第五十九話 先輩のおかげで

 風の吹いた草原みたいにさらさらとした茶色い毛並みを、僕は慣れない手つきで撫でてみる。気持ちよさそうに頭を上げ、その子は目を閉じる。

 僕は、テラスの前に腰かけて、古びた赤レンガに立っているその子を見下ろす。

「私、ずっと犬を飼いたかったのよ」

 お母さんは僕の目の前で言った。お母さんの目が光に満ちていた。

 冬が過ぎ、温かい春がやって来た。そんなある時、母が犬を飼ってみたいと言い出したのだ。絶対にかわいいと思うの、と言うお母さんに僕は驚いたが、その提案を断ろうとは、なぜか思えなかった。絶対に消えない傷の中で、少しずつだけれど、軽くなっていった心があったからかもしれない。何かに触れてみたいと思った心が、あったからかもしれない。

「それにしても、犬小屋まで建てるって、どれだけ本気なの」

 僕は少し微笑みながら言う。

「いいじゃない。やりたいと思ってたことなんだし」

 僕はお母さんの言葉を聞きながら、朝日に満ちた庭を見渡す。どことなく綺麗になっているような、そんな気がした。植木鉢が増え、土しかなかったはずのスペースにはコデマリだったりネモフィラだったりがちらちらと風に揺れていた。かわいらしい白と青の色が、庭に小さい生命を宿しているような気がした。

「ねえ、ガーデニングでも始めたの?」

 僕は庭を見渡しながら言う。

「うん。お母さんがせっかく遺してくれたのに、綺麗にしなかったらもったいないなって思って。まあ、お母さんほど上手くやれる自信はないけどね」

 母からドッグフードを渡された柴犬は、喜んでそれを食べ、犬小屋の前に突っ伏して大きなあくびをした。

 お母さんはしゃがみながら、柴犬を愛おしそうに見下ろす。

「ねえ、光基」

「なに?」

 とても切ない表情をしたお母さんの横顔を見る。

「この子の名前なんだけど、『カイン』くん、ってどうかな? 英語のカインド、から取ったんだけど」

 お母さんは、ずっと柴犬を見ている。お母さんがどうして『カイン』と名付けたのか、僕は少しだけ考えて理解した。僕はふふっと笑って、言った。

「いいよ。『カイン』、今日からよろしくね」

 僕はもう一度、カインの頭を撫でた。明らかな命の原動力を感じて、ああ、この子は生きてるんだと、僕はそう思った。


 二階に上がって自室に入ると、スポットライトを照らすように、ベランダに繋がる引き戸からの光が、机に置かれた優の原稿を照らしていた。あの時、原稿を渡された時から、まだ優の小説を読んでいなかった。あの時の僕では、優の言葉を聞くことの重みに耐えられないと思ったからだ。余裕のない時に、残虐なミステリーを進んで読まないのと同じように、僕はまだ優の小説に手を出せていなかった。今まで、優の残してくれたものがここにあるというだけで、僕は冷静になれたのだ。

 だけど、こんなに晴れている日なら、優の小説を読める気がした。

 僕はリビングからコーヒーを注いできて、勉強机の椅子に腰を据え、最初の文章を読み始めた。


 ***


 やっぱり優は凄いと思った。

 小説を読んでいる最中、僕はぐしゃぐしゃに泣いたり、発作でも起こったのではないかと思うくらいに胸が苦しくなったりすると思っていた。でも、そんなことはなかったのだ。

 主人公のモデルは、どう考えても僕だった。読んでいて、僕はすぐに分かった。この作品は、優の処女作『パラフィリア』のアンチテーゼだ。普通の人とは違った性的嗜好を持っている主人公の話だという事は共通していた。

 でも。

 主人公たちが、幸せそうだったのだ。

 僕はそんな様子を心躍らせながら頭の中で思い描き、ときにはしょうもないジョークで吹き出してしまった。今までの優の小説とは少しだけ違う、優しくて暖かい世界が、そこにあったのだ。

 高校生の主人公たちは全員変わった何かを持っていて、それでも文化祭でバンドをやろうなんて言って、青春を謳歌していた。主人公の性癖が男友達のキャラクターにばれてしまったとき、その友達は「お前もなかなかド変態じゃん! いい性癖しててめっちゃおもろいじゃん! ちなみに俺、BL好きの腐男子だぜ? みんな変なところくらいあるって!」なんて主人公をフォローしていたのだ。優のぶっ飛んでいるところはまだまだ健在で、僕はなんだかまるで、優に不器用に励まされているような気になったのだ。この小説は間違いなく、優にしか書けないものだと思った。夜になったころには、僕は最後の一文を、微笑みながら読んでいた。

 そして僕は、最後の優の遺書を、読み始めた。

 

 夜ご飯を食べ終えて、自室に入ると、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。机に置いてあるスマートフォンの画面を見て、誰かからラインの通話がかかってきたことが分かった。

 そのアイコンを見て、僕は一瞬だけ、身体が固まった。もう二度と関わることのない人だと思っていたからだ。でも、僕は何とか電話を出た。

「あ、あの、清水先輩、ですか?」

 懐かしい声が、スマートフォン越しに聞こえる。

 僕はベッドの上に蹲って、胸を押さえながら、返事をした。少し前から、家族以外の他者と関わる時に、少しだけ緊張することが多くなった。

「ひ、久しぶり……。司くん」

 僕はやっとそれを声に出す。

「お久しぶりです。お元気ですか?」

 純粋だけど、気まずくなるのを恐れているような声だった。

「う、うん」

「高瀬悠先生のことは、知ってます……」

 僕は、何故、どうしてこんな時期に司が僕に電話をかけてきたのか考えた。やはり、事件のことだろうか。そういえば、司は優の小説の愛読者だったな、と僕は思い出す。

「でも、それより、僕は光基さんに他に言いたいことがあって、通話したんです」

 意を決したような勢いで、司は言った。

「ぼ、僕、行きたい大学に受かったんです!」

「……え?」

 予想していなかった言葉が飛んできて、僕はそんな情けない声を出した。

「あ、あの! 僕、高校生の時、不登校になっちゃう日が何度かあって。でも、自分が情けなくなってきて、頑張らないとって思って、学校行ったんです。不登校が悪いとか、そういうことじゃなくて、僕自身がそうしたいと思ったから……」

 必死に、司は言葉を紡ぐ。

「よ、要するに、清水先輩が居なかったら、あの時叱ってくれなかったら、僕、へなちょこな人間のままで終わってたと思うんです。行きたい大学になんて、行けなかったと思うんです。先輩のおかげで、僕、頑張れたんです。本当にありがとうございます!」

 司の真っ直ぐな言葉が、何だかかわいらしく思えた。

 僕は、司の頬を叩いたあの日のことを思い出す。確か、僕はあの日、もっと先輩としての姿があったんじゃないかとか言って、後悔してたっけ。

 そうか、と僕は気付く。

 そうか。僕は、誰かの人生を救ったのだ。誰かの人生に、大きな影響を与えたのだ。僕とは関係なかったはずの人を、笑顔にできたのだ。

「ありがとう、司くん」

「いえいえ。っていうか、高瀬悠先生の新刊、読みましたか?」

 僕を傷つけてしまわないかと心配なのだろう、探るように司は言った。

「うん。読んだ。読み終えたよ、ついさっき」

「どう、でしたか? 僕、受験が忙しくて読めてなかったんです」

 僕は、司の必死な言葉にふふっと笑みをこぼす。一日でこんなに笑ったのは、本当にいつぶりだろう。

 僕は、まるで自分の書いた小説であるかのように、自慢げに言った。

「めちゃくちゃ面白いよ。ぶっ飛んでて」 


 


 


 

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