序章 邂逅する黒と赤

0 血染めの赤鴉と戦魔、相対す

 荒地を駆け抜ける乾いた風が、砂塵さじんを巻き上げる。

 一匹の鴉は戦場に立ち、空に輝く太陽の位置を確認するために空を見上げた。太陽はちょうど天頂付近に輝いていて、間もなく待ち望んだ時刻がやってくる。

 ごうと炎が燃え上がる。鴉の目の前で地をいながら燃えていた炎は、けれど鴉の足元にせまった瞬間にひたりとその動きを止めた。

 一瞬、風が凪ぐ。

 そうして次の瞬間には、風向きは真逆に変わった。へびのように地を這っていただいだい色の炎は、やがて辺りにかれた油に引火して燃え上がる。風が新たな空気を送り込み、更に激しく燃え上がったそれは焔の壁へと変わった。

 熱風が鴉のまとう砂除けのマントをなびかせた。

 ぎらぎらと輝く太陽によって岸壁は徐々に暖められ、やがて平地と岩肌の温度が逆転する瞬間がやってくる。そうなると風向きは突如として切り替わるのだが、果たして敵はそれを知っていただろうか。

 炎の向こうから怒号が聞こえる。さけぶような声と、うめくような声もする。やがて鼻に届いた肉の焦げるような臭いに、鴉はとがったくちばしのある仮面の下で、ほんのわずかに顔を顰めた。

 つるりとした仮面は、まさに鴉を模している。これがあるからこその、『大鴉カビル・グラーブ』だ。

 炎の壁の向こうには敵がいる。この炎に呑まれて敵が退いてくれるのならばそれで良い。こんなものは時間稼ぎでしかないが、この劣勢をくつがえすためには時間が必要だ。

 そろそろ退けるかと一つ息を吐こうとして、けれど呼吸が一瞬止まる。

 ただ、と。

 その感覚はほんの一瞬だった。背筋が粟立あわだつような悪寒に足が止まる。炎の向こうから放置できない何かがやってくる。否応なしに肩をむんずとわし掴まれるような感覚とどうしようもない寒気が、その場に鴉の足をい留めた。

 炎は赤々と燃え上がる。

 熱風にあおられてフードが外れ、鴉の長い黒髪が舞い上がる。その黒髪は炎に照らされて黒々としているが、耳の前の一房ずつだけは鮮やかな赤い色をしていた。

 炎の向こうからにわかに騒がしいような声、金属が落ちる音。身構えたままに炎の壁をにらえれば、その向こう側から炎壁えんぺきを踏み越えるようにして飛び出してきた影がある。

 咄嗟とっさに短剣をさやから引き抜いた。するどく突き出されたやりの先を短剣の腹で受ける。

 鈍く硬い音を立てて槍の穂先を弾いたものの腕はしびれ、短剣を取り落としそうになりつつそれでも耐えた。


「よう、血染めの赤鴉コキノス・コローネー


 低い低い、地を這うような声が届く。

 後ろに跳び退るようにして、鴉は男から距離を取る。男の顔はすすけて黒くなっていた。胴体と頭を覆う防具はすべて脱ぎ落したか、腕と足しか防具で覆われてはいない。服はあちこち焼け焦げているというのに、男は気にした様子もなかった。

 煤けた顔の中にあって、黄金色の瞳だけが鋭く鴉を射貫いぬく。ひりひりと突き刺すような空気に奥歯をみしめ、仮面の下から男を睨んだ。

 焔か血か、どちらにも似てどちらにも似ない赤の短髪。鍛え抜かれた大柄な体躯に堂々たる姿。本来後方に控えるべき総司令官でありながら、最前線に立って味方を鼓舞こぶし続け士気を上げる稀有けうな男。ここで相対することになるとは計算外だ。


「……戦魔ハルブ・マサハ


 出会ったら逃げろと、配下には伝えていた相手だ。炎の壁すらも踏み越えて飛び出してきた大柄な男に此処ここで背中を見せることなどできるはずもなく、ただ睨み合う。

 その名前を知りながら、味方は彼を畏怖と共に『戦魔ハルブ・マサハ』と呼んだ。逆に敵が名前を失い記号となった鴉を『血染めの赤鴉コキノス・コローネー』と呼ぶのは、果たしてこれと同じなのか、異なるのか。


「貴殿は、私の首を獲りに来たか」

「他に何が?」


 熱風が吹き荒れる。ここから夜まで風向きが変わることはなく、鴉が炎に巻かれることはない。炎壁を踏み越えてきた男も同じことだ。

 放射される熱が、皮膚をひりつかせる。

 味方がどれだけ殺されたとか、敵をどれだけ殺したとか、そんなことは関係のないことだ。被害状況は確認すれども、それは戦場においてただの『数字』でしかなく、そこにあるはずの『個』の名前を知るのは後のこと。ただ兵士を指揮しきしてひきいることができる人間が倒れたかどうかだけを確認していくのは、どこか頭の中が麻痺まひしていく。

 だからこそ。

 ここで彼が鴉を討とうとすることは理にかなっているのだ。最前線で兵を指揮して敵の首を狙い、返り血を浴びて赤く染まる。彼とてその存在は認識していたことだろう。


「お前が姿を見せてから月二つか? 前より戦局が面白くなった」


 天にはぎらつく太陽、放った炎は燃え盛る。目の前の男は楽し気に鋭い犬歯を見せて笑っているが、ただ鴉一匹でこの男を討てるのかを計算しても答えはかんばしいものではない。


「それは、どうも」

「宣戦布告をしてきた割に、骨のねぇ総司令官で面白みがなかったんだ」


 彼は会話をしたいのか。それともただの時間稼ぎか。ここで彼が時間稼ぎをするとしたら狙いは何なのか。そうしてぐるぐると思考を巡らせている鴉を嘲笑あざわらうかのように、槍を肩に担いだ男は声を上げて笑う。

 どちらも味方の兵はいない。どちらかの撤退てったいした兵がここへ戻ってくることがあればまた状況は変わるだろうが、鴉の側は総司令官のことを考えれば有り得ない。となれば不利なのは鴉の方だ。


「あちこちにいたヒヨコプッルス共よりは楽しませてくれるよなぁ、赤鴉コキノス・コローネー

「……知ったことか」


 鴉の雛鳥はどれだけ死んだ。

 それはただの『数字』であれど、鴉にとっては部下である。何羽死んだかという報告を受けて、けれど誰が殺されたのかなど後にならねば知ることもない。

 抜いたままの短剣を逆手に持って構えた。男は槍を手にしたまま、だらりと腕を下におろした。

 無駄口むだぐちを叩き続けるつもりはなかった。男の目論見もくろみが何であれ、燃える炎が消えてしまえば間違いなくこの場に敵の騎兵が押し寄せてきて、鴉とて逃げ出すことが難しくなる。

 一歩、前へと。その足元に落ちた影からふわりと鴉の羽根が舞い上がる。それを認めた男は変わらず笑みを浮かべていたが、それは楽し気なものから、獲物えものを見付けた肉食獣のような獰猛どうもうなものに変わる。


「使っていいぜ?」


 返答はしなかった。

 男の足元には影がある。太陽は高く影は短く、鴉にとってはあまり歓迎できない状況ではある。それでも荒野に落ちた影の中、爪先を沈める。


「ズィラジャナーフ、我に加護を」


 影の精霊に祈れ。自分に加護を与えて大鴉に選んだその存在に。

 どうして選んだのか、その問いに返る答えはないのだとしても。


「ラハブレワハ、我に守護を!」


 炎と生命と戦いの神に祈れ。たとえその存在を歓迎していなかったとしても、この男をとうと思うのならば。生き延びようと思うのならば。

 鴉の羽根は勢いよく舞い上がり、男の視界から鴉の姿を隠す。その瞬間に影の中にどぷりと沈み込み、水中のような息苦しさの中でほんの一瞬呼吸を止める。そうして、即座に目的の影へと浮上した。

 勢いよく影から飛び出すように、浮き上がった瞬間に地面をって跳躍ちょうやくする。男の背後、その赤い後頭部が見える。る、と心の中でつぶやいて、右手を振り上げ――振り返った男の金色の瞳にとらえられた。

 勢いのまま振り下ろした腕は止まらない。口角を吊り上げた男は槍の柄で短剣を受け止める。鈍い音が響き、薙ぎ払う力そのままに弾き飛ばされた。

 くるりと空中で一回転し、軽い音を立てて地面に降り立つ。足元でかすかに砂が巻き上がり、風にさらわれて砂塵となった。

 男が力強く一歩を踏み出す。野生の獣が突撃するのにも似た速度で距離を詰められ、息を呑んだ瞬間には眼前にせまる。突き出された槍の先を頭上の斜め前に振り上げた短剣で防ぐものの、ぎりぎりと力任せに押し付けられるそれは徐々に徐々にと下がってくる。

 弾き飛ばすことは腕力の差で不可能だ。そう判断して一瞬力をゆるめた。一瞬だけの切っ先のぶれを見逃さず、その隙に後ろへと跳んで退く。

 そのまま即座に体勢を低くして、今度は鴉の方から男のふところに飛び込むように地面を蹴った。

 狙うのならば、首。刃の長さが短い短剣で戦う以上、狙うのはそこしかない。そもそも戦って力でねじ伏せて勝つのは腕力的に不可能で、急所に一撃を入れることを狙う他ないのだ。

 首を狙って振り上げた短剣は、男に腕を掴まれて阻まれた。ねじり上げられる前にとっさにその手を振り払って距離を取る。

 ざり、と足元で砂が音を立てた。しびれた腕を誤魔化すように短剣を左手に一度渡し、右手を軽く振る。

 仕掛けるか、それとも待つか。迂闊うかつなことをすれば殺されると頭の中では警鐘けいしょうが鳴り響く。男が再び一歩踏み込み、今度は胴を薙ぐように払われた槍の先を短剣で受ける。鈍い音を立てて短剣は弾き飛ばされ、砂地の上に転がった。

 拾うか次のものを使うか、それを躊躇ちゅうちょしていれば殺される。腰に吊るしていた予備の短剣を引き抜いて、その鞘は方向を確認することもなく投げ捨てた。

 けれどその動作は、当然すきを生む。男がその隙を見逃すはずはなく、肉薄した男が繰り出した蹴りは鴉の脇腹に入り、その勢いのまま吹き飛ばされる。


「あ、ぐ……っ!」


 一瞬呼吸が止まり、がは、と喉の奥から嫌な音がした。地面に転がされる前に体勢を立て直して男を見据える。

 はは、と楽し気な笑い声がした。男は口角を吊り上げて愉快でたまらないとでも言うように笑っている。


「楽しいなあ、赤鴉コキノス・コローネー! 俺とやり合えるヤツなんて早々いねぇよ、まして女なら尚更なおさらな!」


 炎は勢いを失っている。どれだけ風が吹こうとも、空気を与えようとも、燃えるべき油が尽きてしまえば炎は消える。

 ざわりと冷たい手が鴉の背中を撫でた。笑いながら殺気を発する男に対して短剣を構え直し、地面を蹴る。

 突き出された槍の切っ先は鴉の頬を裂き、ぶつりと何かがちぎれるような音が耳元で聞こえた。それでもと短剣を男の顎の下に押し込むようにして振り上げる。肉を切ったような感触はあれど、ひどく軽い。

 からりと音を立て、地面に鴉の仮面が転がった。

 男の吊り上がった鋭い黄金色の瞳が、顔を晒した鴉を射貫く。一瞬男は瞠目どうもくし、けれどまた口角を吊り上げて笑みを浮かべた。それは楽し気でもなければ獰猛な獣でもなく、どこか突き刺さるような、どろりと絡めとるような、そんな冷たさと狂気をはらむ。

 それでも、鴉はその瞳で黄金色の瞳を真っ向から睨み据えた。

 策は成ったか。それとも失敗したか。再び視界を埋め尽くすほどの鴉の羽根が舞い上がり、地面に落ちる前にふつりと消えていく。

 騎馬が荒野を駆けるけたたましい音が、耳に届いた。

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