潰した。ひとえにこの状況を利用するためだけに。そして衝突の時を待っている。

 彼がそういうことをする男であると、リトファレルはよく知っていた。

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