1 荒地の領主と薬屋の祈り

 岩壁での両軍の衝突しょうとつより、話は半年ほど前にさかのぼる。

 そもこの戦争は、オルキデ女王国がバシレイア王国に宣戦布告をすることによって始まった。オルキデ女王国軍は宣戦布告の書状をバシレイアのクレプト領、クレプト家当主であるエンケパロス・クレプトに送り付け、それと同時に国境沿いに軍を展開した。それを受けて、バシレイア王国軍も軍を展開する形となったわけである。

 さて、そのクレプト領主たるエンケパロス・クレプトは、砂巻き上がる荒地を馬で駆けていた。

 クレプトの屋敷から馬で駆けることおよそ一時間。小さくて長閑のどかな街にエンケパロスは降り立った。国境に近すぎるということもないが、かといって遠いから安全とも言えない距離感の街である。街の人々は突然の領主の到来に驚きつつも頭を下げ、彼らに軽く手を上げて返事をしながらエンケパロスは歩いて行く。最初から目的地を決めていた彼の足取りに、迷いはなかった。

 真っ直ぐそこだけを目指して、他に目をくれることはなく足を進める。ようやく辿たどり着いた一軒の薬屋が、外からはこぢんまりとした店構えに見えるが中に入れば思いの外広いことを、エンケパロスはよく知っている。

 店先にかかっている札が『καλωσ ηρθατεようこそ』となっていることを確認して、エンケパロスは軽く扉を叩いたものの返事を待たずに扉を開ける。来客を告げるカロンという涼やかな鐘の音は、どこか薬屋の店主に似ているようにも思えた。


「ご当主様。いらっしゃいませ」


 丁寧に頭を下げた店主は、花緑青はなろくしょう色の髪をしたまだ年若い少女である。いや、外見的に幼さを残しているだけで、本来の年齢はエンケパロスが思っているよりも上なのかもしれない。なにしろ、エンケパロスは彼女のことを名前と職業ぐらいしか知らないのだから。

 その顔立ちはバシレイアよりも東のものだろうと思わせるもので、どうにもあちらの人々というのは幼く見えるものらしい。というのは、バシレイアで唯一海を渡るヒュドール領の友人からの受け売りでしかない。ただ彼女を見ていると、そうなのだろうなと実感もある。


「カナン、店はどうだ」

「おかげさまで、良くしていただいております。ありがとうございます、ご当主様」


 バシレイアでは耳慣れない響きの名前を口にしながら、店内に置かれた椅子に腰を下ろす。丸いテーブルが二つと、その周りに椅子が数脚。様々な薬が陳列ちんれつされた棚が壁に沿ってぐるりと立ち並び、カナンが普段客を待っているカウンターの奥にも同じような棚が見える。けれど棚には薬だけが並んでいるというわけではなく、隅の方にはちょっとした小さな花であるとか、鳥の置き物であるとか、そんなものが飾りとして並べられていた。

 砂っぽい外の空気とは違い、せんじられた薬とハーブティーの香りが入り混じった店内の空気はどこか甘く、エンケパロスの鼻を心地よくくすぐった。薬の香りであるはずなのにどこか落ち着くようにも感じるのは、ハーブティーの香りのおかげだろう。

 カナンはその名前の響きと顔立ちが示す通り、バシレイアの人間ではない。おそらく東の方からなのだろうと想像はできても、どこからやってきたのか詳しいことはエンケパロスも聞いていない。彼女はある日クレプトにやってきて、店を開く許可が欲しいと言った。

 バシレイア王国はその性質上、領地によって様々なことに差がある国だ。余所者よそものに対する感情もその一つで、排他はいた的な土地もあれば寛容かんような土地もある。

 クレプト領は三つの国と国境を接しているがゆえか、どちらかといえば寛容な方だ。もちろんそれは今のところは、というものではあるが。

 カナンが見本だと出してきた薬が非常によく効いたこと、彼女自身におかしな挙動も見て取れなかったことから、エンケパロスは好きなところで店を開いたらいい、とその場で許可を出した。それ以来、ちょくちょくこの店には足を運んでいる。

 馬で一時間かかるのになぜ、と聞かれてもエンケパロスも困る。なんとなく気になるから、というのが理由といえばそうなのだろうか。


「どうぞ。お口に合うと良いのですが」

「ああ」


 カナンはいつもハーブティーを出してくれる。毎回同じではなく異なるものが出てくるので一度彼女に聞いたところ、その日のその人に応じて何を出すかは変えているのだそうだ。彼女に豊富な知識と観察眼があるからできることだろう。

 最初こそあまり飲みなれない物を警戒していたエンケパロスだったが、今となってはすっかり慣れて何も疑うことなく出されたカップを口に運ぶ。


「今日はどうなさったんですか?」


 カナンが微笑ほほえみながら尋ねてきた。その笑顔がいつも通りで、どこか落ち着くのもまた事実。

 ただ顔を見て店の様子を聞くだけに来るのも営業妨害ぼうがいかと思って、エンケパロスは来るたびに何かしらを買って帰っていた。それがあるからか、カナンはエンケパロスが何度も来る理由をただの買い付けだと思っていることだろう。そう思ってもらって構わないはずなのだが、少しだけ心にもやっとしたものが生まれる気がする。


「傷薬を大量に注文したい」


 だが、今回ばかりは本当に発注をするために来ていた。カナンの顔つきがさっと引き締まったのは、傷薬を大量に、すなわち大量に使うことになる事態が起こるということを察したからだろう。


「何か、あったのですね」


 硬い表情になったカナンを見て、エンケパロスは少しだけ眉を下げた。怖がらせただろうか、と内心で反省するものの、どう言えばカナンに安心してもらえるのかもわからない。

 常々、もっと柔らかい表情をすべきだだの、わかりやすい顔をしろだの、そんなことを友人たちに言われているので、自分の表情筋がすこぶる硬いことはエンケパロス自身もわかっている。顔に表れないなら言葉を尽くさなければならないのだが、それもエンケパロスは上手くない自覚があった。


「まあ……そう、だな。だが、大丈夫だ、この街にまで、類が及ぶことはない」


 クレプト領は、隣国であるオルキデ女王国からの宣戦布告を受けた。

 宣戦布告を告げる書状には国印も女王の署名もなく、最初は何かの間違いかと思ったのだ。けれど国境付近に兵士が集まっているという報を受けて本気だと知った。

 国境付近の緊迫きんぱくを受けて、当然ながらエンケパロスは――ひいてはクレプト領も応戦の構えを示した。とは言えども、バシレイア王国において司令官として軍を指揮できる権利を持つのはエクスロス家とディアノイア家の二家のみである。いくらクレプト領が危険にさらされているとしても、エンケパロスに指揮権はない。それはこの国が国として成り立った時に決まったことであり、それぞれの家は交代で司令官となる。

 今回の戦争では、エクスロス家が戦列に加わることが決まっていた。既にエクスロス家は軍を整え、クレプト領へ向けて進軍を開始している。エクスロス領の隣にあるデュナミス領もまた他人事ではない立地であることと、武器の製造を一手に担っていることから戦線へ加わることが決まっていた。

 ちなみにたったこれだけのことを決めるのに、バシレイアの十二家が集まって行う王都エクスーシアでの会議は一週間に渡って紛糾ふんきゅうした。国境に既に軍が展開しているにも関わらず、だ。主に王とその母である皇太后が引っ掻き回したせいであるが、それについてはエンケパロスは大変立腹している。


「急ぎで頼みたい。その分、価格は上げてもらって構わない」


 全部国庫から出させる、とまでは言わなかった。金の出所など、カナンには関係のない話であろう。

 戦争に必要なものは多岐たきに渡る。人、武具、そして薬。当然それを揃えるのだから、金だって必要だ。


「……わかりました」

「今在庫である分があるなら持って帰りたいが、どうだ」

「見てきますので、少しお待ちください」


 軽い足音を立てながら、急ぎ目に店の奥へとカナンが消えていく。カップの中のハーブティーを飲み干して、エンケパロスは一つ息を吐いた。

 この店はとても居心地がいい。カナンとの会話はそれほど長く続くわけではないが、沈黙が気にならないのがエンケパロスは気に入っていた。窓の外の風景は相変わらず砂に塗れた色をしていて、何を思ってオルキデ女王国はこんな砂だらけの土地に宣戦布告などしてきたのだろう、と首をひねる。

 クレプト領は、バシレイア王国の中では貧しい方だ。貧困にあえぐというほどではないが、決して余裕があるわけでもない、そんな台所事情である。たとえ戦争に勝ったところで、オルキデ側が得られるのは一面砂だらけの土地だ。川はあれども植物が少ないので水をき止めておける天然の堰堤えんていはなく、大量の雨が降るとよく氾濫はんらんする。治水工事はクレプト領の永遠の課題でもあった。

 氾濫した後の土地は意外と農地に適していて、かつてはそこから街を作っていた。そのせいで、水害を受けやすい街が多いのも問題である。オルキデ女王国はそんな土地が果たして欲しいのだろうか。確かに他の領地へのとっかかりとしては、一定の価値があるかもしれないが。


「お待たせいたしました、ご当主様。今在庫があるのはこれだけです」

「わかった。全てもらおう」


 エンケパロスが思考にふけっていると、カナンがその腕に傷薬を抱えて戻ってきた。前が見えないほどの山ではないが、割れやすいびんを両手に抱えて慎重に歩いているのでどうも見ていて危なっかしくて不安になる。立ち上がってその手の中から半分ほど取り上げてやると、礼を言いながら恥ずかしそうにカナンが銅色の目を伏せた。真っ白い頬がほんのりと色付くさまに、胸の奥がざわつく。


「あの……? ご当主様?」

「ああ、いや、なんでもない」


 あまり覚えのない感覚に首を捻っていると、大きめの皮袋に傷薬を詰めていたカナンが振り向いて心配そうな顔をする。なんでもないとかぶりを振ると、納得したのかはわからないがカナンが淡く微笑んだ。

 また、ざわついた。本当にこの感覚は何なのか。


「お疲れですか?」

「いや。そうでもない、と思う」


 エンケパロスが取り上げた傷薬もしっかりと袋に詰めてから、カナンが立ち上がる。カウンターの端に置いてあった小さな包みを手に取って、一瞬迷いながらもおずおずとエンケパロスの方に差し出してきた。


「あの、これ、先ほどのハーブティーです。疲労回復の効果があるので、もしよろしければ……」

「ありがとう」


 心配を、してくれたのだろうか。

 エンケパロスは一つまばたきをしながらそれを受け取る。鼻を近づけると、確かに先ほど飲んだお茶の香りがした。


「この街は必ず守るから、安心して暮らしていてほしい」


 傷薬はぶら下げて、もらった包みは一緒にしないようにポケットの中へ。まるで誓うように「守る」とカナンに告げると、どこか悲しげにカナンは微笑んだ。

 国境の近くに他の街はなく、一番近い場所をあえて言うのならこの街がそれに当たる。かといって国境に近すぎるということはなく、ここまで戦線が下がるようなことがあればそれはもはや敗北に等しいものだ。


「傷薬はどれぐらいでできる?」

「今日から作り始めますから、数日中には……ですが、材料が足りるかどうかは……」

「とりあえずある分だけ作ってくれ。足りなくなればまた来る」


 申し訳なさそうに眉を下げるカナンだが、無理な発注をしているのはエンケパロスの方である。けれど彼女の作る傷薬は本当によく効くのだ、できれば多めに確保しておきたい。

 オルキデ女王国の軍がどれほどの練度かは現状未知数で、まず初回にぶつかった感触で今後の必要な薬の数も見えてくるだろう。

 今手に入れた分で、最初の戦闘はどうにかまかなえるはずだ。最初はお互い状況が分からず、様子見をしながらの戦闘になることが多い。したがって、重傷者が出ることも少ないのが常だ。


「代金は、紙に書いてくれ。後から払いにくる。構わないか?」

「もちろんです」


 クレプト領に戦争にかかる費用を全部負担するだけの余裕はない。クレプト領が突破されればどこの領地も蹂躙じゅうりんされる可能性があるのだから、この戦争は国全体に関わる話だ。

 国境から遠い地で自分たちは関係がないから頑張ってくれと、優雅に午睡ごすいだなんだと午後を過ごしているような奴らにもふところを痛めてもらわなければ割に合わない。

 エンケパロスは先だってのくだらない時間ばかり食わされた会議の時に、そう決めたのだ。


「また来る」

「ご当主様、どうぞご無事で……」


 カナンの言葉に、エンケパロスは一瞬固まった。

 エンケパロスに対して、身の無事を祈る者などほとんどいない。馴染なじみのない祈りに少し戸惑って、なんと返せばいいのか悩んで、やがてぎこちなく笑った。いや、鉄面皮と称される顔がどれほど動いたかは自信がないが、エンケパロス的には微笑んだ。


「ありがとう」


 カナンがおびえるでもなく悲しげな顔をするでもなく少し寂しげに微笑んだので、おそらくエンケパロスの感情は伝わったのだろう。

 彼女は目を伏せて、お怪我のありませんようにと、もう一度祈るような言葉を口にした。

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