第六十話 私は先に行くね

「ねえ、この子の名前って、なに?」

 青空が広がった、まだ少し涼しい朝の公園。隣に座っている梓が、カインの顎を触りながら訊いた。カインは嬉しそうに黒くて丸い鼻を上げ、されるがままといった感じで目を閉じる。カインは、本当にマイペースな子だ。一緒に散歩しながら、こっちがあくびをしてしまう。

「カインくん」

「へえ。可愛い」

 僕は公園を見渡す。明るい緑色の芝生の上でサッカーの練習をしている少年たちがちらほらいる。朝から元気だなと、僕は思う。公園は比較的新しく建てられた一軒家が立ち並ぶ住宅街に囲まれていて、公園は僕の家とは少し遠いところに位置していた。朝日が昇って少し経ったくらいに、僕はカインと散歩することが多くなった。心なしか、外を歩く時間が多くなってきたように思えた。

「それにしても、偶然だよね。こんなところで会うなんて。あの家で、光基君は休んでるんだ」

「うん」

 僕はそれだけを言った。カインはベンチの端まで移動し、ちょこんと座ってあくびをした。

「私さ、ちゃんと、光基君に謝りたいな、って思ってたの」

「なんで?」

 僕は梓の方を見る。

 梓は近くのコンビニで買ってきたのであろう、ペットボトルの琥珀色のストレートティーを持つ両手を見下ろして、言った。

「私、自分の事しか考えてなかったなって。なんだかね、沢山、自分に言い訳ばっかりしてた気がするの。うまく言い表せないけど」

「必死な時は、だいたい自分の事しか考えられないものだよ」

「まぁ、そりゃあ、そんなもんなんだろうけど」

 サッカーのユニフォームを着た少年がボールを受け止めきれなかったのか、こちらの方にボールが転がってきた。すみませーん、ボールこっちくださーい! と言う少年の声が、瑞々しい公園と住宅街に、真っ直ぐに広がっていく。芯のこもった声だと思った。

「ボール触るの久しぶりだな」

 なんて言って僕はベンチを立ち、通路の点字ブロックの前でボールを受け止め、両手で少年に投げ返した。ありがとうございます! と少年は笑ってボールを受け取り、友達の方へと走っていった。

 ベンチの方を振り返ると、梓はストレートティーを一口飲んでキャップを閉め、嬉しそうに笑った。カインはまたあくびをしていた。

「なんか、元気そうだね。いろいろあったから、心配してた」

「こうやって休めてるからかもね。発作みたいな感じで、思い出しちゃうときはあるけど」

 傷つけられた心は、簡単に修復できるものじゃない。たまに、どうしようもない寂しさに襲われて、ベッドの上で一日中枕を殴りながら泣きはらす日があったり、食事が何一つ喉を通らない日があったりするくらいだ。本当にひどい日は、一日中何もしゃべらずに、何を起こす気力もなく部屋の隅で何もしないなんてこともある。かさぶたが出来て、それを馬鹿みたいにかきむしるような、そんなことの連続だ。きっとこの傷は、一生をかけても治ることはないのだと思う。

「そう」

「まあでも、落ち着きつつはあるかな」

「よかった」

 僕は隣でおとなしく座っているカインの頭を撫でた。ひらひらとした耳がひょこっと動く。

「私ね、友樹くんと一緒に住もう、っていう話になったの。友樹くんとつきあうことにしたの、私」

「へえ」

「私も理由があって実家にいるわけだけどさ、友樹くんが、大学を卒業したら一生に住もうって言ってくれてさ、いま、どんなところに住みたいかとか、一緒に考えてる。私も、もっと社会に出る勉強しなきゃって思って、バイトとか結構やってる」

「うん」

「そしてね、最近、趣味ができたの。ガーデニング。植えた花が、沢山育っていっていくのを見るのが、すごい楽しいの。この子は湿気を好まないから水はやりすぎないとか、定期的に肥料を与えなきゃいけないとか、他にも、バラの花の棘は意外と指でぽきっと折れちゃうとか、百合は開花すると思ってたより匂いが強いとか、そんなことを知るのが、最近凄い好きで」

 自然に溢れ出た言葉から、梓の小さく弾むような感情が汲み取れる。

「僕のお母さんも、最近はまってるよ。うちの庭少し広いから、今凄いことになってる」

「へえ。見てみたいな、その庭。大きかったもんね」

「じゃあ、帰ったら写真送るよ」

「うん」

 きっと、梓は生きる上で、ちゃんとした最適解みたいなものを見つけられたのかもしれない。自分が楽しいと思える道を、自分なりに見つけ出したのだろう。

「じゃあ、私は先に行くね」

 そう言って、梓はベンチを立って、僕の前を横切って公園の出口へと歩いて行った。梓は僕を振り返り、手を振って言った。

「じゃあ、またね。光基君、あとカイン君!」

 僕も、梓の声に手を振って応えた。


 ***


「庭、すごい豪華になったね」

 僕は犬小屋にカインを入れて、周りを見渡す。ピンクや黄色やオレンジのガーベラが咲いていたり、複数ある植木鉢には薄桃色のシクラメンやラベンダーなんかがまっすぐ生えていたり、小さくてかわいらしい花が絨毯みたいに咲いていたり。庭の真ん中のブナの木がなくなっても、こんなに綺麗になるんだと、僕は思った。

「私、意外と才能あるのかもね」

 なんて言いながら、お母さんはレンガの段の上に咲くネモフィラの近くに生えている雑草を取っていた。

 すると、リビングの中でピンポンと音が響いたのが分かった。

「ごめん、玄関出てくれない? 手が塞がっちゃって」

「いいよ」

 僕はテラスの端にある石の段に靴を置き、リビングに入ってカメラを覗いた。

 その時、僕の心臓は一瞬だけ止まった。

 今までかかわってきた人たちの中で、「この人と再会した時にどう話せばいいのだろう」ともっとも想像した人だったからだ。

「はい。開けますね」

 僕は応答して、玄関の鍵を開けた。僕が中学生の時よりも少しだけ老いているように見えたけど、整えられた格好をしていた。

「光基君、お久しぶり。回覧板届けに来たの」

 優のお母さんは、優しい目で僕を見ていた。中学生の時の僕を見る目と、今の僕を見る目は、なんだかあまり変わっていないように思えた。

 外の日差しが一層強くなり、澄んだ空気の玄関が少し暖かくなる。影になった玄関前に、明るい光が斜めに入り込む。

「はい……」

 僕は優のお母さんから回覧板を受け取った。僕はただ、何も言えずに黙っていた。優のお母さんは、僕よりもずっとずっと大きな痛みを味わったはずだ。優と一緒に暮らしたいと願ったのは僕なのだ。優の葬式は親族だけで行われていて、長い間、僕は優のお母さんとは話していなかった。僕を恨んでいたって、おかしくはない。

 回覧板を持つ手が震えた。

 僕のそんな気持ちを汲み取ったのか、優のお母さんはふふっと笑って、言った。

「私ね、光基君と会えたら、言いたいことがあったの」

 僕は、優のお母さんの表情を見る。僕を恨んでいるとか、憎んでいるとか、そういった感情は何も含んでいないと、誰でもわかる表情だった。

「そうね、優が小さい時にね、私ちょっと家事に必死になってて優から目を逸らしたすきに、優が家から飛び出しちゃったことがあったのね。私、必死に優を探して、夕方前くらいだったかな、優が家に戻ってきたのね。脚に大きめの絆創膏が貼ってあって、私、これは誰がしてくれたの? って訊いたの」

 僕の胸が、一気に締め付けられる。僕と優が、最初に出会ったときのことだ。庭で花の水やりをしていると、柵越しに男の子が歩いているのが見えたのだ。脚にだらだらと血を流しているのが見えて、でもその子はとても無表情だったから、僕はものすごい驚いて、初対面だからとかそんなの関係なしに、優の手当てを何とか母親がしてくれたのを真似てやったのだ。

「そしたら、『友達ができて、その子がしてくれた』って言ったの。私、その時、うれしくて泣きそうな気持になったの。だって、小さい頃はみんな優の病気を面白おかしく笑ったり、怖がったりして、優と友達になってくれる人はいなかったもの」

 優の傷を治した思い出が、沢山の思い出が、頭を過る。どれだけ歩いても消去することのできない思い出が確かに実在したんだと、この世界が訴えかけてくる。

「光基君が居なかったら、優はきっと、誰かに色んな感情を届けることをしなかったと思うの。友人関係でも、小説家のこともそう」

 優のお母さんは、自然に笑う。

「だから私、光基君に感謝してるの」

 僕は、内側からせり上がってくる感情に、耐えきれない。

「光基君、優のことを見守ってくれて、本当にありがとう」

 僕は、静かに泣いた。僕の声が、庭で掃除をしているお母さんに届くのが嫌だったから。

 そうか、そうだったんだ。

 僕が過ごしたあの日々は、間違いなんかじゃ、なかった。

 あの日々は、僕という存在が、誰かのためになった、確かな証なのだ。

 僕は回覧板を持っていない左手をぎゅっと握り、涙を拭って、何とか声に出した。

「ありがとう、ございました……」

 みんな、決して消えない傷を抱えて、何とか道を探って、生きている。歩いている。時間とともに、前に進んでいる。

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