最終話 お願いだから、僕の人生に

「回覧板、テーブルに置いとくね」

 リビングからテラスに顔を出して、パンジーに水をやっているお母さんの背中に言った。

「うん」

 お母さんは金属製のじょうろを上げ、僕の方を振り返る。

「なんか、目、赤くない?」

 お母さんは僕をからかうように訊く。

「え、そう?」

 僕はなんとかはぐらかす。でもきっと、お母さんには全てお見通しなのだろう。

「水やり、光基もやる?」

 お母さんは訊く。

「うん」


 花畑に散らばるまばらな水滴が、まるで箱の中にたくさんのビー玉を入れたときみたいに、いろんな色で光る。ガーベラたちは希望しか目に入らないというように、上をまっすぐ向いて咲いている。そこには寂しさなんてものはなさそうで、ちょっとだけ羨ましくなる。

 蝶々が、新しくできた公園に遊びに来る子供みたいに跳ねている。

 僕にはとても眩しくて、それでも、ここに居たいと思った。

 じょうろに水を汲み、ガーベラに水をやろうとしたとき、僕はふと手を止めた。

 一匹の蝶がゆっくりとオレンジ色のガーベラに止まり、少し経って、羽ばたいていった。僕はその様子を目で追って、そして、雲一つない青空に目をやった。空気は、とても暖かかった。

「光基、寒天作ったけど、一緒に食べない?」

 お母さんの言葉で、僕は我に返った。僕はお母さんの方を振り返り、首を縦に振った。


 テラスの端にある銀色のテーブルと椅子を少しだけ動かし、僕とお母さんは向かい合った。お母さんの作ってくれたキウイの寒天を飲み込み、白色のカップに注がれたジャスミンティーを啜った。どこかで嗅いだことのある花畑の匂いを呼び起こすような、淡い香りが広がった。

「ジャスミン、育ててみるのもありかもね。来年やってみようかな」

 お母さんはジャスミンティーを啜った後にふと呟いた。趣味に没頭しているお母さんには、活力がどこかしらに存在しているように見えた。犬小屋を振り返ると、カインは近くの草に鼻をあてていて、少しだけ、何をしたいと思っているのかが気になった。

「どうして、みんな生きるのが上手なのかな」

 僕だけだ。ずっと、止まっているのは。

 ブナの切り株の上に置かれたお皿に、輪切りにされたみかんが乗っている。小鳥が、それを嬉しそうにつついている。

「生きるのがうまい人なんて、いないわよ」

 小さいフォークで寒天を切りながら、お母さんは言った。

「そうなの、かな」

「みんな、強がったりしちゃうものよ。人の弱いところってね、意外と見えないのよ」

 お母さんは、飛び立っていく小鳥を目線で少し追っている。

 暖かい風が、お母さんと僕の髪を揺らす。

「みんな、沢山考えてるのよ。私だって、光基のことを何度も理解しようとしたわ。でも、わからなかった。でもね、光基が中学生の、あのとき、学校に行けなくて、それでも行きたいって言ったとき、私思ったの。光基のことは、わからなくていい。でもせめて、光基が、自分は一人じゃないんだって思える私になろうと思ったの。今でも、ずっとそうよ」

 お母さんの言葉が、優しく耳に届く。

 カップを持ち上げようとして、やっぱりやめる。とてつもない罪悪感が、僕を襲う。

「ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「僕、一回、死のうとした。周りのことも考えないで」

 カップに両手を当てる。指先が温かくなる。情けない顔を、はちみつ色の液体が映し出す。

 ――自分を傷つけることだけは、お願いだからやめて……。

「でも、光基は生きてる。ちゃんと理由があったんでしょ?」

「……」

 僕は、静かに頭を下げる。

「私ね、光基が生まれる前、自分のためばっかり考えて生きてたの。どうやってお金を貯めて、どうやってご飯を食べて、生きていくか。そんなことばっかり考えて、生きてきたのね。でもね、たまにどうしようもなく、なんで自分が生きてるのかわからなくなる時があったの。面白いくらいに、何もする気力が起きないのよ。でもね、光基が生まれて、夫と離婚して、お母さんのこの家に住んでて、気づいたことがあったのよ。私、なんで生きてるんだろう、って思うことが、なくなったのよ。もちろんずっと、自分が崩れないように、自分を保つために、ご飯を食べるために、って考えてるんだけどね、そんなこと考えられないくらい、限界が来ちゃうときがくるの。そのときなのよ、なんで生きてるんだろうって思わなかったの。私びっくりして、そして、気づいたのよ。私、って。私にとって、光基は、そんな光の源みたいな存在だったのよ」

 僕は、ゆっくりと顔を上げる。

 お母さんのその感覚に似たものを、僕は感じたことがある。

「光基も、多分、一緒だったんじゃない? あの子のために、光基は必死だったものね」

 お母さんは空を見上げて、微笑んだ。

「光基、あなたはちゃんと、誰かのために、何かを頑張れる人なのよ。大丈夫。光基はちゃんと、頑張ってるわ」


 ***


 光基へ。

 一応、遺書を書く。たまに、ものすごく怖くなる時があるから、こういうことしてないと、光基の胸で泣くだけじゃ気が済まなくなって、暴れまわってしまいそうだから。でも、まだまだ俺が生きてた場合は、このデータは削除してもらって構わない。

 俺、心配してることが、一つだけあるんだ。

 もし光基が一人になってしまったときのことだ。

 光基は何でも一人で抱え込んじゃうタイプだから、俺がいなくなったとき、きっと光基は、自分をものすごい追い込んじゃうと思うんだ。

 俺は、光基の前でだけ、本心から泣ける。光基は俺の持つ恐怖を受け止めてくれる。でも、光基はそうじゃない。ずっと一人で泣いてる。俺はそのことが、すごく寂しくて、悲しいんだ。

 だから、俺は言いたい。

 光基。自分を取り囲む世界のことを、どうか怖がらないでくれ。辛い時は、誰かに頼っていい。自分が悪いとか正しいとか、そんなんじゃない。辛かったら、誰かに言うんだ。「助けて」とか「辛い」とか、正直にそうやって声に出せ。

 俺はずっと、それをされるのを待ってたんだ。

 なあ、光基。

 俺、光基が俺のために頑張ってくれてるのを知ったときが、人生で一番うれしかった。

 光基は、誰かを救える、光源みたいな人だ。

 だから、自分を大事にして、生きるんだ。


 腰まで深くなった白と赤の沼を、僕は進む。

 体に力は全く入っていない。

 僕の何とか進める速度で、足を動かす。

 体に刻み込まれたものが、この沼に入り始めた時よりも、圧倒的に多くなっている。この沼に響く音が、今は沢山反響している。

 俯いていた僕は、前を見上げる。

 人影が、ある。

 僕は、そこに向かっていくのだ。

 自分が、自分の形を保てるように。

 自分は一人じゃないんだと思えるように。


 僕は、目を覚ました。

 そこは、お母さんの車の、助手席だった。

 ねっとりと絡む眠気が嫌で、僕は腰を動かして、体制を整える。

「あ、起きた。そろそろ、あの子のところよ」

 信号を待つお母さんは、僕の方を見てそう言った。

 信号が青になり、住宅街を抜け、山に向かって、道路を進む。木陰がフロントガラスを通り過ぎ、光が少しずつ優しくなっていく。住宅がまばらになり、やがて見えなくなっていく。

 少し経つと、綺麗に整備された坂の面が見えてくる。

 やがて広い駐車場にたどり着き、開いたところにお母さんは車を停めた。

 まだ、僕への偏見や噂は絶えない。どうやっても、僕という存在の爪痕はどこかに残っている。だけど、僕の信じる自分はここにいる。僕を信じる誰かは、ここにいる。僕の知らない世界は、まだたくさんある。まだ、死ねない。まだ、生きたい。白と赤の夢からは覚めない。気味悪い泥沼からは抜けられない。もし誰かが、僕の人生を知ったのだとしたら、お願いだ。僕の足は、まだ動くんだ。だから、お願いだから、僕の人生に結論を付けないで。

「さ、行くわよ」

 お母さんは、車のエンジンを切る。

 フロントガラス越しに照らされる日光は、とても暑い。

 隣の車を傷つけてしまわないように、僕はそっとドアを開けた。

 


 

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ぼくらとパラフィリア うすしお @kop2omizu

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